リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 異常行動の観測と、謎の言語
同じ夜。
生徒会室の表扉が閉ざされ、さらに奥まった記録室が「誰にも聞かれないための部屋」として使われていた。
机の上には、ティナがここ数日でまとめ上げた報告書の束が整然と並んでいる。灯りは最低限。窓には厚いカーテン。室内にいるのは、第二王子リュート、西のヴィオラ、そして報告役として呼ばれたティナだけだった。
ティナは一礼し、最上段の紙をめくった。
「では、ご報告いたします」
告げるその声音に私情はない。あるのは、観測した事実を、順序立てて誤差なく提出する官僚の冷たさだけだった。
「対象レティシア・ラ・ハーテスの行動原理は、一貫して非合理です。家格、現在の家計、王宮と学園の権力構造、いずれの前提にも即していません。まず、第一王子殿下への接近頻度が異常です。彼女は周囲の視線や上位貴族からの敵意を認識している様子はありますが、それを『危険』として回避するのではなく、『想定された障害』として処理している節があります」
リュートが指先で机を軽く叩き、低く問い返す。
「……想定された障害、とは?」
「通常の令嬢であれば、恫喝や冷遇を受けた時点で接近をやめます。ですが彼女は違います。拒絶、無視、敵意、いずれを受けても『予定通り』とでも言いたげに、むしろ行動を強めています。つまり、嫌われても退かないのではなく、嫌われること自体を織り込み済みで動いているのです」
ティナは一切揺るがない声で論理を紡ぐ。
「しかも不可解なのは、その判断が一見すると無秩序でありながら、第一王子殿下の心理的な死角だけは外していない点です。本日、温室付近での接触を含む観測によれば、彼女は殿下に対し、学園裁判の判決内容や政治的効果ではなく、『格好よかった』『私だけは分かっている』といった、極めて情緒的な言葉を選んでいました。殿下が現在、周囲から求められている『次期国王としての威光』ではなく、『一個人としての承認』に飢えている点を、最初から知っているかのようでした」
報告を聞いたヴィオラは腕を組み、細く息を吐いた。
「本当に気味が悪いわね。権力構造は何一つ分かっていないくせに、刺さる場所だけは外さないのだもの」
「同感です」
ティナは簡潔に応じ、さらにもう一枚の紙を抜き出した。
「加えて、独り言の中に、学園では通常用いられない語を複数確認しています。意味は不明ですが、反復していたため記録しました」
そう前置きした上で、ティナは紙面を視線でなぞりながら正確に読み上げた。
「――――『イベント』。『スチル』。『ルート』。『好感度』」
その瞬間、部屋の空気が、わずかに止まった。
リュートもヴィオラも、表情だけは動かさなかった。だが、ティナほどの観察眼があれば十分に分かる程度には、二人の沈黙は不自然だった。
「……殿下?」
ティナの静かな問いかけに対し、リュートは一拍置いてから、ごく平坦に答えた。
「少なくとも、この国の一般的な令嬢が自然に使う語彙ではないな」
「ええ。しかも本人はそれを隠そうとしていません。つまり、あの令嬢は自分だけ異なる前提で世界を認識していながら、そのズレを異常だと思っていない可能性が高い」
ヴィオラは肩をすくめた。
「厄介ね。意味を秘匿している暗号というより、本人にとっては『普通の単語』なのでしょう。だからこそ零れる」
「その通りかと」
ティナは短く返し、新しい紙へ、二人の反応まで含めて簡潔に追記した。
しばしの沈黙の後、リュートが口を開いた。
「……対象への接触方針を修正する。あの単語について、直接問い詰めるな。あの令嬢は、自分が何を漏らしているのか分かっていない可能性がある。圧をかければ閉じるだけだ」
「引き続き、友人としての継続観測を優先しますか」
ティナの確認に、リュートは静かに頷いた。
「ああ。自然に話させろ。何に安心し、何に怯え、何を『当然』と思っているのかを拾うんだ。言葉の意味を今すぐ解く必要はない。まずは、彼女の思考の土台そのものを観測したい」
ヴィオラもそこで冷徹に補足した。
「ハーテス家の現状も、もう一段深く洗いたいわ。一年前の相場暴落以降、借財がどう膨らんだのか。父親が今どこまで追い詰められているのか。あの娘の認識と現実の落差が、どこで生まれているのかを見たいの」
ティナは迷いなく書き留めた。
「承知いたしました。家計記録、王都側の借用書、子爵家の出入り商人、奉仕候補選定時の周辺証言まで当たります。必要であれば、内務省側に残る非公開の負債台帳との照合も試みましょう」
「そこまでやってくれ」
「はい。では、引き続き『友人』として接触しつつ、対象の認識構造とハーテス家の現状を精査いたします」
ティナは報告書をまとめると、音を立てぬよう後退し、そのまま静かに室外へ消えた。
扉が閉まる。気配が遠ざかる。廊下の向こうからも完全に人の存在が消えたことを確認してから、ようやくヴィオラが椅子の背に深く身を預けた。
「……今の、完全に日本語だったわね」
その瞬間まで凍ったように静かだったリュートが、ゆっくりと息を吐く。
「ああ。間違いない」
短い断言。それだけで、二人の間には十分だった。
ヴィオラは苦い顔のまま続けた。
「あれは知識として『知っている』程度ではないわ。『イベント』『スチル』『ルート』『好感度』――――あれは、現実を現実としてではなく、物語か遊戯の盤面として処理している人間の語彙よ」
リュートは机上の報告書へ視線を落としたまま、低く呟いた。
「……同郷、か」
だが、その声に同胞を見つけた安堵はなかった。むしろ、確認してしまったことへの冷酷な嫌悪感の方が強い。
「だが、君や僕のように、この世界を生きるために論理的思考の前提を書き換えた者ではない。むしろ逆だ。あの令嬢は、現実の盤面を、未だに別の何かとして読み替えている」
ヴィオラは皮肉げに口元を歪めた。
「開発環境も仕様書も読まずに、実機へ素手で触ってるようなものね」
その言い方に、リュートは小さく机を二度叩いた。
「……しかも厄介なのは、本人に悪意が見えないことだ。間者ならまだ扱いやすい。利害で動く人間なら、脅せるし、買えるし、切り捨てもできる。だが、善意と妄想だけでこの位置まで踏み込んでくる者は、論理では止めにくい」
「同感だわ。自分が何をしているか理解していないからこそ、止めるための交渉材料すら嚙み合わない」
ヴィオラは報告書の一角を指先で叩いた。
「しかも、彼女は、王家の血統管理の枠外にいるまま、第一王子へ接近している」
その一点こそが、この件の本質だった。
政治的野心を持つ女であれば、まだ交渉ができる。地位が欲しい、金が欲しい、家を救いたい――――そうした欲望ならば、条件のすり合わせも、牽制も可能だ。だが、もしそうではないのなら。
リュートは静かに結論を口にした。
「彼女は工作員じゃない。少なくとも主観的には違う。……現実をゲームか何かと誤認したまま、純粋な好意だけで兄上へ突撃している」
「最悪ね」
「最悪だ」
即答だった。
リュートは椅子の背にもたれ、目を細める。悪意ある敵なら対処法はいくらでもある。だが、悪意なき愚か者は、もっとも制御が難しい。
「しかも同郷だなんて。だからこそ余計に厄介だわ。現代日本の平和な感覚のまま、この血統主義の盤面に踏み込んでいる。その危うさに本人だけが気づいていないなんて……反吐が出る」
ヴィオラが吐き捨てた言葉に、リュートは同調の感傷を微塵も滲ませなかった。
盤面に現れてしまった以上、無かったことにはできない。
「排除するには早い。まずは観測だ。どこまで無知で、どこからが修正不能なのかを見極める」
「利用価値は?」
「ある」
リュートは迷わず答えた。
「兄上にとって、あれは打算なき承認として作用している。制度の外から差し込まれた、極めて危険な劇薬だ。今はまだ、切るより観察する方が盤面への情報価値が高い」
ヴィオラは苦い顔で笑った。
「本当に嫌な評価ね」
「だが正確だろう」
「ええ。認めるわ」
二人の冷徹な視線が、報告書の上で交わる。
そこに記された言葉の一つ一つが、甘い恋愛譚などではなく、この王国の血塗れの現実に直結していた。打算なき好意。制度を知らぬ無邪気さ。同郷の言葉。そして、王家の血統管理という最大の地雷。
そのすべてを抱えたまま、レティシア・ラナ・ハーテスという少女は、無自覚に盤面の中央まで歩み込んできていたのだ。
リュートは最後に、報告書を静かに閉じた。
「――――監視を継続する。彼女が夢から醒めるのが先か、それとも盤面そのものを壊すのが先か。見極める価値はある」
薄暗い記録室の中。
異世界の学園という箱庭に、二人目の、そしてあまりにも危うい『同郷の異物』が正式に認識された瞬間であった。