リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 崩壊した夢と、唯一の同郷者
自室へ戻った瞬間、レティシアは扉に背を預けたまま、その場にずるずると崩れ落ちた。
鍵をかける音すら、ひどく遠く聞こえる。
胸が苦しい。喉の奥が焼けるように熱いのに、手足の先だけが妙に冷たかった。
『奉仕役の令嬢。血統の管理。対価。処置。制度』
法廷で聞いた言葉が、少しも頭の中から出ていかない。どの単語も、一つ一つなら意味は分かる。だが、それらが全部ひとつの現実として繫がった瞬間、自分がこれまで見ていた世界の色が、まるごと剝がれ落ちた気がしたのだ。
「……ちがう」
かすれた声が、誰もいない部屋に落ちる。しかし、こんなのちがう、とそう言い足そうとしても、うまく息が続かない。
ベッドの端に縋るように手を伸ばし、それでも立ち上がれなかった。頭の中では、これまでの出来事が勝手に巻き戻されていく。
入学式。再会。塩対応。裁判。夜の温室。
あの時までは全部、「そういう展開」なのだと思っていた。なぜなら、自分は没落寸前の子爵令嬢で、でも本当は攻略対象に見初められる特別な位置にいて、最初はうまくいかなくても、イベントを重ねればちゃんと距離が縮まっていくのだと信じていたからだ。
少なくとも、レティシアの知っている“物語”の中では、そういうものだった。王子は高貴で、孤独で、少し傷ついていて、だからこそヒロインだけがその心を救える。そういう構図を何度も見てきたし、憧れてもいた。ゆえに、この世界でもそうなのだと思い込んでいた。
けれど、違った。
グラクトは、ただ孤独な王子様ではない。そうではなく、王家の血統を守るための制度の中心にいて、本人の気持ちがどうであれ、その仕組みの中で生きている存在であった。
すなわち、そこには恋愛イベントなんて甘い言葉で隠せるものは何もない。
気づけば、胃の奥がひっくり返るような吐き気が込み上げていた。慌てて口元を押さえる。涙までにじんでくる。
何が一番嫌なのか、自分でもうまく言えない。それは、他の女の子がいるからというだけではない。もっと深いところで、王子だから仕方ないとか、王家だから必要だとか、そういう理屈で“人の身体”が最初から制度の中へ資源として置かれていることそのものが、どうしても気持ち悪かったのだ。
しかも、そのことをグラクト自身が、罪悪感もなく当然の仕組みとして受け入れているらしいことが、たまらなく怖かった。
温室で見せた、あの弱った顔。自分の言葉に少しだけ救われたように見えた、あの表情。あれが噓だったとは思わない。だが、その人は同時に、自分にはどうしても受け入れられない悍ましい世界の中にいる。
その現実を知ってしまった以上、昨日までみたいに「好き」「推し」「イベント成功」なんて思えない。それなのに、それでも胸の奥では、あの人の顔を思い出してしまう。
「もう、やだ……」
ぽろ、と涙が落ちた。
世界が違う。そう言ってしまえば簡単なのかもしれない。けれど、自分だってこの世界で生きてきた時間がある。子爵令嬢としての記憶も、家の没落も、食堂で打たれた頰の痛みも、全部“現実”だった。
なのに自分だけが、それをずっとゲームの画面みたいに処理していた。都合の悪いものはシナリオの障害だと思い、意味の分からない悪意さえイベントに変換して、平気な顔で突っ込んでいた。今になってようやく、その無知がどれだけ危うかったのかが分かり始めている。だからこそ、余計に怖かった。
この世界の人たちは、こんなことを「常識」として生きている。ならば、自分が今感じているこの嫌悪や恐怖は、誰に説明すればいいのだろう。
ティナには説明された。だが、あれは“理解”ではなかった。この国の制度として、事務的に整理されただけだ。自分が泣きそうになるくらい嫌だったこと。気持ち悪いと思ってしまったこと。グラクトに触れられそうになった瞬間、身体が勝手に拒絶したこと。そういう、理屈ではない感覚を、この世界の誰に話せるのか。
その時、不意に脳裏にあの声が蘇った。
『――――ちょっと拾うの、手伝ってくれる?』
日本語。
完璧な日本語で、何でもないみたいに話しかけてきた、あの時のヴィオラ。
レティシアははっと顔を上げた。ヴィオラ・オルネ・クロムハルト。グラクトの婚約者で、冷たくて、綺麗で、何を考えているのか分からない令嬢。ずっと「悪役令嬢ポジション」みたいに思っていた相手。
だが、違った。少なくとも一つだけ、絶対に違わないことがある。あの人は、自分と同じ日本語を知っている。
それがどういう形なのかは分からない。転生者なのか、記憶持ちなのか、自分と同じなのか、それとも違うのか。もっとも、この世界でたった一人、自分が今感じている“気持ち悪さ”や“怖さ”を、言葉の前提から共有できる相手かもしれない。
「……ヴィオラ様」
口にしてみると、その名前だけが妙に現実味を持った。
怖い。正直、すごく怖い。もし拒絶されたらどうしよう。もし「そんなことも知らなかったの」と冷たく笑われたら。もし自分の方が、ただのおかしな異物だと突きつけられたら。
それでも、他に思い浮かばなかった。今の自分の、このどうしようもない生理的嫌悪と恐怖を説明できる相手。この世界で、自分が「気持ち悪い」「怖い」「無理だ」と思ったその感覚を、頭ごなしに常識で押し流さずに受け止められるかもしれない相手。
それは、たぶんヴィオラしかいない。
レティシアは震える膝に力を込めて立ち上がった。鏡を見ると顔色はひどく、目元も赤い。とても人に会いに行く顔ではなかった。
だが、今さら整える気にはなれない。取り繕ったって仕方がない。むしろ、こんなふうに崩れたまま会いに行かなければ、もう一歩も動けない気がした。
上着を羽織り、扉へ手をかける。一度だけ深呼吸をしたが、胸の震えは止まらなかった。それでも、レティシアは部屋を出た。
王立学園の夜の廊下は静かで、石床を踏む自分の足音ばかりが妙に大きく響く。誰かに見つかったらどうしようとか、こんな時間に婚約者の部屋を訪ねるのはまずいのではないかとか、そういう常識も頭の片隅では分かっていた。けれど今は、それよりも「行かなければ、たぶん自分はこのまま一人で壊れる」という感覚の方が圧倒的に強かった。
ヴィオラの私室の前に立った時には、指先がひどく冷えていた。数秒ためらい、引き返そうかとも思う。しかし、ここで逃げたら、もう誰にも言えなくなる。レティシアは唇を嚙み、意を決して扉を叩いた。その音は、夜の静寂の中で驚くほど小さく、けれど決定的に響いた。
崩れた夢の残骸を抱えたまま、彼女は今、唯一の“同郷者”の前に立とうとしていた。