リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 同郷の異物の解析
翌日。
昼休みの終わり際、人気の途絶えた西棟の回廊で、ヴィオラは一人きりで立っていた。
窓の外では、春先のまだ冷たい風が中庭の若木を揺らしている。回廊は静かで、靴音ひとつよく響いた。そこへ、どこか浮き立った足取りで近づいてくる影がある。レティシアだった。
食堂での一件を経てもなお、彼女は怯え切ってはいなかった。むしろ、裁判という大きな出来事を経たことで、これから攻略対象たちとの関係が本格的に動き出す段階へ入った、とでも思い込んでいるような顔つきをしている。
ヴィオラはその能天気な様子を一瞥すると、手にしていた数枚の紙束を、わざと床へ落とした。
「あら、困ったわ」
ぱらり、と羊皮紙が散る。
レティシアは反射的に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? 今、拾います――――」
勢いよく屈みかけた、その瞬間だった。
ヴィオラは、ごく自然な声音のまま、この世界の人間が決して口にしない言語を滑り込ませた。
「……ちょっと拾うの、手伝ってくれる?」
空気が止まった。
レティシアの動きが、まるで糸を切られた人形のように途中で凍りつく。伸ばしかけた手は宙に留まり、瞳だけが大きく見開かれた。息すら一拍遅れたようだった。
「え……」
喉の奥で掠れた声が震える。
「い、ま……にほん、ご……?」
それで十分だった。
ヴィオラは何も答えず、ただ静かにレティシアを見つめた。
遅れて、自分が何に反応してしまったのかを理解したのだろう。レティシアの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「な、なんのことですか……?」
取り繕いはあまりにも遅かった。声は震え、視線は泳ぎ、何より“日本語”という単語を即座に認識し、それをこの場で口にしてしまった時点で、答えはもう出ている。
ヴィオラはしゃがみ込み、散った紙を一枚ずつ拾い上げながら、淡々と言った。
「安心しなさい。ここで大声で騒ぐほど、私も暇じゃないわ」
レティシアは何か言いたげに唇を開いた。けれど結局、言葉にはできないまま立ち尽くしている。
ヴィオラは最後の一枚を拾い上げ、静かに立ち上がった。
「貴女が何者で、どこまで分かっていて、どこまで分かっていないのか。……それは、これから考えることにする」
それだけ告げると、彼女はそれ以上追及せず、レティシアの脇をすり抜けて回廊を後にした。
あえて逃げ道を残したのは慈悲ではない。ここで下手に追い詰めれば、あの少女はただ怯えて閉じるだけだ。今必要なのは自白ではなく、正確な解析だった。
そしてその日の夕刻。
裏の生徒会室で、ヴィオラはリュートと向かい合っていた。
室内には二人きりだった。昼の回廊で起きた一件を報告し終えると、リュートは目を伏せたまま短く息を吐いた。
「……確定だね」
「ええ。あれは間違いないわ」
ヴィオラは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「少なくとも、『前世の記憶がある』だけじゃない。日本語に反応した速度と動揺の仕方からして、日常の思考言語としてまだかなり残っている。たぶん、あの子の中ではこの世界の現実より、“あちらの知識”のほうが上位にある」
リュートは沈黙したまま、机上の記録を指先でなぞった。
ティナの報告。イベント、スチル、ルート、好感度。そこへさらに、日本語への即時反応が加わる。材料はもう十分だった。
「……同郷の転生者」
静かな断定だった。
「だが、君や僕のように、この盤面を現実として再定義して生きている類ではない」
「ええ。そこが一番まずいのよ」
ヴィオラの声音は冷えていた。
「私たちは、この世界が現実だからこそ、言葉を選び、制度を読み、死ぬ気で適応してきた。けれどあの子は違う。現実に適応しているんじゃない。現実のほうを、自分の知っている“何か”に読み替えて処理している」
昼間のレティシアの顔が脳裏に蘇る。
あれは敵の顔ではなかった。もっと質の悪い、何も分かっていない者の顔だった。
「まるで、舞台の上に立っているつもりなのよ。台本があって、決まった役回りがあって、自分が選べば物語が動くと本気で信じている。……でも、ここはそんな優しい盤面じゃない」
リュートは短く頷いた。
「工作員ならまだ扱いやすい。利害があるなら交渉も脅迫も成立する。だが、現実を“ゲーム画面”として見ている相手には、通常の政治的前提が通用しない」
「そう。しかも、本人に悪意がない」
ヴィオラは吐き捨てるように言った。
「悪意がないからこそ、どこを踏み抜いているのか自覚がない。王妃の管理下にある血統の盤面に、身分も家も理解せず、素手で突っ込んでいく。これほど厄介なバグもないわ」
『――――バグ』
その単語に、二人の間だけで通じる前世の感覚が滲む。
リュートはそこでふと視線を上げた。
「君、何か思い出した顔をしているね」
ヴィオラは一瞬だけ黙り、それから机の上に指を置いてゆっくりと言った。
「……一年前よ。学園入学直前。王妃様から“グラクトの身の回りを整える奉仕候補の令嬢たち”の名簿を渡された時のこと」
その言葉だけで、空気がさらに冷えた。
リュートは何も言わなかったが、その眼差しだけで続きを促した。
「私はあの時、年齢、家格、家の困窮度、逆らえなさ、あと……見た目まで含めて、王妃様が後で管理しやすい娘たちを選別させられたの。正直、吐き気がしたわ。誰が一番救われるべきかなんて基準で、そんな名簿を読む羽目になるなんて」
ヴィオラは皮肉げに笑った。
「でも今、ティナの報告とハーテス家の名前を照らした時、引っかかった。全部を覚えていたわけじゃないけれど……レティシア・ラナ・ハーテス、その名前は確かに候補の中にあった」
リュートの指先が止まる。
「理由は」
「家がもう崩れかけていたのよ。売れるものを全部売って、それでも足りず、最後に娘の身体を差し出す段階まで来ていた。……ただし、年齢で弾かれた。当時の彼女はまだ規定未満だったから」
そこまで言って、ヴィオラは冷ややかに結論づけた。
「つまり、彼女は一年前の時点で“システムの入口”までは来ていた。でも、正式には組み込まれていない。避妊処置も、身分調整も、王妃による管理も受けていない、完全な枠外のまま今に至っている」
それはあまりにも危険な事実だった。
奉仕者として制度の中に組み込まれているなら、まだ管理できる。だがレティシアは違う。王家の血統管理システムの外部にいるまま、第一王子へ接近している。しかも本人は、その危険性を政治として理解していない。
「……なるほど」
リュートの声は、ほとんど無感情だった。
「彼女は借金苦から這い上がるために政治的打算で動いているわけじゃない。もっと悪い。現実の破滅を、物語の初期設定か何かだと誤認している」
「ええ」
ヴィオラは頷いた。
「前世の記憶を持つ人間が、現実を生き抜くために知識を武器として使うのならまだ分かる。けれどあの子は逆。知識を使って現実を読み解いているんじゃない。自分の知っていた“物語らしき何か”に、目の前の現実を無理やり当てはめてる」
「プレイヤーの視点だな」
「しかも、仕様書も読んでない最低のプレイヤーよ」
ヴィオラの口元に、冷たい嘲笑が浮かんだ。
「開発者でもない。盤面の構造も、フラグの分岐も、致命的なバグの位置も知らない。ただ“それっぽいイベント”が起きたから、自分が主人公だと思い込んで突っ込んでる。……実機に素手で触ってるようなものだわ」
リュートはその比喩に、静かに同意した。
「悪意ある工作員ではない。純粋なお花畑のバグ、か」
「まさにそれよ」
二人の見解はここで完全に一致した。
レティシアは高い知性を持つ脅威ではない。
だが、だからこそ危うい。
知性ある敵は、自分が何を狙い、何を壊そうとしているかを理解している。しかし無知な味方未満の異物は、壊している自覚のないまま、最も脆い場所へ足を踏み入れる。
「……排除する?」
ヴィオラが問うた。
リュートは即答しなかった。しばし沈黙した後、ゆっくりと首を振る。
「まだ早い」
「観察を続ける?」
「ああ」
その声は冷徹だった。
「今の彼女は、敵対意思を持つ工作員ではない。下手に追い詰めれば、ただ暴発するだけだ。それに――――」
そこで、リュートの瞳にわずかな悪意の光が差した。
「兄上にとっては、あれが極めて危険な意味を持つ。政治でも制度でもなく、“個人としての承認”だけを無邪気に投げてくる存在。管理された世界の外から差し込まれる、打算なき劇薬だ」
「……なるほどね」
ヴィオラもそこで理解した。
レティシアは盤面を理解していない。だが、理解していないからこそ、疲弊したグラクトの心理に真っ直ぐ入り込める。
王家の都合も、派閥の駆け引きも、血統管理も、何一つ分かっていない。
それが逆に、この国の誰も投げられない言葉を彼へ投げつけることを可能にしている。
「なら、結論は一つね」
リュートは報告書を閉じた。
「レティシア・ラ・ハーテスは、排除対象ではなく観察対象に切り替える。危険ではあるが、今はまだ、切るよりも見た方が価値が高い」
「そして、必要なら利用する」
「必要ならね」
ヴィオラは小さく笑った。
「まったく。あんな危ういものを“価値が高い”と言い切るあたり、本当に性格が悪いわ」
「君にだけは言われたくない」
短いやり取りののち、二人は再び真顔に戻る。
机の上には、ティナの報告書と、ヴィオラが思い出した一年前の名簿の断片。そこに記されているのは、ただ一人の没落子爵令嬢の名前に過ぎない。だがその名は今や、第一王子の精神、王家の血統、そして学園という箱庭の法治の盤面すら、無自覚にかき乱しうる異物として扱われ始めていた。
リュートは最後に、静かに呟いた。
「……さて。あの少女が現実に潰されて泣き出すのが先か。それとも、夢を見たまま盤面に致命傷を与えるのが先か」
ヴィオラは扉の方へ視線を流し、冷たく言った。
「どちらにしても、もうただの令嬢では済まないわ。あの子は、自分が何者なのかも分からないまま、この国で一番触れてはいけない場所に手を伸ばしてしまったんだから」
こうして、レティシア・ラナ・ハーテスという“同郷の異物”は、敵でも味方でもなく、極めて危険な観察対象として正式に盤面へ登録されたのであった。