リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 品位という名の暴力
東屋の空気が、一瞬で変わった。
リーゼロッテの言葉が終わった瞬間、リーデルの表情から優雅さが消えた。代わりに、冷たい嘲笑が浮かぶ。カップを持つ手はもう震えていない。代わりに、ゆっくりと紅茶を置く動作に、計算された冷徹さが宿っていた。
彼は視線をリーゼロッテから逸らさず、静かに口を開いた。声は低く、しかし周囲に響くように明瞭だった。
「……少しは慎みなさい、リーゼロッテ王女殿下」
言葉は丁寧だが、刃のように鋭い。侍女たちが息を呑む。リーゼロッテの瞳がわずかに揺れたが、彼女はまだ希望を捨てていなかった。リーデルは続ける。
「慎むことが、妻としての品位ですよ」
その一言で、庭園全体が凍りついた。リーデルはゆっくりと背筋を伸ばし、勝ち誇ったように微笑んだ。
「結婚すれば、品位の優先順位は逆転します。夫である僕の言葉が『正義』となり、妻はそれに従うのが『品位』です。女が未来のことなど考える必要はない。……貴女はニコニコ笑って、僕の隣で慎ましくしていればいいのです」
その瞬間、リーゼロッテの胸に激しい痛みが走った。
離宮で何度も繰り返した努力が、頭の中で一瞬にして砕け散る。リュートが夜通し教えてくれた魔法史の流れ、無詠唱化の可能性を一緒に想像した時間、お兄様の「君ならできる」と励ましてくれた言葉――すべてが、この一言で「不要」と断じられた。
『……そんな……そんなの、違うのに……』
彼女の小さな手が、テーブルの下で震えた。掌に爪が食い込み、痛みが心を刺す。離宮の書斎で、兄と一緒に羊皮紙に未来の魔法を書き連ねた夜。母ルナリアが「君の考えは素晴らしいわ」と微笑んでくれた瞬間。あの温もりが、今、冷たい風にさらされるように剥ぎ取られていく。
『お兄様が教えてくれたこと……全部、無駄だったの? 私が頑張って賢くなろうとしたこと……こんな人に、一生従うために生まれてきたってことなの?』
絶望が波のように押し寄せた。こんな人と一生を共にすることが「品位」だと言うなら、王女として生まれた意味は何なのか。離宮の平穏を守るために仮面を被り、論理を学び、未来を夢見た努力が、すべて無意味だったのか。
胸が締めつけられ、息が苦しい。涙がこみ上げそうになるのを、必死に堪える。
『……お兄様、ごめんなさい。私……負けちゃった……』
リーゼロッテはゆっくりと息を吸い、完璧な「仮面」を被り直した。声は穏やかで、震えを一切出さない。だが、その瞳の奥は空っぽで、深い闇が広がっていた。
「……左様でございますか。勉強になりましたわ」
言葉は丁寧で、微笑みさえ浮かべている。リーデルは満足げに頷き、カップを再び手に取った。
「さすが王女殿下、わきまえがおありで。……これからもよろしくお願いいたします」
侍女たちが安堵の息を吐く。東屋の空気は、再び穏やかになった。表面上は、何事もなかったように。
リーゼロッテは静かに紅茶を一口飲んだ。味はしない。喉を通る液体が、ただ冷たいだけだった。彼女の小さな手が、テーブルの下で強く握りしめられる。爪が掌に食い込み、血がにじむ。知性の敗北は、ここで完結した。
東屋の蔦が風に揺れる中、六歳の少女は、静かに絶望を飲み込んだ。離宮で待つ兄と母の顔が浮かぶたび、胸が引き裂かれるように痛んだ。こんな人と一生いることが「品位」なら……彼女は、もう何も信じられなかった。
次に待っていたのは、離宮での涙と、母の咆哮だった。