リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 拒絶の体温
その日の放課後、レティシアはティナに「今日はもう誰にも近づかず、寮へ戻って休んでください」と静かに言い含められていた。もっと正確に言えば、それは忠告であると同時に、半ば約束の確認だった。
今の彼女は顔色が悪すぎる。動揺も隠せていない。そんな状態で第一王子の周囲へ近づけば、何を言い、何を見せるか分からない。だから今夜は人目を避けて休み、何かあれば明日以降に考えればいい。ティナはそう告げ、レティシアもその場では力なく頷いていた。
けれど、夕暮れが学園を薄紫に染めるころになっても、彼女の胸のざわめきは少しも収まらなかった。
寮の部屋へ戻っても、じっとしていられない。椅子へ座れば、法廷で暴かれた言葉が蘇る。窓の外を見れば、夜の温室で笑いかけた自分が思い出される。ベッドへ横になろうとすれば、知らない令嬢たちの身体と、王家の管理という冷たい言葉が頭の中で結びついてしまう。
そして何より、グラクトの顔が離れなかった。
法廷で木槌を打った時の、あの冷たい横顔。
伯爵子息の叫びを真正面から浴びた時、ほんの一瞬だけ血の気を失った顔。
『――――きっと今、あの人も傷ついている』
そう思ってしまった。
思ってしまった以上、もう駄目だった。
行ってはいけない。今会えば、自分はきっとまともな顔をできない。
そう分かっているのに、それでも「それでも一度だけ会って、ちゃんと確かめたい」という衝動の方が勝ってしまう。
レティシアは、約束を破った。
寮の廊下へ出て、人気の少ない道を選び、ほとんど無意識のうちに足を進める。行き先は、もう決まっていた。温室だ。前と同じ場所なら、彼が来るかもしれない。自分でも馬鹿みたいだと思う。けれど、そうとしか考えられなかった。
夜の温室は、前に来た時よりもずっと冷たく見えた。硝子越しの月明かりが植物の輪郭を青白く縁取り、湿った土の匂いが静かに沈んでいる。あの時は甘いイベントの舞台にしか見えなかった場所が、今は妙に生々しい。葉の一枚一枚、花の一輪一輪が、やけに現実の質量を持ってそこにある。
扉を押し開けた瞬間、奥に人影が見えた。
グラクトだった。
彼は前と同じように、温室の奥まった長椅子に腰を下ろしていた。だが前回と違うのは、その背中に漂う疲労が、あまりにもあからさまだったことだ。裁判長としての威厳も、第一王子としての光も、今はどこか剝がれ落ちている。
こちらの気配に気づき、グラクトが顔を上げた。
「……レティシア」
彼は驚いたように名を呼ぶ。そこに混じっていたのは、困惑だけではなかった。安堵と、ひどく個人的な喜びがあった。まるで本当に、自分が来ることを望んでいたみたいな顔だった。
「どうしてここに」
問われても、レティシアはうまく答えられない。本当は会いに来た。だが今となっては、その理由をどう言えばいいのか分からない。
グラクトは立ち上がり、数歩だけこちらへ近づいた。その仕草にためらいは少なかった。むしろ、ようやく見つけた安らぎに手を伸ばすような自然さがあった。
「……来てくれたのか」
その一言だけで、レティシアは痛いほど理解してしまった。
この人は、何も知らない。
いや、正確には、法廷で暴かれた内容そのものは知っている。けれど、それが自分にとってどんな意味を持つのか、どうして自分がこんな顔をしているのか、その一番大事なところを、たぶん一ミリも理解していない。
グラクトは前の夜と同じように、自分の前へ来た。声は低く、疲れているのに、どこか必死だった。
「今日は……ひどく疲れた。君の顔を見たら、少し落ち着く気がした」
レティシアの胸がぎゅっと縮む。
ずるい、と思った。
そんなふうに弱った顔を見せられたら、何も知らなかった昨日までの自分なら、また簡単にイベントだと思って近づいてしまったかもしれない。
でも、もう違う。
彼が苦しんでいるのは本当だ。傷ついているのも、本当だ。
けれど、その人は同時に、あの王家の制度の内側にいて、それを「仕方のないこと」ではなく「正しい仕組み」として生きている。
その現実を知ってしまった今、以前みたいには近づけない。
グラクトは、レティシアが答えないことを拒絶とは受け取らなかったのだろう。むしろ、黙って立ち尽くす彼女を見て、さらに一歩だけ距離を詰めた。
「少しだけでいい、今夜だけはそばにいてくれないか」
柔らかく言い、そのまま、彼の手が伸びてくる。
ほんの自然な動作だった。前の夜にしたように、肩へ、あるいは腕へ、そっと触れて安心を確かめようとするだけの、ささやかな仕草。
けれどその手が視界に入った瞬間、レティシアの身体は反射で動いていた。
「っ……」
びくり、と肩を震わせて、明確に一歩、身を引いてしまう。
グラクトの指先は空を切った。
それだけのことなのに、時間が止まったみたいに感じられた。
グラクトはそのまま、伸ばした手を半端な位置で止めていた。何が起きたのか、本当に一瞬分からなかったのだろう。金の瞳が、ひどく静かに見開かれている。
「……レティシア?」
彼は困惑した声で呼ぶ。
「どうしたんだ、何かあったのか」
あった。
ありすぎるほどあった。
でも、それをどう言えばいいのか分からない。あなたが悪い、とは言い切れない。この国の仕組みが気持ち悪い、と叫びたい。でも、その仕組みをあなたは当然のように生きていて、自分がどれほど違う世界の人間かも分かっていない。
レティシアは唇を嚙んだ。
「わたし……今日、聞いて……。法廷で……」
そこまで言ったところで、グラクトの表情がほんの僅かに変わる。何のことを指しているのか、彼の頭の中ではおおよそ見当がついたのだろう。だが、その見当とレティシアの反応とが、まだ彼の中では結びついていない。
「……あの男の、最後の妄言か」
グラクトは低くそう言った。
「あんなものを真に受ける必要はない。あれは追い詰められた者の、ただの捨て台詞だ」
だがレティシアは反射的に顔を上げた。
「でも、違わないんでしょ……!」
その一言が、温室の空気をさらに冷やした。
グラクトは黙る。
黙った、ということ自体が答えだった。
「違わない、んだよね……?」
そう問うレティシアに対し、グラクトは今度もはっきりとは否定しなかった。代わりに、慎重に言う。
「……王家には、王家の制度がある」
その答え方は、彼にとっては誠実だったのだろう。誤魔化していない。嘘もついていない。
けれど、それがレティシアには決定的だった。
制度。
思わず笑いそうになった。泣きたいのに。
「そんなふうに言えるんだ……」
彼女は震える声で返す。
「だって、それって……他の女の子を、そういうふうにしてるってことでしょ……? 家のためとか、王家のためとか言って……」
グラクトの顔に、初めてはっきりと戸惑いが浮かんだ。
彼には本当に分からないのだ。なぜそれが、今ここでレティシアにとって自分を拒絶する理由になるのか。
「それは……王家として必要なことだ」
慎重に選んだ言葉だった。
「血統を守るためには、無秩序な関係を避けなければならない。学則も、裁きも、すべては王家の正統性の上に立っている。だから――――」
「だから、仕方ないって言うの!?」
レティシアの声は震えていた。責めているつもりなのに、半分は泣き声みたいだった。
「それは、そういう問題ではない」
グラクトは声を荒げない。ただ本気で困っていた。彼女がなぜこんなにも怯えた顔をしているのか、理解したいのに、その入口が見つからない。
「私がしていることは、伯爵子息のようなものとは違う。あれは私欲だ。私は――――」
「でも、同じで体に触れるんでしょ!!」
その一言で、グラクトは絶句した。
レティシアは自分でも残酷だと思いながら、止められなかった。たぶん、ここで止まったら、また元のゲームの解釈に戻ってしまう気がしたからだ。
「わたしには……違いが分からない……」
涙が、とうとう一筋だけ零れた。
「王家の義務とか、品位とか、そういうの言われても……わたしには、怖いだけ……っ」
グラクトは何も言えなかった。
怖い。
その言葉は、彼にとってあまりにも異物だった。
王家の制度は重い。煩わしい。息苦しい。
だがそれは正しい仕組みであって、誰かに恐怖される種類のものだとは、考えたこともなかった。
「……私が何か、悪いことをしたのか」
ようやく出たその問いは、言い逃れではなかった。開き直りでもない。本当に分からないから聞いているのだ。
その無垢な困惑が、レティシアには余計につらかった。
この人は、自分が何を背負っていて、何を当然だと思っていて、その当然が他人にとってどれほどおぞましく見えるか、本当に分かっていない。だから、自分の拒絶がどこから来るのかも分からない。価値観そのものが違う。
それは一時の誤解ではなく、もっと深い、埋めようのない断絶だった。
レティシアは唇を震わせたまま、首を横に振ることも、縦に振ることもできなかった。
「わからない……。でも、今は……近づけない」
それだけが、やっと言えた。
グラクトの顔から、ゆっくりと感情が抜けていく。怒りではない。傷ついた、というのが一番近い。けれどその傷の理由が理解できないから、ただ静かに立ち尽くすしかない顔だった。
温室の中では、どこかで夜咲きの花がかすかに香っていた。前の夜には甘く感じられたその匂いが、今はひどく生々しく、息苦しい。
レティシアはもう一度だけ、小さく「ごめんなさい」と言って、逃げるように温室を後にした。扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
グラクトは、その場に一人残されたまま、長く動けなかった。
法廷でどれだけ人を裁いても、自分が何を守るために立っているのかを語れても。たった今、自分がもっとも欲していたはずの相手から向けられた拒絶の意味だけは、どうしても理解できない。
王家の制度は正しい。
血統も品位も必要だ。
それがなければ、自分の法も、裁きも、立たない。
分かっている。
分かっているのに、なぜ彼女はあんなふうに怯えたのか。
その問いだけを残して、夜の温室には重い沈黙が沈んでいた。
こうして、打算なき劇薬として始まった二人の距離は、ついに価値観そのものの断絶によって引き裂かれた。
それは単なるすれ違いではない。
王家の論理で生きる者と、それを生理的に拒絶する現代の魂との、どうしようもなく深い裂け目だった。