リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 空回りする敵対心と、静観するヴィオラ
王立学園の廊下は、春の陽光に照らされて明るいはずなのに、ヴィオラには妙に白々しく見えた。
磨き上げられた石床。高窓から射し込む柔らかな光。貴族の子弟たちが行き交う、よく整えられた箱庭。その只中で、レティシア・ラナ・ハーテスだけが、あまりにも場違いな熱をまとっていた。
ここ数日、あの子爵令嬢は露骨にヴィオラを警戒している。
いや、警戒というよりは、一方的な敵意と言った方が正確だった。
授業の合間に廊下ですれ違えば、びくりと肩を震わせながらもこちらを睨む。食堂で視線が合えば、グラクトの近くへ寄るように位置を変える。先ほどなど、取り巻きもいない短い移動の最中に、わざわざヴィオラの進路へ半歩だけ立ちはだかるような真似までしてきた。まるで、自分の目の前に現れた女を「排除すべき障害」とでも認識しているかのように。
ヴィオラは、廊下の窓辺に立ったまま、少し離れた位置でこちらを窺っているレティシアを冷ややかに観察していた。
『――――やはり、確信しているのね』
あの日、ほんの一瞬だけ日本語を混ぜて針を落とした時の反応。それだけで、あの少女はヴィオラが自分と同じ向こう側の人間であると悟ったのだろう。だが、その先の理解が致命的に浅い。
彼女は現実の王宮と学園を、血と利害のぶつかり合う政治の盤面として見ていない。自分を中心に置いた、都合のよい台本の中で見ている。目の前の人間を、それぞれ意志と事情を抱えた一個の存在としてではなく、自分に味方する者、邪魔する者、そういう雑な配役の中に押し込めて処理しているのだ。
だからこそ、第一王子の正当な婚約者であるヴィオラもまた、彼女にとっては「グラクトへ至る道を塞ぐ悪役」でしかない。
あまりにも幼い。
あまりにも平和だ。
そして、この狂った世界の現実の前では、あまりにも危うい。
隣で書類を抱えていたティナが、ヴィオラの小さな独白に気づいたのか、わずかに目を上げた。もっとも彼女は何も言わない。今はあくまでリーゼロッテの名代として表向きの実務をこなしているだけであり、軽々しく会話へ踏み込んでくることはなかった。ヴィオラもそれでよかった。今のこの感情を、誰かと共有したいわけではない。
胸の内にあるのは、呆れに近い冷たさと、ほんのわずかな苛立ちだった。
自分がどれほど綱渡りの上に立っているかも知らず、現代日本の感覚だけを握りしめたまま、この世界の権力の中枢へ土足で踏み込んでくる無防備さ。それはヴィオラにとって、同郷の少女への親近感より先に、強い不快と危機感を呼び起こすものだった。
前世の平和な記憶のまま、精神の成熟が止まっている少女。
政治の泥も、王族の血統管理も、家と家の利害が人間の尊厳より上に置かれる現実も知らない。そんな者が、ただ「自分が都合の良い恋愛遊戯(シミュレーション)の主人公だから」というだけで第一王子へ突撃している。
この国では、それは可愛らしい恋では済まない。
下手をすれば、家が潰れ、血が流れ、誰かが首を吊る。
それでも彼女は、まだ分かっていない。
ヴィオラは、廊下の先でこちらを見張るように立っているレティシアを一瞥し、静かに嘆息した。
今ここで、事情を説明してやることはできる。たとえば、王家の婚姻と側妃制度がどれほど血統管理に塗れたものか。グラクトの傍に寄るということが、単に一人の少年へ近づくことではなく、王妃・側妃・侯爵家・議会・学園全体の権威の盤面に触れることなのだと。そして、彼女自身の名がかつて奉仕候補として記録されていた事実の重みも。
だが、言ったところで無駄だろう。
今のレティシアは、現実を理解するために情報を求めているのではない。自分の頭の中にあるお花畑の筋書きを補強する材料しか欲していない。そんな状態の者に、いくら正しい現実を叩きつけても、邪魔をする女の嘘としてしか処理されないのが関の山だ。
むしろ、言葉で教える方がまだ甘い。
現実というものは、本来もっと冷たく、もっと直接的だ。
身分を誤れば殴られる。制度を知らなければ利用される。空気ではなく証拠で裁かれ、感情ではなく利害で切られる。
それを身体で知るしかないところまで、彼女はもう足を踏み入れている。
ならば――――。
ヴィオラは平坦な表情のまま、はっきりと結論を下した。今のあの子に、こちらから何を言っても無意味だ。自分の見たいものしか見ていない者に、現実の説明など届かない。なら、嫌でも自分で気づくしかない。
ティナがそれを察しても何も言わなかった。賛同とも反対ともつかぬその無言が、逆にこの判断の冷たさを際立たせる。
もちろん、ただ突き放したいわけではない。同郷である以上、最低限の情がまったく無いと言えば嘘になる。だが、それ以上に強いのは、現実を甘く見たまま中途半端な救済を差し伸べることへの嫌悪だった。
ここで手を引けば、彼女はきっとまた勘違いする。
自分は選ばれた特別な存在で、多少の無茶も誰かが救ってくれるのだと。
それは救済ではない。ただ、もっと深い破滅へ送り出すだけだ。
『それに――――』
ヴィオラは瞳を伏せた。
この少女の存在は、ヴィオラ自身にとっても無関係ではない。レティシアがグラクトの注意を奪えば、王妃が婚約者であるヴィオラへ課している「管理役」としての責務は緩むかもしれない。あの忌まわしい、第一王子の寝室に関わる血統管理の実務から、ほんの少しでも距離を取れる可能性がある。
そういう意味では、彼女はヴィオラに自由をもたらすかもしれない存在でもあった。
だが、だからといって助ける気にはなれない。自分の自由のために利用価値があることと、無知な少女を親切に導いてやることとは、まるで別の話だ。
ヴィオラは聖女ではないし、誰かの成長を手取り足取り支える趣味もない。まして、今のレティシアは理解しようとする者ですらない。ただ、自分に都合のいい筋書きへ現実を押し込もうとしているだけだ。
廊下の向こうで、レティシアがまたこちらを窺っている。怯えと警戒と、妙な対抗意識の入り混じった視線。ヴィオラはそれをまともに受け止めることもせず、くるりと踵を返した。
彼女に必要なのは、忠告ではない。反論でも、説教でもない。
この世界がどれほど容赦なく、どれほど人の尊厳を制度の中で磨り潰すかという、生の現実だ。
そして、その現実を突きつける舞台は――――もうすぐ、整う。
ヴィオラは足を止めず、そのまま生徒会室の方角へと歩き出した。
静かに、確実に、盤面は次の裁きへ向かっている。
無垢なままではいられない場所へ、同郷の少女はすでに入り込んでしまった。
ならば後は、現実の方が彼女を選別するだけである。