リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 極刑と、自爆テロ
休廷を終えた法廷には、再開前よりもさらに重い沈黙が落ちていた。
合議室から戻ってきた裁判長グラクトの表情は、休廷前と何も変わらないように見える。だが、その静けさがかえって不気味だった。訴追官席のリュートはいつも通り淡々と書面を整え、弁舌士席の生徒は、もはや挽回の糸口を見出せないまま硬く唇を結んでいる。
被告人席の伯爵子息だけが、嫌な汗を浮かべながらも、なお最後の最後には家格と空気が自分を守るはずだという未練を捨てきれていなかった。
木槌の音が一つ、法廷を打った。
「審理を再開する」
グラクトの声は低く、よく通った。
「本件について、本法廷は、すでに示された証拠、証言、および当事者の各発言を総合し、判断を示す」
傍聴席の空気が張り詰める。
前回の裁判以上に、今回は誰もが判決の意味を理解していた。これは単なる一人の伯爵子息の処分ではない。中位貴族たちが当然のように振るってきた特権を、学則が本当に断てるのかどうか。その試金石だった。
グラクトは、被告人を真っ直ぐに見た。
「被告は、被害者の家格と窮状に乗じ、自らの優位を背景として従属を迫った。さらに密室において被害者の退去の自由を奪い、身体を拘束し、明確な拒絶があるにもかかわらず、なお一方的な接触へ進もうとした。加えて、これを制止した風紀官に対しても、被告は自ら有形力を行使した」
一言一言が、逃げ道を塞ぐように積み上がる。
「これらの事実は、現認者たるレオンハルト・デイル・アイゼンガルトの証言、被害者および風紀官テトラの陳述、現場状況、ならびに被告自身の法廷上の発言によって、十分に認定される。被告側はこれを、上位者による指導、庇護の提示、あるいは混乱下の抵抗にすぎぬと主張した。だが、本法廷はこれを採らない」
そこでグラクトの声が、一段深く落ちる。
「この学園において、身分は他者の自由を侵してよい理由とはならぬ。庇護は服従の強要を正当化せず、沈黙は承諾を意味せず、上位者の当然と称する私的支配は、学則の前で一切の正当性を持たない」
上位貴族の席が、凍りついたように静まり返った。
それは前回の判例をなぞる言葉ではあった。
だが、今回はさらに重い。平手打ちや威嚇ではなく、性を用いた支配と強要という、貴族社会が密かに見過ごしてきた領域へ、そのまま刃が入っているのだから。
「よって――――」
グラクトは一度も視線を逸らさなかった。
「本法廷は、被告を有罪と認定する」
ざわり、と大講堂全体が揺れた。
だが、そのざわめきが大きくなる前に、グラクトは続けた。
「処分を言い渡す。被告を――――退学処分とする」
その瞬間、法廷の空気が一変した。
停学ではない。
謹慎でも、減点でもない。
退学。
それは単に学園から追い出されるという意味ではない。王立学園に籍を置く貴族子弟にとって、退学は将来の官職、縁談、家門の信頼、そのすべてに長く傷を残す政治的な死を意味する。とりわけ代官職と中央実務に依存する中位貴族にとっては、名誉刑であると同時に、実利の剥奪でもあった。
被告人の伯爵子息は、数秒遅れてその意味を理解したらしい。
最初に漏れたのは、間の抜けた一声だった。
だが次の瞬間、それは絶叫へ変わる。
「ふざけるなッ!」
彼は叫び、立ち上がりざま机を蹴り飛ばすようにして前へ身を乗り出した。弁舌士が止める間もない。
「たかが下級女一人に少し強く出た程度で、私をそこまで裁くというのか!」
グラクトは微動だにしなかった。
「少し、ではない。すでに判決理由は述べた」
その冷静さが、かえって伯爵子息を追い詰めたのだろう。
「黙れッ!」
怒鳴る被告の顔は、もはや怒りというより恐慌に歪んでいた。家も、立場も、将来も、一瞬で自分の手から滑り落ちていく。その現実に耐えきれず、理性が完全に剥がれ落ちている。
そして、次の瞬間。
彼は、完全に越えてはならない線を越えた。
「私を性の強要で裁くというのか!? 笑わせるな! 王族こそ同じことをしているではないか!」
沈黙が落ちた。
誰も、すぐには意味を理解できなかった。
あるいは理解したくなかった。
しかし、被告人は止まらない。止まれる段階をとうに越えていた。
「何が学則だ、何が品位だ! 私だけを獣扱いして、王家は違うとでも言うのか! 王妃の命で選ばれた令嬢を殿下の寝所へ送り込み、血統のためだの品位のためだのと理由を付けて女を囲わせているくせに!」
数名の令嬢が息を呑み、傍聴席のどこかで小さく椅子が鳴った。
「選ばれた娘たちは、家のために差し出される! 金を与え、地位を約束し、身体を管理し、王の血を乱さぬよう処置までして、あとは都合よく殿下の慰みに使う! それが高貴な義務で、私のやったことだけが卑劣な性の強要だというのか! 何が違う!」
もう、誰も声を出せなかった。
王家の寝室。
奉仕役の令嬢。
血統管理。
身体への処置。
それらは上級貴族の子弟にとって、完全に未知の話ではない。噂の断片として、空気の底に沈んだ公然の秘密として、ある程度は知っていた者もいる。だがそれは、あくまで「知っていても口にしないもの」だった。秩序を保つための、沈黙の上に成り立つ暗黙知。
それが今、全校生徒のいる法廷の中央で、最悪の形で言語化されたのだ。
伯爵子息はなおも止まらない。
「王子様の義務だの、王家の正統性だの、綺麗事で飾るな! やっていることは同じだろうが! 女を制度で縛って、拒めぬようにして、自分たちの都合に使う! それで私だけ裁かれるのなら、こんな法など最初から茶番だ!」
その声は、もはや理屈ではなく呪詛だった。
自分一人が落ちるなら、落ちる前に王家そのものへ泥を投げつけてやる。そんな、自爆に近い叫びだった。
その瞬間、法廷は奇妙な意味で完成してしまった。
学則は、被告を断罪した。
だがその勝利の場で、被告は王家自身の腐敗を暴露することで、裁きの壇上そのものへ血を塗り返したのだ。
訴追官席のリュートは、一瞬だけ瞼を伏せた。
『驚きはない』
少なくとも、王家の性と血統の管理制度それ自体は、この国の構造から見て当然の帰結であると理解している。問題は中身ではない。それが今、この場で、こういう言葉で、こういう形で全校へ撒き散らされたことだった。
グラクトは微動だにしなかった。
だが、その顔からはすっと血の気が引いている。怒りとも、衝撃ともつかない、張りつめた白さだった。
傍聴席の一角では、上位貴族の子弟たちが完全に硬直していた。
平民たちは理解しきれないまま、それでも「何か決定的に汚れたもの」を聞いてしまったことだけは本能的に感じ取っている。
中位貴族たちは、顔色を変えながらも誰一人としてその言葉を否定できない。
法廷で勝利したはずの法治が、その返り血として、王家自身の寝室の腐敗を浴びせられる。
そして、その毒はもう、誰の耳にも入ってしまっていた。
グラクトが何かを言うより早く、法廷の空気そのものが崩れかける。
木槌を打って沈黙を命じれば済む段階は、すでに過ぎていた。
誰かが、動かなければならなかった。