リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 罠の実行
実行の日は、驚くほど静かに訪れた。
放課後。
人気の薄くなる旧校舎の一角、図書準備室と呼ばれる小部屋。古い蔵書や帳簿、破損した備品が一時的に運び込まれるその場所は、普段は人の出入りが少なく、教師の巡回も疎らだった。扉は厚く、廊下側から中の様子は窺えない。こうした半ば忘れられた空間こそ、身分ある者が己の特権を行使するには都合がよい。
その日、その部屋へ先に入ったのはスピネルだった。
彼女はいつも通り、簡素だが清潔な制服を纏っていた。髪も、普段より少しだけ丁寧に整えてある。誘ったのではない。媚びたのでもない。ただ相手が勝手に「従順さ」と誤認しやすいよう、必要最小限の隙だけを作っているにすぎなかった。
部屋の中央に置かれた長机の脇に立ち、スピネルは静かに息を整える。怖くないわけがない。だが、その恐怖を表へ出しすぎれば相手は警戒する。逆に、あまりにも強く拒めば、今日この場で決定的な一線へ踏み込んでこない可能性もある。
必要なのは、怯えているが逃げ切れない令嬢。助けを呼ぶだけの力もなく、しかし完全には折れていない女。そう見せることだった。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
扉が開き、魔導卿派に連なる伯爵家の子息が姿を現す。年齢に見合わぬ高価な装飾品をいくつも身につけたその男は、部屋の中にスピネルが一人でいるのを確認すると、満足げに口元を歪めた。
「逃げずに来たか。少しは物分かりがよくなったようだ」
そう言って後ろ手に扉を閉める。鍵までは掛けなかった。閉じ込めるまでもない、自分が出て行くなと言えば、この没落令嬢は従うしかない。そう本気で信じているのだ。
スピネルは視線を伏せたまま、小さく問うた。
「……今日は何の御用件でしょうか」
伯爵子息は鼻で笑う。
「まだ分からぬのか。没落した家の娘に、私が何度も声を掛けてやっている意味を、本当に理解していないのか」
ゆっくりと歩み寄り、彼は目の前で立ち止まった。
「お前の父は、もう使い物にならん。家格は男爵でも中身は空っぽだ。金も後ろ盾もなく、学園を出た後に待っているのは、せいぜいどこかの下級官吏の後妻か、もっと酷い落ちぶれ方だけだろう。だが私の庇護に入るなら話は別だ。住まいも、衣服も、生活も与えてやる。父親にも働き口を斡旋してやっていい。お前のような女が生き残るには、それしかあるまい」
その口ぶりは、恩を売っているつもりのそれだった。
脅している自覚すらない。上位者が下位の女へ「道を与えてやる」こと自体が慈悲だと、本気で信じている。
スピネルは唇を引き結んだまま、答えなかった。しかし、それが今は最善だった。
伯爵子息はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。声色をさらに柔らかくする。
「怯える必要はない。私は優しい男だ、大人しく従いさえすれば粗末には扱わぬよ」
「……それは、どういう意味でしょうか」
スピネルがわずかに声を震わせると、男の顔から最後の建前が薄くなった。
「正式な妻にしてやることはできないが、愛妾として遇するくらいの情はある。学園にいる間も、卒業した後も、私のそばへ置いてやるということだ」
婚姻ではない。対等な契約でもない。ただ従属と囲い込み。相手に拒む権利があるとも思っていない、上位者の温情でしかなかった。
スピネルはなおも視線を落としたまま問う。
「……お断りすれば、どうなるのですか」
伯爵子息は今度こそ露骨に笑った。
「学園での居場所は失い、父親の再就職口も消える。テノール男爵家の名残など、私が少し口を利けばどうとでもなる」
そう言って彼は、無遠慮にスピネルの顎へ手を伸ばし、無理やり顔を上げさせた。
「これは脅しではない、救済だ。私ほど親切な男はそうおらぬぞ」
スピネルは本能的な嫌悪を押し殺し、震える息を吐く。
目の端に滲んだ涙は演技ではない。だが、それを利用すると決めたのは彼女自身だった。
「私は、そのようなことには――――」
彼女がか細く言いかけると、男はそれを遮る。
「清らかさを売りにして値を上げるつもりか。勘違いするな、お前に選り好みする余裕などない。私は拾ってやると言っているだけだ」
そこで彼は一度だけ扉の方へ視線をやった。
人の気配はない。物音もない。完全な密室だと確認したのだろう。
次の瞬間、彼の顔から最後の建前が消えた。
「大人しく従え。そうすれば、お前の家は明日からでも救ってやる」
スピネルは一歩後ずさる。
だが、長机が背に当たり、それ以上は下がれない。
伯爵子息は躊躇なく両腕を掴み、机へ押しつけた。
そこで初めて、彼の行為は言葉ではなく、明確な有形力の行使へと変わった。
「やめて……っ」
「静かにしろ。少し痛いかもしれんが、すぐ慣れる」
スピネルが声を漏らしても、男は吐き捨てるように言い放つ。その言葉とともに、彼の手は一方的に彼女の身体を拘束し、衣服へかかった。脅迫と服従の要求は、ついに性的強要の実行段階へ足を踏み入れた。
『――――今だ』
スピネルの瞳が、涙に濡れたまま一瞬だけ冷えた。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに図書準備室の扉が外側から蹴り破られた。古びた蝶番が悲鳴を上げ、扉板が壁へ激突する。土埃の舞う入口に立っていたのは、風紀官の腕章を巻いた二人の少年だった。
先頭はテトラ。
その半歩後ろに、純白の軍服を纏うレオンハルト・アイゼンガルト。
伯爵子息の顔から血の気が失せる。
だがそれは羞恥や罪悪感によるものではなかった。己の欲望を見られたことへの恐怖より先に、平民上がりの特待生に踏み込まれたことへの激怒が勝ったのである。
「貴様ら、何の権限でここへ――――!」
「学則違反の現認による介入だ。暴力および強要の現行犯として拘束する」
怒鳴る伯爵子息に対し、テトラは感情を動かさぬまま告げようとした。
だが最後まで言わせず、伯爵子息の拳が振り抜かれた。
鈍い打撃音が狭い室内に響く。
真正面から顔面を殴られたテトラの身体がよろめき、そのまま床へ膝をついた。口の端が切れ、鮮血が白い床板にぽたりと落ちる。だが彼は怒鳴りもしなければ、苦悶の声すら漏らさなかった。
血の滲んだ口元を拭いもせず、氷のように平坦な声で告げる。
「……風紀官に対する明白な暴行を、確認」
伯爵子息はなおも二撃目を振り上げた。
その腕が振り下ろされるより速く、レオンハルトが一歩前へ出る。白い軍服の袖口から伸びた手が、伯爵子息の手首を万力のように掴み止めた。
「――――見苦しいぞ」
レオンハルトの声は低く、よく通った。少年のそれでありながら、そこには武門の嫡男として鍛えられた絶対的な威圧が宿っている。
「私はアイゼンガルト侯爵家嫡男、レオンハルト・デイル・アイゼンガルト。今この場において、貴殿がテノール男爵令嬢に対し強要を行い、さらに風紀官へ暴行を加えた事実を、明確に現認した」
その一言で、伯爵子息の顔色が一気に変わった。
平民の証言なら踏み潰せる。没落令嬢の訴えなら、情緒や誤解と切り捨てられる。だが、王国最強の武門に連なる侯爵家嫡男の現認は違う。そこには、身分秩序の中ですら覆せない重みがある。しかも床には、テトラの血が落ちていた。突入の正当性、暴行の存在、現場の切迫性、そのすべてを客観的に裏打ちする証拠として。
スピネルは壁際に身体を寄せながら、その光景を見ていた。
肩は震えている。息も浅い。だが、瞳だけははっきりと開いていた。
『――――成ったわ』
そう確信したのだ。
伯爵子息はなおも抵抗しようとしたが、レオンハルトの腕はびくともしない。その横でテトラがゆっくりと立ち上がる。口元の血を拭いもせず、淡々と手帳を開いた。
「旧校舎図書準備室において、被害者への脅迫、身体拘束、衣服への接触、ならびに風紀官に対する有形力の行使を確認。現認者は、アイゼンガルト侯爵家嫡男レオンハルト殿」
その記録は、ただのメモではない。
後の法廷で、構成要件該当事実を一つ一つ固定するための、第一の刃だった。
伯爵子息はようやく、自分が取り返しのつかない場所まで踏み込んでしまったことを理解したのだろう。怒りとも恐怖ともつかぬ顔で、掴まれた腕を無様に捩りながら呻いた。
「ば、馬鹿な……私は伯爵家の――――!」
「その爵位が、今この場の醜悪さを消すとでも思ったか」
レオンハルトの返答は冷たかった。
返す言葉はない。
スピネルは目を閉じ、短く息を吐いた。
恐怖は残っている。膝もまだ震えている。それでも彼女は泣き崩れなかった。没落令嬢は、自らの意志で踏み込んだ盤面の上で、確かに相手の喉首を摑んだのだ。
こうして、特権を当然と信じ切った中位貴族の増長は、血と目撃と現場という、誰にも言い逃れのできない客観的事実として固定された。次に待っているのはもはや密室での揉み消しではない。
白日の下の法廷である。