リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第4話『打算なき劇薬6』

6 忠臣の諫言と、王の孤独

 

 その夜。

 第一王子の私室には、張りつめた静けさが満ちていた。

 机上には、学園裁判の記録と、新たに整備すべき学則の草案が山のように積まれている。だが、それらに目を通しているはずのグラクトの意識は、どこか別の場所へと引きずられていた。

 そこへ、控えめだが鋭い音で扉が叩かれる。

 

「……入れ」

 許しを得て入室したのは、エドワルドだった。

 いつもの隙のない礼を取ってはいたが、その氷青の瞳の奥には、普段の冷静さを僅かに逸した焦燥が滲んでいた。

 

「夜分に申し訳ありません。ですが今夜は、どうしても先延ばしにできない話がございます」

 その声音だけで、グラクトは内容を察した。

 

「レティシアのことだな」

「……はい」

 エドワルドは一礼したまま、一切の逡巡なく本題へ切り込んだ。

 

「あの令嬢を、これ以上殿下の御側へ近づけてはなりません」

 それは怒りではなく、危機に対する純粋な警鐘だった。

 

「彼女は制度の外にいます。奉仕者候補として正式に選定された者ではなく、管理も、制御も、補償も、何一つ整っていない。しかも本人は、王家の血統と品位がいかに厳密に管理されているか、その意味すら理解していないように見受けられます。政治的な意図を持つ女ならまだ扱えます。家の事情、金、地位、縁談、いくらでも交渉の余地がある。だが、制度も利害も理解せず、ただ殿下個人へ向かってくるだけの者は最悪です。何を踏み抜けば盤面が壊れるのか、自覚のないまま急所へ触れてくる」

 

 グラクトは黙って聞いていた。

 

 その沈黙を、エドワルドは承知の上で続ける。

「殿下は、すでに分かっておられるはずです。王家の正統性――――血統の清浄さと、そこから生まれる品位こそが、殿下ご自身の権威の基礎であることを」

 

「ああ」

 否定の余地はなかった。学園裁判が機能しているのも、学則が単なる紙切れではなく絶対の重みを持つのも、裁判長たる自分が第一王子であり、この国の秩序の中心に位置する存在だからだ。成文法はまだ弱い。ゆえに今は、王家の威光という旧い柱を借りて立たせるしかない。

 

 その現実を、グラクトはすでに理解していた。

 

 だからこそ、エドワルドは一歩進み出る。

「ここで管理外の令嬢に心を許し、あらぬ憶測や混乱を招けば、殿下個人の問題では済みません。殿下の学則、殿下の裁き、殿下の掲げる秩序、そのすべての正統性に傷が入るのです」

 

 グラクトはしばし目を伏せ、それから静かに言った。

「……お前の言うことは分かる」

 

 エドワルドはその先を促しかけたが、グラクトはそこで言葉を継いだ。

「だが、それでも……あれは、違うのだ」

 氷青の瞳がわずかに揺れる。

 

「違うとは、何がでございますか」

 

「……奉仕者は、義務だ。相手にも事情があり、家にも事情があり、王家にも制度がある。すべて承知の上で成り立っている。そこには間違いなく意味があるし、必要な仕組みだ。否定するつもりはない」

「当然です。その制度を軽んじれば、殿下自身が学則の根拠を掘り崩すことになります」

 

「分かっている。分かっている。……だからこそ、苦しいのだ」

 グラクトの言葉は、王家の制度そのものへの反逆ではなかった。

 

 むしろ、制度を理解しているからこその苦しみだった。

「奉仕者は義務としてここにいる。あちらも承知の上で、取引として、制度として、役目を果たしている。私は王としてそれを受け入れている。だが、そこに心の平穏はない」

 

「……ヴィオラ様では、駄目なのですか。婚約者として最も近く、しかも殿下の立場も制度も理解しておられる。少なくとも、管理外の令嬢よりは――――」

 

「ヴィオラは駄目だ」

 

 その速さに、かえってエドワルドが息を止める。

「なぜです」

 

「ヴィオラは、最初からすべてを理解している。理解して、管理して、役目としてそこにいる。婚約者であることも、王妃教育も、奉仕者の選定さえも、全部だ。あれはもう、あまりに“王家の側”に立ちすぎている。弱音を見せて寄りかかれるような相手ではない」

 

 正確には、寄りかかる資格がない、という感覚だった。ヴィオラはあまりに冷静で、あまりに王宮の論理を分かりすぎている。彼女の前では、自分はいつまでも王家の部品として測られる気がしていた。

 

「……今の奉仕者でも駄目。ヴィオラ様でも駄目。では、殿下は何を求めておられるのですか」

 エドワルドの問いには、半ば追及の響きが混じっていた。

 

 グラクトは答えに詰まった。

 本当は、自分でも分かっていない。

 ただ、レティシアといる時だけ、自分は制度でも責務でもなく、ただ一人の人間として見られているような錯覚を得られた。

 

「ならば、妾妃契約を結ばれてはいかがですか」

 苦渋の色を隠しきれぬまま、エドワルドは代案を出した。

 

「正式な管理下へ置き、血統と立場を明確にする。少なくとも“無秩序な接近”という最悪だけは防げます」

 それは、エドワルドなりの最大限の譲歩だった。

 制度の外にいる少女を、制度の内へ引きずり込むことで爆発を防ぐ。臣下としては、極めて現実的な提案である。

 

 だが、グラクトはゆっくりと首を振った。

「……それでは駄目だ」

「なぜです」

 

「契約にした瞬間、壊れる」

 エドワルドは言葉を失う。

 妾妃という形にすれば、立場は守れる。制度上も整理できるだろう。だが、それをした時点で、あれはもう『私だから近づいてきた者』ではなくなる。契約を結べば、相手は契約でここにいる女になる。地位と補償を与え、王家の管理下に入れた瞬間、結局は奉仕者と同じだ。自分が欲しいのは、そんなものではない。

 ひどく身勝手な願いだった。

 

 制度は必要だ。血統の正統性も理解している。それでもなお、その外側にある心の平穏だけを欲している。

 

 エドワルドには、その矛盾が危うく見えた。危うすぎた。

「……殿下」

 呼びかける声には、臣下の進言というより懇願に近い響きがあった。

 

「心が欲しいと仰る。だが心は、最も制度に組み込みにくく、最も盤面を壊しやすいものです。殿下ほどの立場の方が、そこへ無防備に手を伸ばしてはならない」

 

「分かっている」

「殿下は今、王家の品位と学則の正統性、その双方を背負っておいでです。そこに“契約では買えぬ心”を持ち込み始めれば、いずれ必ず制度と衝突する。貴方が裁判で成文法を貫いた、その根拠そのものと――――」

 グラクトは何も言えなかった。

 

 なぜなら、エドワルドの言っていることは正しいからだ。正しいのに、それでもなお、正しさだけでは息が詰まる。

 長い沈黙の末、グラクトはひどく疲れた声で言った。

 

「……私は、王である前に、人であってはならないのか」

 その問いに、エドワルドはすぐには答えられなかった。

 

 答えは知っている。王家の血を引く以上、この国では『ならない』のだ。

 だが、それをそのまま告げるのは、あまりにも残酷だった。

 だから彼は、ほんの僅かに目を伏せて言った。

 

「殿下が王であられるからこそ、この国の品位は立ちます。……それだけは、どうかお忘れなきよう」

 救いのない、だが誤魔化しのない答えだった。

 グラクトは力なく笑った。

 

 それは自嘲であり、諦めではなく、どうしようもない孤独への苦笑だった。

「そうか。……結局、そこへ戻るのだな」

 エドワルドはそれ以上踏み込まなかった。ヴィオラの管理する領域へ無理に手を突っ込めば、それ自体が別の火種になる。奉仕者の扱いも、婚約者の役割も、王宮の血統管理も、すべてが繊細な均衡の上にある。

 

 ゆえに今夜の彼にできることは、ただ一つだけだった。

「あの令嬢に深入りなさらぬよう、どうかご自重ください」

 それだけを最後に告げ、深く一礼する。

 だが、エドワルドが退室した後も、グラクトは長く席を立てなかった。

 

 血統は必要だ。

 品位は必要だ。

 それがなければ、自分の裁きも、学則も、王としての言葉も、何一つ立たない。

 分かっている。

 分かっているのに。

 制度の中にいる女たちでは埋まらない空白が、確かに自分の内側にある。

 

 そしてその空白に、何も知らぬまま笑いかけてきた少女の存在だけが、ひどく甘く焼きついて離れなかった。

『――――その甘さが、やがてどれほどの断絶へ変わるのか』

 この時のグラクトは、まだ知らない。

 

 

 

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