リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 制度に対する生理的嫌悪
ヴィオラはもはや、遠回しな表現をいっさい捨て去った。
「市井の感覚から見れば、愛もなく他の令嬢たちと管理された関係を持つ王子など、どれほど政治的に正しくとも、恐怖と嫌悪の対象でしかありませんわ」
グラクトはそこで初めて、物理的な打撃を受けたようにはっきりと息を止めた。
「……伯爵子息の私的な暴力と、王家の血統管理制度を、同一のものだと言っているのか?」
反発と怒りが入り混じったグラクトの問いを、ヴィオラは即座に否定する。
「いいえ」
「わたくしが申し上げているのは、制度の法的な整理の話ではなく、受け手の『感じ方』の話ですわ。前者は私的な欲望による暴力的な強要であり、後者は王家の正統性維持のための公的かつ合理的な制度です。その区別くらい、この国の高位貴族なら当然理解しております。……ですが、問題は『その制度に自分が生身の肉体として巻き込まれると想像した時の感覚』なのですわ」
「感覚……?」
「婚約も契約もなく、ただ個人的に惹かれた相手がいるとする。その相手が、王子である以上すでに複数の令嬢と管理された肉体関係にあり、それを当然の義務としていると知った時、その娘が最初に抱くのは制度への理性的理解などではありません。もっと直接的で、圧倒的な『生理的拒絶』です」
グラクトは、反論の言葉を完全に失った。
彼にとって血統の管理は、善悪や個人の嗜好の問題ではない。王家の制度は、好き嫌いの対象ではなく、物心ついた時から当たり前のようにそこに存在する“巨大な仕組み”でしかなかったのだ。面倒だとか、息苦しいとか、そういった当事者としての負の感情はあっても、その制度自体が外部の人間から「生理的に嫌悪される」という発想は、彼の脳内に最初から存在しなかった。
だからこそ、分からなかったのだ。
レティシアの無理解が何を意味するのかも。自分の背後にある巨大な影が、何の力も持たない娘にとってどれほど生々しい恐怖の対象になり得るのかも。
ヴィオラはその残酷な事実を、容赦なく言語化して突きつける。
「救われたかった相手が、同時に、自分には到底受け入れられない生々しい制度の内側に立っている。しかも本人には、その制度が嫌悪される理由すら見えていない。……それが、普通の娘にとってはどれほど恐ろしく、気持ち悪いことか、お分かりになりませんの?」
それは、あまりにも身も蓋もない現実であった。
グラクトはその場に立ち尽くしたまま動けない。王子としての威厳も、法廷で見せた裁判長としての断定も、そこには一欠片も残っていなかった。
『――――私は、自分が当然だと思っていた前提が、これほどまでに無神経で暴力的なものだと気づいていなかったのか』
夜は深く、窓の外では冷たい風が弱く枯れ枝を鳴らしている。
奉仕制度は、彼にとって善悪の評価を下す対象ではなく、ただそこに存在する環境であった。ゆえに、その仕組みのど真ん中にいる自分自身が、誰かに「恐怖と嫌悪の対象」として見られ得るという事実は、彼にとって生まれて初めて触れる劇薬のような異物だった。
すなわちそれは、王として純粋培養された少年が初めて知る、市井の血の通った感覚であった。
◇
グラクトが言葉を失ったまま立ち尽くしていると、ヴィオラはわずかに視線を伏せ、そこからもう一段だけ深い急所へと刃を滑らせた。
「殿下が今苦しんでいるのは、レティシア嬢との断絶だけではありませんわ。もっと前から、ずっと同じ構造的な欠落を見落としていたからです」
そして彼女は、過去の因縁へ刃を向ける。
「……ルナリア様のことですわ」
その名が出た瞬間、室内の空気が一段と張り詰めた。
グラクトにとって、ルナリアはずっと理解しがたい女だった。異国の価値観を持ち込み、王宮の空気を読まず、どこか王家へ膝を折り切らない第二側妃。そして何より、自分の情交奉仕者として打診された際、完璧なまでに拒絶した相手である。
「殿下は、あの拒絶をどう捉えていらっしゃいましたの?」
「……あれは、王家の名誉を拒んだ、異邦人の高慢だったのだろう。彼女は王家の在り方そのものを受け入れなかった」
グラクトの低い返答に、ヴィオラは静かに首を横に振った。
「違いますわ。ルナリア様が拒んだのは、殿下という個人への好悪ではありません。王家の都合で、自分の身体と尊厳を当然のように制度へ組み込もうとする、その『仕組みそのもの』だったのですわ」
「……ッ」
グラクトは鋭く息を吞んだ。
あれは名誉の話ではなかったのか。王家の論理ではそう整理されている。だが、当の本人にとってはまったく別の意味を持っていたというのか。
「殿下は、ルナリア様が『拒んだ』という表面的な事実は見ていた。ですが、『何を拒まれたのか』という本質は見ていなかったのです。自分が侮辱されたのだと思った。王家が軽んじられたのだと思った。けれど実際には、ひとりの女性が、自分の尊厳を勝手に制度へ流し込まれることを明確に拒否しただけだったのですわ」
静かで、冷徹な断罪だった。
さらにヴィオラは、ソフィアについても同じ構造の刃で切り込む。
「では、第三側妃ソフィア様はどうでしょう? 彼女は殿下を支え、慰め、受け入れた。……ですがそれは、本当に殿下個人への純粋な献身だったと思いますか?」
「ソフィアは……私を、肯定してくれた」
「ええ。ですがソフィア様は極めて賢い方です。王宮の力学も、側妃としての自らの位置も、ご自分の実家である魔導派の利害も、すべて冷徹に計算した上であの役目を引き受けたのです。ルナリア様と同じく、自分の現実を見た上で『選んだ』結果に過ぎませんわ」
ルナリアは己の尊厳の問題として拒み、ソフィアは立場と利益を理解した上で受け入れた。どちらも、自分自身の現実の中で主体的に判断している。それなのにグラクトは、そのどちらの行動も“自分への反応”としてしか受け取ってこなかったのだ。
「ルナリア様は、殿下を愛していないから拒んだのではありません。ソフィア様は、殿下だけのために引き受けたのでもありません。けれど殿下は、彼女たちが何を守り、何を差し出し、何を計算していたのかを見ようとせず、ただ『彼女たちが自分をどう扱ったか』だけで、すべてを理解したつもりになっていたのです」
その言葉を叩きつけられた時、グラクトの胸の奥で、長年信じてきた絶対的な世界観が音を立てて崩れていった。
ルナリアの拒絶。ソフィアの受容。
どちらも、自分を中心に起きた事象だと思っていた。だが違う。彼女たちはそれぞれ、自分自身の立場と現実の中で計算し、選んでいただけなのだ。そこにいる自分は、世界の中心に見えて、実のところ彼女たちの判断材料の一部でしかなかったのである。
グラクトはようやく、ひどく掠れた声で呟いた。
「……自分はずっと、世界の中心にいるつもりだったのだな」