リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第5話『嵐の前夜2』

2 没落貴族の自己決定

 

 表の学園が、生徒会と学園裁判という法廷の看板のもとで静かな緊張を深めていた頃。

 

 その裏側では、リーゼロッテが築き上げたもう一つの実働網――――士爵ネットが、今日も泥の中で確かに機能していた。

 

 学園内に散らばる特待生、投資生、下級貴族出身の協力者たち。彼らは単なる情報屋ではない。誰がどこで虐げられ、誰がどの権力に踏みにじられているのかを拾い上げ、必要とあれば客観的証拠を固定し、時には実際に現場へ踏み込む。

 

 王都ではリーゼがその全体を支配している。

 そして、王立学園という閉鎖空間の中でその網を実務として束ねているのが、ユスティナ――――ティナであった。

 

 その日、裏の生徒会室へ通されたのは、士爵ネット学園班の実働責任者たるテトラと、一人の令嬢だった。

 

 スピネル・ラ・テノール。没落した男爵家の娘である。

 薄い栗色の髪。華やかに飾り立てているわけでもないのに、人目を引かずにはいられない整った顔立ち。だが、その美貌は今の彼女にとって武器である前に、あまりにも露骨な「標的」でしかなかった。

 

 室内には、すでにリュート、東のアイリス、西のヴィオラ、そしてティナが揃っている。

 ティナは自らの前に並べた報告書を閉じ、実務家の顔で二人を見上げた。

 

「まず前提として、本件は士爵ネット学園班の通常対応だけでは処理しきれない可能性が高いと判断しました。ゆえに、殿下方に直接お時間をいただいた次第です」

 そう整理し、ティナはテトラへ報告を促す。

 

「聞こう」

 リュートが短く返すと、テトラは一礼した。だが今日はいつもより表情が硬い。その隣でスピネルは、かすかに青ざめながらも、背筋だけは折っていなかった。

 

「現在、魔導卿派に連なる伯爵家の子息が、こちらのスピネル嬢へ継続的な接触を行っています」

 テトラは感情を抑えた平坦な声で事実を並べた。

 

「内容は脅迫と、継続的な囲い込みの示唆です。相手は、没落したテノール男爵家に支援を与える見返りとして、スピネル嬢へ個人的な従属を要求しています。断れば学園内での立場を潰し、父親の再就職口も塞ぐと示唆している。加えて、すでに二度、人気のない場所への呼び出しがありました」

 

「被害の申告自体は、三週間前から断続的に上がっておりました」

 ティナが補助資料を横へ滑らせて補足する。

 

「ですが、決定的な証拠の確保が困難でした。相手は真正面から『妾になれ』とは言いません。援助、庇護、温情――――そうした言葉で包みながら、実態としては身体と服従を要求している。中位貴族特有の、極めて厄介な圧迫です」

 

「……いかにもそういう男はいますわね」

 アイリスは扇で口元を隠しながら、冷ややかに目を細めた。自分の欲望を欲望だと思わず、没落家を拾ってやることそのものが慈悲深い施しだと信じている類の男だと、彼女はよく知っていた。

 

「最低ですわね」

 ヴィオラも、露骨な嫌悪を隠さず吐き捨てる。

 だが、スピネルはその言葉に同意も、慰めを求める素振りも見せなかった。

 彼女はただ静かに一歩前へ進み出ると、自ら口を開いた。

 

「最低でしょうね。ですが、そういう手合いがいること自体には驚きません」

 テノール男爵家は、もう看板だけの家だ。財も、後ろ盾も、将来もない。そんな家の娘が少しばかり顔立ちに恵まれていたところで、上の者たちから見れば拾ってやれば喜ぶはずの玩具でしかない。

 その言葉には、自嘲ではなく、乾いた現実認識があった。

 

「泣いて耐えれば、清らかな被害者としては振る舞えるのでしょう。けれど、それで家が救われるわけではない。あの男が飽きれば終わり。拒めば潰される。従っても使い潰される。ならば、せめてこちらの手で使い道を決めた方がましですわ」

 スピネルは一度だけ息を整え、視線をまっすぐリュートへ向けた。

 

「私を、餌にしてください」

 室内の空気が静かに張り詰めた。

「相手は、私を脅せば従うと信じきっています。ならば、その思い上がりを利用できます。密室へ誘い込ませ、私に対して言い逃れのできない一線を越えさせる。その瞬間に風紀官が踏み込めば、学則違反として逃がさず裁けるはずです」

 

 誰もすぐには口を挟まなかった。

 提案の内容があまりにも明確な『罠の構築(証拠固定)』であり、あまりにも危険だったからだ。

 最初に反応したのはヴィオラだった。

 

「貴女、正気なの? 万が一があればどうするつもり。負うのはただの失敗ではなく、心も身体も二度と元には戻らない傷になるかもしれないのよ」

 

「承知しています」

 スピネルははっきり答えた。そして、静かに問い返す。

「では、どうせよというのですか」

 その返しはあまりにも静かで、それゆえに鋭かった。

 

 泣いて逃げれば救われるのか。清廉でいれば、誰かが必ず助けてくれるのか。違うだろう、と。

 

 その瞳に宿っていたのは、若い令嬢の儚さではなく、もっと泥臭く切実な生存の意志だった。

 

 王妃の奉仕候補に名が載りかけた没落令嬢など、どのみち誰かの都合で消費される側だ。家が潰れれば、綺麗も誇りも何の意味もない。ならば自分は、この顔も、この立場も、この男の劣情も、全部自分の未来を買い戻すための武器として使う。

 

 アイリスは扇の陰で、興味深そうに目を細めた。

 スピネルはそこで初めて、隣に立つテトラへ一瞬だけ視線を向けた。その視線は、今までの冷たさとは少し違う。覚悟を確認するような、静かな熱がそこにあった。

 

「ただし、見返りはいただきます。テノール男爵家の再興。そして――――」

 彼女は、ただ差し出すだけではないのだと、さらに言葉を重ねる。

 

「このテトラを伴侶として迎える許可を」

 空気が変わった。

 ヴィオラが息を吞み、アイリスの扇がぴたりと止まる。

 

 ティナだけが、最初から予測していたかのように無表情を崩さない。

 テトラ自身も、わずかに目を見開いた。だが、否定はしなかった。

 スピネルは誰に媚びることもなく、言い切る。

 

「血筋も看板も、もう私には何も残っていません。ならば、これから私が選ぶのは、家格ではなく実力です。泥の中で現実を見て、私を一人の人間として扱ってくれたのは、この人だけでした」

 テトラは口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

 

 代わりに、その拳がわずかに強く握られる。

 

 ヴィオラはしばし絶句してから、ゆっくりと椅子の背へ体重を預けた。

「……最近の没落令嬢はどうかしているわね」

 

 呆れたような口調だったが、先ほどまでの単純な反対色は少し薄れていた。目の前の少女が、自暴自棄で身体を投げ出そうとしているのではなく、明確な条件と未来像を持って賭けに出ているのだと理解したからだ。

 

「危険ではありますが、合理性はありますわね。投じる資本に対する見返が大きい。何より、本人が可哀想な犠牲者で終わることを望んでいない」

 アイリスもその覚悟の重さを認める。

 

 そして最後に、視線が集まったのはやはりリュートだった。

 彼は少しも表情を変えず、スピネルとテトラの二人を見ていた。単に勇気を称賛するでもなく、感情にほだされるでもなく、条件と責任の所在を測る為政者の眼差しで。

 やがて、静かな声が落ちる。

 

「要求と覚悟は理解した。だが、この場で即答はしない」

 その一言に、スピネルの瞳がほんのわずかに揺れた。テトラも眉を寄せる。

 

 だが、リュートの声音は変わらない。

「君たちが所属しているのは僕の私兵ではない。士爵ネットはリーゼの管轄であり、学園内ではティナがその実務責任を負っている。君たちの命と将来に関わる賭けを、僕がこの場の思いつきで許可することはできない」

 

 ティナが静かに頭を垂れた。それは組織の筋を守る、冷酷だが誠実な発言だった。

「本件は提案として受理します。その上で、実行の可否と条件設定については、次の段階へ進めます」

 ティナが事務的にそう整理すると、スピネルは息を詰めたまま、なおもリュートを見据えていた。

 

 リュートはその視線を受け止め、最後に一言だけ付け加えた。

「君のそれが、ただ使い潰されるための自己犠牲ではなく、本当に自分の意志で選んだ自己決定だというなら――――僕たちは、そこから先をきちんと考える」

 慰めではない。

 

 だが、軽く切り捨てる言葉でもなかった。

 スピネルは深く一礼した。その動きに、初めてほんのわずかだけ緊張が滲んだ。

 こうして、没落令嬢の身体と尊厳を賭け金にした、あまりにも危うく、あまりにも理にかなった提案は、正式な『案件』として盤面の上に置かれたのである。

 

 

 

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