リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 打算なき劇薬
夜の温室は、昼の華やぎが噓のように静まり返っていた。硝子張りの天井越しに差し込む月光が、白い花弁と濡れた葉を青白く照らし、湿った土の匂いが重く沈んでいる。
グラクトは、奥まった石造りの長椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
昼間、彼は裁いた。学則に従い、事実に従い、上位貴族の子息に有罪を言い渡した。それ自体に後悔はない。むしろ、あの瞬間だけは確かに、自分の手で王の役目を果たしたという手応えすらあった。
だが、その判決の代償は、思った以上に重かった。役員たちは表向きこそ従っていたが、どこか慎重に距離を測っている。旧来の秩序に甘えていた上位貴族たちは、表立って逆らえないぶん、沈黙のうちに敵意を深めていた。そして自室へ戻れば、王妃の管理下にある奉仕役の令嬢が、何事もなかったように待っている。
そこに悪意はない。彼女もまた、王家の血統と品位を守るための役目として、その場に置かれているだけだ。だからこそ、苦しかった。相手の名も、家の事情も、何を思ってそこに立っているのかも知らない。知ろうとすることすら許されず、ただ定められた制度の歯車として向き合わされる。王家の正統性を守るための正しい仕組みであることは、頭では理解している。だが、その正しさが、今夜のグラクトには鉛のように重かった。
自分は本当に、誰かに必要とされているのか。それとも、血統と役目の中心に据えられた、空っぽの器にすぎないのか。
その時だった。
控えめな足音が、湿った石畳の上で止まった。
「――――やっぱり、ここにいらしたんですね」
振り向いたグラクトの視界に、月光を背に立つ少女の姿が映る。レティシア・ラナ・ハーテスだった。
彼女は少し息を弾ませていた。だが、その表情には後ろ暗さも、気遣うべき空気を読む慎重さもない。むしろ、どこか嬉しそうですらあった。
「君は……こんな時間に、どうしてここへ来たのだ」
「たまたまです!」
グラクトの問いに、レティシアは明らかに偶然ではない、弾むような声で即答した。だが、その不自然さを咎める気力は、今のグラクトには残っていなかった。疲れたように目を伏せる彼の様子を見て、レティシアはためらいなく一歩近づいた。
そして、あまりにも真っ直ぐに言った。
「あの、私……どうしても言いたくて。今日の裁判、本当にすごかったです。誰が相手でもちゃんと裁いて、身分や空気に流されなくて……ああいうの、すごく格好いいと思います」
政治的な配慮は微塵もない。あの判決がどれだけ多くの不満と軋轢を生むのかも、この少女はおそらく理解していない。だが、だからこそ、その言葉は異様なほど澄んでいた。
役員たちは制度を見ていた。貴族たちは権益を見ていた。王妃は威光を見ていた。けれど今、目の前の少女だけは、裁判長でも第一王子でもなく、ただ『今日、あの場で言葉を下した自分』を見ているように思えた。
気づけば、グラクトは問い返していた。
「……君は、怖くなかったのか。あの場に立つこと自体が」
「怖かったです。平手打ちは痛かったし、何が起きたのか一瞬分からなくなりましたし」
レティシアは少しだけ頰をしかめ、それからふっと笑った。
「でも、それでも殿下がちゃんと裁いてくれるって、なぜか思えたんです」
その言葉に、グラクトの胸の奥で何かが軋んだ。
思えば、彼はずっと正しくあれと求められてきた。王家の血を汚すな。品位を損なうな。光の象徴であれ。だが、信じていると言われたことは、あまりなかった気がした。
「……妙なことを言う。普通なら、今日の判決を見て、私に近づくのを躊躇うはずだ。私は自らの手で、貴族の特権を切り捨てたのだぞ」
グラクトが苦く笑っても、レティシアはきょとんと首を傾げるばかりだった。
「どうしてですか? だって殿下は、裁くべきことを裁いたんですよね? 皆がどう見ているかなんて関係ありません。私は、私が見たものしか知りませんから。今日の殿下はちゃんと自分で決めて、自分で言葉を出してました。だから、格好よかったんです」
何の含みもなく言い切る。
貴族社会で生きる者の言葉としては、あまりにも危うく、あまりにも無防備だった。だが、今のグラクトにとって、その無防備さは毒のように甘かった。
制度の一部として待つ令嬢。威光のために頭を垂れる側近たち。判決の意味を秤にかける貴族たち。そのすべての外側から、この少女だけが、何の役目も背負わずに自分へ言葉を投げてくる。
そう錯覚した瞬間、張り詰めていた心のどこかが、音もなく緩んだ。
「……少しだけ、ここにいてくれないか」
掠れた声で頼むと、レティシアの目はぱっと明るくなった。
「もちろんです!」
何のためらいもない快諾。その返答に、グラクトは一瞬だけ目を閉じた。救われた、と思った。王でもなく、裁判長でもなく、ただの自分を肯定してくれる場所が、ここにあるのだと。
そしてレティシアの方もまた、胸の中で高らかに確信していた。
『――――やっぱりそうだわ! 夜の温室イベント、完全に成功してる!』
彼女にとってこれは、推しの心の扉が開く特別な場面でしかない。彼の背負う制度も、血統も、重圧も、その本当の重さまでは見えていない。
同じ長椅子の端に腰を下ろした二人のあいだには、月光に照らされた白い花々が静かに揺れていた。
片や、制度に押し潰されそうになった末に、打算なき承認へ縋ろうとする王子。
片や、現実をゲームの延長線上でしか捉えられないまま、攻略の進展に胸を躍らせる転生少女。
互いに見ているものは、まるで違う。それでもこの夜、二人は確かに同じ温室の中にいた。
だからこそ、その出会いは甘く、致命的だった。
それは傷ついた王にとって、あまりにも都合のよい救済であり、同時に、王家の血統と秩序を根底から揺るがしかねない、打算なき劇薬の始まりでもあった。