リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 蜘蛛の糸を紡ぐ母
離宮のルナリアの私室は、夜の帳が下りた頃に柔らかなランプの光で満たされていた。暖炉の火が静かに揺れ、部屋全体を温かな橙色に染めている。重厚な机の上には、開かれた羊皮紙とインク壺が置かれ、ペンの先がわずかに光を反射していた。
リーゼロッテは部屋に入るなり、リュートに駆け寄った。小さな体が兄の胸に飛び込み、震える声で泣きじゃくる。
「お兄様……! お兄様の言う通りにしたのに……『慎め』って……女に未来はいらないって……!」
涙がリュートの服を濡らす。彼女の小さな手が、兄の袖を強く握りしめ、離さない。離宮に戻る道中、彼女は一言も発さず、ただ仮面を被り続けていた。だが、ここに帰ってきた瞬間、すべてが崩れ落ちた。
リュートは妹を抱きしめ、背中を優しく撫でた。だが、彼の表情は硬い。唇を噛み、胸の奥で自責が渦巻く。
『……僕のミスだ。あいつらは議論なんて求めていなかった。ただの「従順な人形」を欲しがっていたんだ。僕の浅知恵が、リーゼを傷つけた』
ルナリアは静かに立ち上がり、二人の元へ歩み寄った。黒髪がランプの光に揺れ、赤い瞳は穏やかだが、その奥に冷徹な光が宿っている。彼女はリーゼロッテを抱き上げ、膝の上に座らせた。娘の涙を優しく拭いながら、静かに、しかし力強く言った。
「リーゼ……よく頑張ったわね。お母様は、全部聞いたわ」
リーゼロッテは母の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。
「お母様……私……賢くなろうとしたのに……全部、無駄だった……」
ルナリアは娘の髪を優しく撫で、リュートに視線を移した。リュートは唇を噛み、俯く。
「お母様……僕が……」
ルナリアは静かに首を振り、微笑んだ。だが、その微笑みは優しい母のものではなく、帝国の公爵令嬢としてのものだった。
「リュート。あなたの策は間違っていなかった。ただ……この国では、知性が通じない場面があるだけよ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に控えていたルリカに視線を向けた。声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「ルリカ。紙とペンを持ってきて」
ルリカは即座に動き、机の上に新しい羊皮紙とインク壺、羽ペンを並べた。ルナリアは優雅に席に着き、ペンを取り、文字を綴り始める。リュートが近づき、声を潜めて問う。
「お母様……実家に圧力を? でも、露骨にやれば『外患誘致』で……」
ルナリアはペンを止めず、涼しい顔で答えた。
「まさか。そんな無粋な真似はしないわ。私はただ、『定期報告』を書くだけよ」
彼女が書いたのは、帝国貴族である父への時候の挨拶文。穏やかな文面に、家族の近況を綴っている。だが、最後の追伸に、さらりと、しかし強烈なフックを仕込んだ。
『……さて、夫の娘である第一王女リーゼロッテですが、先日「無詠唱化」と「属性複合」の理論的可能性について語っておりました。王国の古い教育では「異端」とされましたが、実力主義の帝国ならば、この「未来を見る目」がどう評価されるのか、父上のご意見を伺いたいものです』
ルナリアは封蝋を押し、リュートに見せた。声は静かだが、確信に満ちている。
「わかる? 私は『助けて』なんて一言も書いていない。ただ、『逸材がここに埋もれていますよ』と、実力至上主義の怪物(父)に餌を投げただけ」
リュートは息を呑んだ。ルナリアは続ける。
「父なら、この情報を読めばどう動くか明白よ。帝国の利益のために、必ずこの『才能』を確保しようとする。王国への圧力は、帝国が勝手に判断したことであり、私はただの世間話をしたに過ぎない。……これが、リスクを負わずに国を動かすということよ」
リーゼロッテは母の膝の上で、涙を拭きながら見上げた。声は震えていた。
「お母様……私……本当に、守ってもらえるの?」
ルナリアは娘の頰に優しく手を添え、赤い瞳をまっすぐにリーゼロッテに向けた。声は優しく、しかし断固として響いた。
「もちろんよ。リーゼは私の娘だもの。かけがえのない宝物。誰にも渡さない。誰にも傷つけさせない。絶対に、絶対に守るわ」
その言葉は、優しい母の約束であり、同時に帝国の虎の咆哮だった。
リーゼロッテの瞳から、再び大粒の涙がこぼれた。今度の涙は、絶望ではなく、深い安堵の涙だった。彼女は母の胸に強く抱きつき、静かに嗚咽を漏らしながら、温もりの中で少しずつ落ち着きを取り戻していった。
ルリカが静かに部屋の隅から近づき、温かな紅茶を差し出す。部屋に、再び静かな平穏が戻った。
だが、リュートの胸中では、別の感情が渦巻いていた。母の圧倒的な「政治力」と、自分の未熟さの差。知恵だけでは足りない。この国を変えるには、もっと冷徹な手段が必要だ。
夜の離宮に、ランプの光が揺れる。蜘蛛の糸は、静かに、しかし確実に絡みつき始めていた。