リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 自由と責任の鏡
扉が開いた時、ヴィオラはまだ机に向かっていた。
卓上には、魔導回路の図面と細かな計算式がびっしりと走る羊皮紙が広がっている。インク壺、金属針、焼けた魔導線の切れ端。それは公爵令嬢の私室というより、ほとんど小さな工房であった。
だが、入ってきたレティシアの顔を見るなり、ヴィオラはすぐにペンを置いた。
「……ひどい顔ね」
それは嘲りではなく、ただの事実確認であった。
レティシアは扉を閉めたまま、その場から動けない。何から話せばいいのか分からない。頭の中にあるものが多すぎて、言葉にしようとすると全部が喉の奥で詰まってしまう。
ヴィオラは数秒だけ黙って彼女を見ていたが、やがて椅子を引き、向かいの席を示した。
「立ったまま壊れるつもりなら帰りなさい。話すつもりなら座って」
その言葉に押されるように、レティシアは椅子へ腰を下ろした。指先はまだ細かく震えている。
ヴィオラは自分で茶を注ぎ、一杯を無言でレティシアの前へ置いた。それから自分も向かいへ座る。先に口を開いたのは、レティシアだった。
「わたし……前の世界では、十五歳で死んだの」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。
「こちらでは十四になった春、王都のパレードで頭を打って、急に思い出したの。自分が何者だったかも、この世界を知っている気がした理由も、その時に全部繫がって……」
そこで一度、レティシアは唇を嚙んだ。そして、ここは乙女ゲームみたいな世界なのだと思ったことを、ようやく口にした。
「没落寸前の子爵令嬢が、学園で王子様に見初められて、恋をして、救われる話なんだって。……勝手に、そう思い込んでた」
声は震えていた。だが、一度こぼれ始めるともう止まらなかった。
入学式。再会。温室。裁判。全部をそういうイベントだと思っていたこと。グラクトの孤独も、本物の苦しみも見えていたのに、その奥にある王家の制度を何一つ見ていなかったこと。法廷で暴かれた奉仕者制度を聞いて初めて、自分がどれほど危ない場所へ踏み込んでいたのか知ったこと。それでも彼を嫌いきれず、なのに身体は拒絶してしまったこと。
レティシアは最後にはほとんど泣きながら吐き出した。
「好きだって、思ってたのに……怖いとも、気持ち悪いとも、思っちゃったの……っ! 全部終わりにしたいわけじゃないのに、自分が何をどうしたいのか、もう、全然分からない……」
ヴィオラは最後まで遮らなかった。やがて沈黙が落ちる。
「……そう」
短い一言だった。そして、
「じゃあまず、一つだけ教えてあげる。貴女が壊れたわけじゃないわ。ようやく現実にぶつかっただけ」
レティシアが、赤くなった目で顔を上げる。ヴィオラは椅子の背に寄りかかり、静かに続けた。
「そしてもう一つ。私は貴女を、可哀想な同郷だからって甘やかすつもりはないわ」
その声は冷たい。だが、追い払う冷たさではなかった。
「自分が何を見誤っていたか、ちゃんと理解しなさい。でないと、また同じことをする。今の貴女は、現実に傷ついたから混乱しているだけで、まだ自分の足で立ち直ったわけじゃない。ここで慰めだけ与えられても、どうせまた“物語”の中へ逃げるでしょう」
そうしてヴィオラは、ふいに自分のことを語り始めた。
「私はね、十二歳の時から王家に売られているのよ。婚約という綺麗な名前が付いているだけで、本質は奉仕役と大差ないわ。公爵令嬢だからこそ、個人の意思など最初から後回しにされ、婚約の価値も、王妃候補としての利用価値も、すべて他人の都合で計算されてきた。自由になりたいと思っても、『公爵令嬢なのだから』で全部潰される。工房で回路を引いていたかったのに、誰かの飾りや、血を繫ぐための装置になるために生まれたわけじゃない。……だから、ずっと足搔いてきたわ。十二歳から、ずっとね」
レティシアは黙ってそれを聞いていた。
ヴィオラは冷静で、きつくて、完成された人に見えていた。だが実際には違う。前の世界の知識だけで全部を見通していたのではなく、この世界で傷つき、足搔き、その結果として今の場所まで来たのだ。
「ただ……私がその足搔き方を、本当の意味で教わったのは、この王国に来てからよ」
ヴィオラの視線が、少しだけ遠くなる。
「前の世界の自分は、貴女より少し先を生きていた。夢だけで現実は越えられないことも、才能だけでは組織に勝てないことも、一応は知っていたつもりだった。でも、それを“女として、どう生きるか”の形にまで落として見せてくれたのは、ルナリア様だった」
理不尽な盤面の中でも、感情だけに溺れず、けれど感情を捨てもしない。自由には責任が伴うこと、その責任を果たすには実力が要ること。
「私にとって“先に立つ女”は、ルナリア様なの。だから私は、公爵令嬢のまま王宮に飲み込まれるつもりはないわ」
婚約は外す。研究者として生きる。王妃だの伴侶だの、そういう役割に閉じ込められるつもりはない。その宣言は、レティシアにとって衝撃だった。ヴィオラは最初から強かったのではない。自由になりたいと願うだけでなく、そのために何を失い、何を引き受けるかまで計算し尽くしているのだ。
そして、ヴィオラは真正面から問いを返してきた。
「で、貴女はどうしたいの?」
逃げ場のない問いだった。これまでは簡単だった。好きな相手を選んで、イベントを踏んで、ルートに入る。望みなんて、最初から用意された選択肢の中にあった。しかし今、ヴィオラが突きつけているのは、そういうものではない。
「現代の感覚を守りたいなら、逃げることはできるわ。王家の盤面から降りて、身の丈に合った場所へ戻る。それも立派な自己決定よ。けれど、まだここに関わるつもりなら、無知なままでは駄目。貴女はもう一度盤面を踏み抜いている。自覚なく王子へ近づき、自覚なく周囲を刺激し、自覚なく『自分だけは特別』で動いた。運が悪ければ、貴女一人の破滅では済まなかったのよ」
ヴィオラの言葉は容赦がなかった。
「この現実に関わるなら、自分が何を壊し得るかを知りなさい。知った上で、それでも進むのか、降りるのか、選ぶのよ」
沈黙が落ちた。レティシアは膝の上で手を握りしめた。
自由、という言葉が、これまでとはまるで違う重さで胸へ落ちてくる。好きな人を選べることが自由なのではない。逃げるのか、残るのか、その結果を引き受けて自分で決めることが自由なのだ。
「……わたし、まだ分からない」
やっと、それだけ言えた。グラクトをどう思えばいいのかも分からない。怖かったし、嫌だった。でも、それで全部嫌いになれたわけでもない。その告白に、ヴィオラは静かに返した。
「当然でしょうね。感情は、知識を入れた瞬間に綺麗に切り替わる部品じゃないもの」
その言い方がヴィオラらしくて、レティシアは涙の滲んだまま、ほんの少しだけ息をつけた気がした。
「今日は答えを出さなくていいわ。でも次に動く時は、“イベントだから”じゃなく、自分の意志で動きなさい」
逃げるなら逃げるでいい。戻るなら戻るでいい。ただし次は、誰かが用意した物語に乗るんじゃなくて、貴女自身が選ぶこと。それは決して慰めではなかった。けれどレティシアにとっては、初めて与えられた現実的な足場だった。泣いて終わるのではなく、ここから先を自分で決めろと、そう言われたのだ。
レティシアは赤くなった目のまま、ゆっくりとうなずいた。まだ答えはない。自分が逃げるのか、関わるのかも分からない。けれど少なくとも、もう「ゲームだから」「イベントだから」では動けない。そのことだけは、はっきり分かった。
夜の静かな私室で、二人の転生者はようやく同じ地平に立った。同郷だから無条件に救われるのではない。同郷だからこそ、誤魔化せない現実を突きつけ合う。それが、この箱庭で生き延びるための、最初の対話であった。