リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 レティシアの絶望
法廷は、奇妙な静けさに沈んでいた。
つい先ほどまでそこにあったのは、裁きの場としての緊張だったはずだ。どの証拠が通り、どの理屈が崩れ、どこまで特権が法の前で否定されるのか――――そうした、学園裁判としての熱と硬さ。
だが今、傍聴席を満たしているのは、それとはまるで違う冷たさだった。
レティシア・ラナ・ハーテスは、自分の席で小さく固まったまま、指先ひとつ動かせずにいた。
王家の寝室。
王妃の命。
奉仕役の令嬢。
血統の管理。
身体への処置。
法廷の中央で吐き散らされた言葉の断片が、遅れて遅れて胸の奥へ沈んでいく。意味は分かる。語句も分かる。けれど、それらがひとつの現実として結びつくたびに、胃の底が冷たく強張った。
『――――グラクト様は、攻略対象ではなかったの?』
いや、第一王子であることに変わりはない。だが、自分が思い描いていたような、ただ好感度を積み上げて恋に落ちる相手ではなかった。
夜の温室。疲れきった顔で、自分の言葉に少しだけ救われたように見えた彼。
その記憶のすぐ裏側に、今聞かされた王家の制度が、あまりにも生々しい現実として貼りついてくる。
「うそ……」
掠れた声が、唇からこぼれた。そんなの、と続けようとしても、誰も答えない。
法廷はまだ終わっていない。けれどレティシアにとっては、別の何かがもう崩れ始めていた。
その時、すぐ傍らから淡々とした声が落ちた。
「お顔の色が優れませんね。退出なさいますか」
顔を上げると、いつの間にかティナが立っていた。姿勢は正しく、声色は平板で、周囲の動揺からだけ切り離されたような静かな顔をしている。慰める声音ではなかった。だからこそ、レティシアは逆に縋るように問い返してしまった。
「今の、ほんとうなの……?」
ティナは瞬きひとつせずに言った。
「どの部分を指してお尋ねですか」
「どの部分って……」
レティシアは喉の乾きを覚えながら言葉を探す。
「グラクト様が……王子様が、ああいう、その、女の子を……そういうふうに、あてがわれてるって……」
ティナは一拍だけ置いて、極めて事務的に答えた。
「事実です」
その二文字だけで、レティシアの肩から力が抜けた。
優しい嘘も、取り繕いもない。ただ、事実だと断定された。
「王族の血統は、この国の秩序の根幹です。誰と子を成し、どの家を取り込み、どの家を遠ざけるかは、個人の気分や恋情に委ねてよい問題ではありません。ゆえに、王家の周辺には、王妃殿下の管理下で奉仕役が選定されます。家格、健康状態、家の事情、将来の処遇、従順性。そうした条件を精査したうえで、適切な者が配置されます。家への補償も、本人の立場も、王家の側で整理される。身体の管理もまた、血統の正統性を損なわぬための制度の一部です」
配置。整理。制度。
人ではなく、部品の説明のようだった。
レティシアは唇を震わせた。
「でも、それって――――」
言いかけたところで、ティナは初めて少しだけ彼女を正面から見た。
「先ほど法廷で裁かれた件と、同じではありません」
その言葉は、鋭く切り分けるようだった。
「あちらは、伯爵子息が私的な欲望のために、相手の拒絶を踏み越えて強要したものです。合意もなく、正当な手続もなく、ただ身分差を使って相手の自由を押し潰した。公序良俗にも、この学園の学則にも反します。だから裁かれました。一方、王家の側は、公的な血統管理と家門調整の一環として運用されています。綺麗な話ではありませんが、この国の社会通念では、無秩序な私的強要とは別物として扱われています。高位貴族の子女であれば、遅かれ早かれ知る常識です」
常識。
そんなもの、自分の知っている世界にはなかった。
好きになった相手には、他の女の子がいてもイベントの障害くらいにしか思っていなかった。けれど今、聞かされているのはそんな甘い話ではない。家の事情と、王家の事情と、身体の管理が、最初から一つの制度として繋がっている世界だった。
「じゃあ、グラクト様は……」
声が掠れる。
「それを、当たり前だと思ってるの……?」
ティナは迷わなかった。
「はい」
また、即答だった。
「殿下はその制度の内側でお育ちです。物心ついた頃から、王家とはそういうものだと教えられてこられた。ですから、伯爵子息の件と同じ意味でご自分を恥じる、という発想は、おそらくお持ちではありません」
その言葉が、レティシアには何よりきつかった。
もしグラクトが、それを苦しみながらも「ひどいことだ」と理解しているなら、まだ救いがあったかもしれない。けれど違う。彼にとってそれは、正しい仕組みであり、王族として当然引き受けるべき義務なのだ。悪びれもしない。裏切りとも思っていない。そこに道徳的な違和感を持つ発想自体が、最初から存在していない。
レティシアの中で、何かが決定的に崩れた。
温室で見せた弱さ。
裁判で見せた気高さ。
自分の言葉に救われたように見えた顔。
そのどれもが嘘だったわけではない。
それなのに、その人の背後には、自分にはどうしても受け入れられない世界がある。
「そんなの……」
両手で口元を押さえた。
「そんなの、嫌……っ」
それは嫉妬ではなかった。
もっと生理的な、もっと深い拒絶だった。
選ばれた令嬢。家のために差し出される身体。制度として管理される寝室。そのどれもが、レティシアの中にある「恋」のイメージとあまりにもかけ離れている。乙女ゲームの王子様だと思っていた相手が、そんなものの中にいる。しかも、それをこの世界の正しさとして受け入れている。
もう、好感度だのルートだのと言っていられる場所ではなかった。
自分がこれまで見ていたものは、ただ世界の表面だけだった。しかもその表面すら、自分は勝手にゲームの画面に読み替えていただけだったのだ。
ティナはそれ以上、余計な言葉を添えなかった。
「退出なさいますか」
もう一度だけ同じ問いを口にする。
けれどレティシアは、首を振ることも頷くこともできなかった。法廷はまだ終わっていない。だが彼女の中では、もっと別のものが、もう終わってしまっていた。
王子様との恋。
特別な再会イベント。
自分だけが選ばれる物語。
それらは悪意ある誰かに壊されたのではない。
ただ、この国の現実を、感情のない声で説明されただけで、呆気なく崩れ落ちた。
だからこそ、どうしようもなく残酷だった。