リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第8話『法治の拡張2』

2 王の逃避(重圧と、空白の夜)

 

 学則草案の理解と修正作業は、グラクトが想像していた以上に骨の折れるものであった。

 

 学園内の約定に関する紛争を扱う。言葉にすれば簡単だ。だが、リュートとエドワルドが組み上げた草案は、精緻にして冷徹だった。グラクトにはまだ、こうした客観的な論理の骨組みを一から構築する能力はない。ゆえに彼は、提示された条文案を一つ一つ噛み砕き、上に立つ為政者の視点から生じる実務上の疑問を書き留めることで、必死にその論理へ食らいついていた。

 

 夜の第一王子補佐官室には、もう他の生徒の姿はない。

 燭台の橙の火が机上の羊皮紙を染め上げ、その周囲だけが沈んだ海のような暗がりから浮かび上がっている。積み上がった書物の影は長く伸び、乾いた紙と微かなインクの匂いが、静寂の落ちた部屋に濃く満ちていた。

 

 向かいで資料をめくっていたエドワルドが、やがて顔を上げる。

「……殿下。本日はここまでにすべきです」

 

 告げるその声はいつも通り平板だった。だが、その平板さの奥には本物の疲労が滲んでいる。

 グラクトはすぐには答えなかった。目の前の条文案に視線を落としたまま、羽根ペンを走らせる。

 

「……エドワルド。この動産と契約の登録制度だが、生徒会は提出された書類の形式審査だけを行うのか」

 ほとんど独り言のように整理を続ける。

 

「事実関係の裏付けまで踏み込まず、形式審査のみで通すのなら、第三者が立ち会う公証人制度のようなものを学園内にも設け、手続そのものを簡易化できないか。申請のたびに役員が束縛されては実務が回らん」

 エドワルドは静かに頷き、手元の控へメモを取る。グラクトは思考を止めず、さらに別の頁をめくった。

 

「それに、調停の申立てだ。『誰でも申立てできる』と門戸を開いても、相手が上位貴族であれば、後の報復を恐れて訴え自体を萎縮する者が必ず出る」

 グラクトはそこまで言葉にして、手元の草案に確かな手応えを感じていた。

 

 身分や感情を排し、客観的な記録で争いを裁定するこの仕組みは、学園内のいざこざを治める上で極めて「使い勝手が良く、有効」であった。上位者による恣意的な支配を抑え込み、公平な手続によって平穏を担保すること。上位者の品位とは特権を振るうための免罪符ではなく、学園の秩序を保つという『上に立つ者の責務』の中核にあるべきものだという確信が、刑事規則に加えてこの約定の規則を精査するほどに、彼の内で強くなっていた。

「報復の禁止を謳うだけでは足りない。匿名での事前相談か、あるいは風紀委員が間に入ることで申立ての心理的負担を減らす道を残すべきではないか」

 

 エドワルドはしばらくその横顔を見ていたが、やがて少しだけ強い声音で、名を呼んだ。

「殿下

 

 ようやくペン先が止まった。

「まだ終わっていない。次の立証責任の条文が」

 グラクトが低く返すと、エドワルドは冷静に言い返した。

 

「終わらせるために、今夜の残り時間で殿下が倒れては意味がありません」

 その言い方に大袈裟な感情はない。だが、それだけに現実味があった。ここ数日、エドワルドもまたほとんど休んでいないのだ。調停の条文案を組み、学則の体系を崩さぬよう整え、上位貴族の反発がどこで噴き出すかまで読み切った上で、それでも制度として成立する形を探している。文官としての能力を、ほとんど限界まで使役している顔であった。

 

 グラクトはようやく視線を上げた。

 エドワルドのプラチナブロンドはいつも通り整えられているが、目の下には疲労の薄い影があった。たぶん自分も似たような顔をしているのだろうと、グラクトはぼんやりと思う。

「……すまない」

 

 短く漏らすと、エドワルドは即座に返した。

「謝罪は不要です。殿下が本気で学則の欠点に向き合い、統治者としての修正を加えておられること自体は、歓迎すべきことです」

 

 エドワルドはそこで一度言葉を切り、主の顔を真っ直ぐに見据えた。

「私が危惧しているのは、その熱心さの理由が、学則そのものだけではなさそうだという点です」

 

 その言葉には、踏み込みすぎぬよう抑えながらも、側近としての確かな観察眼が滲んでいた。

 グラクトは答えなかった。だが、その沈黙こそが答えだった。

 急いでいる。それは事実だ。身分ではなく記録で裁く仕組みは争いを治めるのに便利であり、草案の死角を埋めるのは上に立つ者の責務だ。その認識自体は噓でも建前でもない。

 ただ、それだけではなかった。

 条文を読み、制度の穴を塞ぎ、実務の懸念を詰めている間だけは、考えなくて済むのだ。

 温室でのことも。レティシアが反射的に身を引いた時の顔も。ヴィオラに突きつけられた残酷な問いも。

 

『――――レティシア嬢を傍へ置きたいのだとしたら、あの娘に、どのような立場を与えるつもりなのですか』

 

 婚約者か、妾妃か、奉仕役か、それとも何の名も与えず曖昧なまま置いておくのか。

 どれも違う。だが、では何が正しいのかと問われても、彼の中には何一つ答えが出ないのだ。

 

 王族としての義務は捨てられない。奉仕制度が悍ましいと今さら言って済む立場でもない。その仕組みの上に立つ王家の正統性こそが、いま自分が学園を統治し、秩序を敷くための絶対の根拠にすらなっているのだから。だが同時に、レティシアをあの生々しい制度の内側へ引きずり込むことだけは、どうしても「違う」としか思えなかった。

 だからこそ、考えない。

 

 考える代わりに学則の編纂へ没頭する。何が正しいか分からない夜ほど、為すべき「実務」へ逃げ込む。それが今のグラクトにできる、最も惨めで、最も効率的な逃避であった。

 

 しばらくして、グラクトは低く名を呼んだ。

「……エドワルド。私は、逃げているのだろうか」

 

 エドワルドは一瞬だけ目を伏せる。その問いには、軽々しく答えられない。

「学則整備に向き合うこと自体は逃避ではありません。ですが、殿下がそこへ通常以上に没頭されているのは、他に直視したくないものがあるからかもしれない――――とは、思います」

 それが、彼の選んだ精一杯の答えだった

 

 グラクトは苦く笑った。

「まっすぐに断言しないあたりが、いかにもお前らしい。優しいのか冷たいのか分からないな」

 

「後者で結構です」

 即答が返ってくる。だが、その返しの淡白さの奥で、エドワルドの瞳もまた静かに疲れていた。

 

 グラクトは小さく息を吐き、ようやくペンを置いた。指先には、知らぬ間にインクが黒く滲んでいる。

 

 その夜、自室へ戻っても眠りは浅かった。

 寝台の天蓋を見上げれば、思い出すのは条文ではない。レティシアの青ざめた顔と、ヴィオラの冷たい声だ。

 彼女は今、何を考えているのか。自分をどんな目で見ているのか。もう二度と、あの温室のようには笑わないのではないか。

 そうした問いが浮かび上がるたび、グラクトは無理やり別の紙束を引き寄せた。

 

 学則改正草案。調停手続の整備案。客観的記録の認定基準。調停不成立時の裁定移行要件。

 読んでいる間だけは、為政者でいられる。一人の男として立ち尽くす代わりに、秩序を編む統治者として机に向かっていられる。

 窓の外では、冷たい夜風が枝を揺らしていた。学園のどこかでは、同じように灯りを残して学ぶ生徒たちがいるのかもしれない。だがグラクトの部屋にだけは、別種の静けさが落ちていた。それは努力の静けさではなく、答えの出ない問いから目を背けるための、重く息苦しい静けさであった。

 

 正しい統治者になろうとすること。それは確かに尊い。だが今のグラクトにとって、その尊さは同時に、最も都合のよい避難所でもあった。

 人間としての弱さと向き合う代わりに、上に立つ者の責務の底へ沈み込む。その沈み込みがどれほど危ういものか、彼自身、まだ分かっていない。ただひたすらに条文を追い、客観的な記録の定義を読み、明日の会議で詰めるべき論点を整理し続ける。

 

 そうしていれば、己の中にある残酷な「空白」を見ずに済むからだった。

 

 

 

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