リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 前世の密談と、為政者の葛藤
レティシアの足音が廊下の奥へ消え、私室に沈黙が戻った。
ヴィオラはしばらく扉を見つめたまま、机上の冷めかけた紅茶へ視線を落とした。レティシアが触れたままのカップには、まだわずかに温もりが残っている。
「……もういいわ」
その一言に応じて、奥の内扉が静かに開いた。リュートは無駄な前置きもなく部屋へ入り、レティシアが先ほどまで座っていた椅子を一瞥した。その赤い瞳には、同情でも警戒でもなく、盤面の駒を見極める実務家としての冷静さが宿っていた。
「あの子は、どうだった?」
「若いわね。あまりにも」
ヴィオラは背もたれに身を預けた。答えは短かったが、そこに含まれる意味は重い。悪意はない。むしろ、驚くほど真っ直ぐだ。だが、真っ直ぐなことと現実を知っていることは別である。
「あの子は前の世界でも、こちらの世界でも、大人として責任を引き受ける前に全部を中断されたまま来てしまった。だから“王子様への憧れ”と“王家の制度の醜さ”を、同じ現実として処理できなかったのよ」
思春期なんて、誰だって一度は夢を見る。自分だけが特別で、誰かの救いになれて、運命みたいなものが用意されていると。自分たちだって、そういう年頃を通ってきた。もっとも、自分たちはその夢を壊される現実を、もう知っている。あの子は今、ようやくそこにぶつかったばかりなのだ。
「だから、あそこまで拒絶した、と」
リュートの確認に、ヴィオラは頷く。
「あれは演技じゃないわ。身体が先に理解したのよ。すなわち、気持ち悪い、怖い、無理だって。だが同時に、まだグラクト殿下を嫌いきれない。だからこそ余計に苦しい」
さらにヴィオラは、冷徹に付け加えた。
「その反応そのものは、むしろまだまともよ。本当に壊れていたら、あそこでもまだイベントの言葉に逃げるでしょう。でも彼女は、ちゃんと吐き気を覚えた。自分が何を踏み抜いていたか、ようやく分かったのよ」
「……それで即座に使えるわけでもない」
リュートが静かに言うと、ヴィオラも当然だと答える。
「ええ。ゆえに少なくとも今は、彼女に役なんて与えられないわ」
グラクトの婚約候補の代替品みたいな位置へ押し込んだ瞬間、レティシアはまた物語の中へ逃げ込む。つまり、自分で選ぶ前に役を与えられたら、何も変わらない。だからこそ現時点では、彼女を政治的スキームにはまだ使えない。
もっとも、利用価値がないとは言わない。
「あの無自覚な全肯定は、殿下にとって他で代替できない。だけど、本人がまだ“残るのか、降りるのか”を決めていない。その段階でこちらの都合を被せるのは下策よ。未熟だからこそ、今ここで役を与えたら壊れるわ」
「同感だ。今の彼女は、まだ自分の感情に名前をつけている途中だ。ここで誰かの駒として意味づけすれば、また別の形で盤面を乱す」
かくして、ようやく話題は別の場所へ移った。
グラクトのことだ。
ヴィオラはその沈黙を見て、率直に問うた。
「……まだ、割り切れないの?」
リュートは、しばらく迷った末に、低く認めた。
「兄上は、思っていた以上に本物だった」
第一回裁判だけではない。今回もそうだ。学則を理解し、その上で王家の論理を被せて、制度を支える言葉に変えている。しかもエドワルドまで、それを自分の政治言語の中へ取り込んだ。
リュートが作ったのは、法治の箱庭だった。特権階級を合法的に削り、いずれ王権すら法で縛るための実験場。しかし、もしグラクトが本当に“王として法を担える器”を持ち始めているのだとしたら――――。
理屈の上では、あり得る。
すなわち、最後に目指す立憲秩序、その象徴として兄を据える未来が。
「象徴としての王、ということね」
ヴィオラが言い換えると、リュートは頷く。
「王家の正統性は、今この国で法を通す最大の燃料だ。全部を壊して共和へ行くことも理論上はできる。だが、摩擦が大きすぎる。血が流れすぎる。ゆえにもし兄上が、自分の意志で制限される王になれるなら、犠牲は減る」
それは、為政者としての冷徹な論理であった。だが、その先に落ちた沈黙が、それだけでは済んでいないことを示していた。
「……でも、それをあなたが受け入れられるかは別でしょう」
ヴィオラの静かな言葉に、リュートの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
「――――母上を奪った男だ」
絞り出すような声だった。直接手を下したのはセオリスでも、あの日、母を守るべき立場にいながら、何も知らず、何も見ず、結果としてあの悲劇の中心にいたのは兄だ。頭では分かっている。今の兄は、あの頃とは違う。法を理解し、責任から逃げず、自分の罪にも向き合い始めている。しかし、それで母が戻るわけではない。
ヴィオラは、その言葉を受け止めたまま短く息を吐いた。
思春期を通ってきた二人には、レティシアの未熟さがよく分かる。夢のまま現実へ飛び込み、傷ついて初めて自分の足元を見る、その危うさも。だが同時に、自分たちはもうその位置へ戻れないことも知っていた。
ヴィオラは十二歳で王家に買われ、公爵令嬢という立場の不自由さを叩き込まれた。リュートは五歳で前世を思い出し、母の死によって、感情と合理を切り分けてでも盤面を読む側へ立たされた。恋や憧れを、ただの夢のまま抱えていられる季節は、とっくに終わっている。だからこそレティシアは眩しくもあり、危うくもある。
そしてグラクトをどう扱うかという問いは、彼らにとって、もはや子供じみた好悪では決められない場所まで来ていた。
「合理で言えば、殿下を使う方が正しいのかもしれないわね」
ヴィオラがそう言うと、リュートは苦く笑った。
「感情では、そうならない」
その返答に、ヴィオラはあっさりと頷いた。
「でしょうね。でも、今ここで答えを出す必要はないわ。可能性として認識しておけば十分でしょう。今すぐ『許すか壊すか』まで決めようとするから、余計に苦しくなるのよ」
「……簡単に言うな」
「簡単ではないわ」
ヴィオラは即座に切り返す。
「感情と合理が綺麗に一致するなら、誰も苦労しない。少なくとも今のあなたに必要なのは、“そういう未来も理屈の上ではあり得る”と認めることだけ。そこから先は、盤面がもっと進んでから考えればいいのよ」
リュートはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「……本当に、面倒な盤面だ」
「今さらでしょう」
その返答に、二人の間で初めて、ほんのわずかに空気が緩んだ。暖炉の火がまた小さく爆ぜる。
レティシアは今、泣きながら自分の選択へ向き合おうとしている。リュートは、王として立ち始めた兄を使うのか壊すのか、そのどちらもまだ決められない。そしてヴィオラは、その両方を見据えながら、自分の自由のために計算を続けている。
箱庭の中で、それぞれが違う形で選ぶ責任へ追い立てられていた。
その夜の密談は、誰の結論も出さなかった。だが、結論が出ないまま盤面を見据えること自体が、もう子供の思考ではない。合理と憎悪。自由と責任。夢と現実。そのすべてを抱えたまま、それでも前へ進むしかないところまで、彼らはすでに来ていた。