リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 知将の戦慄
その報告がエドワルドのもとへ届けられたのは、日付が変わる少し前だった。
第一王子補佐官室――――実質的には、学園内でグラクトの名の下に動く膨大な実務が集積される、もう一つの執務室である。机上には未決裁の書類、次回会議の議題整理、学則の運用報告、風紀官からの巡回記録が幾重にも積まれていた。その山の上へ、ティナの経路を通じて整理された簡潔な報告書が一通、静かに置かれる。
エドワルドは最初、いつものように機械的な速度で目を通そうとした。
旧校舎図書準備室。
没落男爵令嬢スピネルに対する脅迫。
身体拘束。
衣服への接触。
風紀官テトラへの暴行。
そして、現認者――――レオンハルト・デイル・アイゼンガルト。
そこまで読んだところで、彼の指先がぴたりと止まった。
『何だ、これは――――』
誰に向けるでもない内なる声が漏れる。
文面そのものは、極めて整っている。事実関係も明瞭だ。
だからこそ余計に悪い。
エドワルドは報告書を持つ手に力を込めたまま、もう一度、最初から読み返した。
被告となるのは、魔導卿に連なる伯爵家子息。
つまり、第三側妃ソフィアの実家と政治的に近い一門の若手である。表面上だけを見れば、派閥均衡の観点から悪くない案件にも見える。今、王宮内では第三側妃とその背後の魔導卿が、グラクトの周辺で最も強い発言権を持っている。その一角を、学園という別盤面で合法的に削ることができるなら、他の勢力からすれば歓迎すべきことですらある。
だが、エドワルドの顔色が失われたのは、そこではなかった。
彼はゆっくりと椅子の背にもたれ、氷青の瞳を閉じる。脳裏に浮かぶのは、被告人個人の処分ではない。その背後にいる、もっと大きな集団の顔だった。
中位貴族。
伯爵、子爵。
王都に常駐し、代官職や官職を渡り歩きながら、中央政治の実務と地方統治の端々を支えている者たち。
王家ほど高くはなく、公爵家ほど独立してもいない。だが下を見れば、士爵も平民もいる。その中途半端な高さこそが、彼らの最も危うい性質を生む。
上位貴族は、少なくとも王家の品位との距離を知っている。四公爵家ほどになれば、自らが国家の一部を担う責任も理解している。下手に私情で暴れれば、そのまま自家の政治的損失へ直結することを骨身に染みて知っているのだ。
だが、中位貴族は違う。
彼らは王家ほど絶対ではない。
それゆえ、王家の威光を「借りる」ことでしか自らの特権を誇示できない。自らは王ではないからこそ、王家の品位を勝手に自分の鞭として振り回し、下位の者に対する支配権だと誤認する。
学園でも同じだ。
平民や特待生に対して、上位者が指導してやる、身分ある者の言葉に従うのが当然だと、本気で信じている。
それは悪意ですらない。
もっと厄介な、無自覚な当然の権利意識だった。
エドワルドは額を押さえた。
『最悪だ』
今回の件を、単なる一人の伯爵子息の不始末として処理することはできない。なぜなら被告人が行ったのは、彼個人の倒錯や一時の激情ではなく、中位貴族層の多くが日常的に当然視している振る舞いの延長線上にあるからだ。
没落した令嬢に庇護をちらつかせる。
下位の者の身体と将来を取引材料として扱う。
拒絶すれば学園での立場も家の将来も潰すと脅す。
それらはすべて、この国の旧い秩序の中では表立って咎められてこなかった「よくあること」にすぎない。
もし、その「よくあること」を、グラクト自身の名の下に公開の法廷で罪と認定してしまえばどうなるか。
答えは明白だった。
中位貴族たちは理解する。
王家は、自分たちの当然の権利を守ってくれる存在ではないのだと。むしろ、自分たちがこれまで無意識に享受してきた特権を、法という名目で剥ぎ取りにくるのだと。
そうなれば、彼らの反発は単なる被告家一つの不満では済まない。議会の多数を占める中位層全体が、「王家はもはや我らの味方ではない」と認識し始める。それは、そのまま貴族院の空気を変える。
エドワルドの父――――貴族院議長カルネリア侯爵は、まさにその中位貴族層を束ねることで議会運営を成立させている。彼らは忠誠心だけで動くわけではない。王家の威信を尊ぶ一方で、自らの特権もまた尊重されるという前提があるからこそ、その均衡が保たれてきたのだ。
だが、その前提が崩れれば――――。
議会運営そのものに、亀裂が入る。
しかも厄介なのは、この案件が「魔導卿派を削る裁判」として終わらないことだった。表面的にはそう見える。第三側妃側の近縁を裁くのだから、他の勢力からすれば痛快な牽制に映るだろう。
だが本質は違う。
これは、魔導卿派の一角を削るのと同時に、中位貴族全体へ向けて「君たちの当然は、もはや法の外では通用しない」と突きつける裁判なのだ。
そして、そこに立つ裁判長はグラクトである。
グラクトの威光を高めるために生徒会を作った。学則を整備した。裁判制度すら導入した。それらすべては、本来なら次期国王の威信を盤石にするための装置だったはずだ。なのに今やその装置は、下手をすれば王家と中位貴族層の信頼関係そのものを切断する刃になりつつある。
エドワルドは立ち上がり、部屋の中を数歩だけ歩いた。
氷のように整った思考が、今だけは高速で軋んでいる。
穏便に潰せるか。難しい。
現認者がレオンハルトである時点で、証拠能力は極めて高い。しかも風紀官テトラへの暴行という追加要素までついている。これを密室で握り潰せば、今度は学則そのものの信頼が死ぬ。
では、軽い処分で逃がせるか。
それも危うい。第二回裁判ともなれば、全校生徒の注目度は第一回以上だ。しかも被害者は没落令嬢、加害者は身分を振りかざした伯爵子息。ここで甘い裁定を下せば、「法は結局、身分に負ける」という判例が刻まれる。
どちらへ転んでも、盤面は傷つく。
そして何より恐ろしいのは、この構図があまりにも美しすぎることだった。
没落令嬢。
中位貴族の増長。
風紀官への暴行。
絶対上位者による現認。
学則に照らせば、法廷へ載せるための材料があまりにも綺麗に揃いすぎている。ここまで揃った案件を、ただの偶然で片づけられるほど、エドワルドは無能ではなかった。
自然と、その名が内心から漏れる。
『――――リュート殿下』
彼はまだ証拠を持っていない。だが、これがあの第二王子の手によって「法廷に最適化された事実」である可能性を疑わずにはいられない。あまりにも都合が良すぎるのだ。魔導卿派を削りつつ、中位貴族の特権意識を試し、さらにグラクトへ「法か、旧秩序か」の選択を迫る盤面として。
エドワルドは机へ戻り、報告書をもう一度置いた。
その紙一枚が、まるで火薬庫の点火具のように見える。
知将としての直感が、はっきりと警鐘を鳴らしていた。
この裁判は危険だ。
単なる学園風紀の問題ではない。
魔導卿派の失点でもなければ、一人の伯爵子息の処分でもない。
これは、王家と中位貴族を結びつけてきた当然の前提を、法という名目で断ち切る最初の大きな一撃になるかもしれない。
それでもなお、エドワルドには一つだけ救いがあった。
まだ、判決は出ていない。
裁判長はグラクトだ。
そしてグラクトは、成文法を理解し始めたとはいえ、なお王家の重圧と政治の泥の中にいる。ここで政治的着地の必要性を説けば、まだ間に合うかもしれない。法を守る体裁を崩さず、しかし中位貴族層全体へ波及しない形で、処理を穏便に落とす。少なくとも、その努力をする義務が自分にはあった。
エドワルドは音もなく書類を揃えた。
その顔から、動揺はもう消えている。
だが、それは平静に戻ったのではない。最悪の政治爆弾を前にした参謀が、ようやく腹を括っただけの顔だった。
『殿下にお会いしなくてはならない――――』
それは独り言であり、同時に決意でもあった。
もしこの裁判をそのまま法理のままに走らせれば、議会は軋む。中位貴族たちは離れる。そしてグラクトを支えるはずだった土台そのものが、静かに崩れ始める。だからこそ、今夜の進言は決定的になる。
王を守るために、法を曲げるのか。
それとも、法を貫くために旧い支えを切り捨てるのか。
その分岐点が、もう目の前まで来ていた。