リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第8話『法治の拡張3』

3 次年度の盤面

 

 その夜、表向きの生徒会会議が終わった後、学園の奥まった記録室には、離宮陣営の中枢だけが静かに集結していた。

 

 今や半ば恒常的な密談の場となったその部屋の中央には、先ほど可決されたばかりの『約定に関する調停』の草案が置かれている。燭台の火が羊皮紙の上で静かに揺れ、その周囲をリュート、東のアイリス、そしてティナが囲んでいた。もっとも、ヴィオラは今夜は不在であったが、制度の骨格についてはすでに共有済みである。

 

 静寂の中、机上の草案を見下ろしていたリュートが、ゆっくりと口を開いた。

 

「兄上は、統治の責務として学園内の揉め事を整理するための客観的な仕組みを整えようとしている。その意図自体に偽りはないはずだ。ただ、この学則に外の世界の契約関係を覆す強制力まではないからね」

 

 彼の平易な声が響くたび、室内に満ちていた政治的な熱が、ひんやりとした理性の温度へと冷まされていく。

 

「あくまで学園内で発生し、学園内の資格と記録で完結する紛争を裁けるに留まる。だからこそ、上位の者を縛ること自体を目的にするべきじゃない。私たちが本当に浸透させるべきは、身分よりも記録が優先されるという『客観性と公平性』のほうだと思う」

 

「ええ、その新しい『感覚』さえ彼らに染み込ませることができれば、今はそれで十分ですわ。国家の形を一度に取り替える必要などありませんもの」

 

 アイリスの凛とした声が重なると、部屋の空気はさらに一つ凍りついた。扇で口元を覆う彼女の眼差しには、次代の貴族たちを盤上の駒としか見ていない底知れぬ冷酷さが宿っている。

 

「次代の貴族たちに、身分を振りかざすよりこの学則を使った方が便利だと覚えさせ、破った方が不便だと身体へ刻ませるのですわ」

 

「ならば、制度施行後すぐに『成功例』を作る必要がありますか」

 

 アイリスの冷気に当てられることもなく、ティナが淡々と事務的な問いを挟む。羊皮紙の上を滑るペンの乾いた音だけが、不気味に響いた。

 

「そうだね。最初の裁定は、下位の者が上位の者に勝つ構図が必要になる。ただ、そこに同情や王族の恩情は一切挟みたくない。客観的記録と証拠という『要件』を備えた側が、手続に沿って公平に勝つ形が理想だろうね」

 

 リュートの言葉を受け、ティナがわずかに眉を寄せる。

 

「……下位の者が勝つとなれば、大貴族などを狙うのですか」

 

「いいえ。真の上位貴族はしたたかですし、心に余裕がありますもの。安易に下位の者を脅して小銭を巻き上げるような、思慮に欠ける真似はいたしませんわ」

 

 アイリスがパチンと扇を閉じた。その乾いた音が、狩りの標的を定める合図のように室内の空気を張り詰めさせる。

 

「狙うべきは、地方の領地で王様気取りでいるような中途半端な者たちですわ。伯爵家あたりがちょうどいいですわね。自分は家格で押し切れると無意識に思い込んでいる類いですの」

 

 リュートは手元の別の紙を広げた。そこには士爵ネットに繫がる生徒たちの名と、学園内で扱っている物品、教材、小口取引の一覧が記されていた。

 

「来年度、調停の仕組みが施行された直後から、士爵ネットの者たちには学園内での取引を意図的に増やしてもらう。学習資料の貸与、魔導具の共同購入、部活動予算の立替、記録簿つきの少額貸借などだね」

 

 そこには微塵の威圧感も熱もない。だが、人間の傲慢さを物理法則のように計算し尽くすその無機質な響きが、かえって聞き手の背筋にじわりと冷たい汗を伝わせる。

 

「こちらから強引に騙す必要はないよ。傲慢な者は、記録が残っていようと『その程度で下位の者が自分を訴えるはずがない』と高を括るからね。その傲慢さゆえに踏み倒し、返さず、曖昧にする」

 

 窓の外から差し込む青白い月光が、彼の影を不気味に長く引き伸ばしていた。

 

「その構図を裁定へ持ち込むだけで十分だと思う。学則の客観性と公平性を示すための『見せしめ』であって、暴動でも告発でもない。傲慢な者が、定められた要件の前に敗北する構図を作りたいんだ」

 

「ええ。勝つべきなのは『哀れな被害者』ではなく、記録を整え、要件を満たした側でなければなりませんの。見せたいのは学則の優しさではなく、学則の公平さと厄介さですのよ」

 

 指先で机を軽く叩くアイリスの言葉に、ティナのペンが名簿のいくつかの名に印をつけていく。記録官としての能面に変わった彼女の横顔には、一切の躊躇がない。

 

「同感です。ならば士爵ネットの中でも、会計処理に長け、記録をきちんと残せる者を前面へ出すべきですね。感情ではなく手続で勝った形が必要なのですから」

 

 サリ、サリと、無情な選別の音が部屋に響く。

 

「部活動予算や共同購入のような案件なら、周囲の生徒にも分かりやすいです。『あの程度のこと』で敗けた、と思わせる方が効くはずです」

 

「大きすぎる事件だと逆に警戒されるだろうね。些細で、誰もが軽んじてきたことを、この学則が逃がさない。その方が、結果として次代の頭に深く残るはずだ」

 

 リュートが強く頷き、盤面の形が完全に整った。

 

「要するに、次年度最初の裁定は見世物ですわね」

 

 アイリスが、すべてを見通したような顔で美しく微笑む。血も涙もないその完璧な結論に、リュートはたまらず苦笑を漏らした。

 

「……できれば教育用の成功例、と言い換えてほしいところだけどね」

 

 彼のその困ったような笑みが、張り詰めていた室内の空気をほんの少しだけ弛緩させる。だが、言い換えの問題にすぎず、本質が同一であることはこの場の誰もが理解していた。

 

「士爵ネットには、来年度の施行直後から動けるよう準備を進めてもらいます。案件は小口、証拠は明確、相手は家格で押し切る癖のある中途半端な上位者。補助人と証人も最初から整えておきます」

 

 ティナが最後の確認を取る。夜風が窓枠をガタりと揺らし、まるで次年度に吹き荒れる嵐を予感させるようだった。

 

「加えて、敗訴後の報復も想定し、申立人、証人、補助人への威迫は、別件の重大違反として必ず拾えるように監視網を敷きます」

 

「頼むよ」

 

 リュートは短く了承を返し、机上の草案を閉じた。

 

 学園における約定の裁定。表向きには、生徒間の些細な紛争を穏便に整理するための制度にすぎない。だがそれは、恣意的な身分ではなく、客観的な記録が物事を決めるという感覚を実体として植えつけるための、静かで凶悪な革命の装置であった。

 

「新しい常識というものは、単にそれが正しいから広がるわけじゃない。使うと便利で、破ると不便だからこそ浸透していくものだ」

 

 燭台の火が、ふっと消える。月明かりだけが残った暗がりの中で、リュートは最後に静かに告げた。

 

「ならば、その最初の『不便』を、来年度、あの学園のど真ん中で味わってもらおう」

 

 その言葉に、誰も異を唱えなかった。

 

 こうして第三学年へ向けた、静かで凄惨な論理戦の布石が確実に打たれたのである。

 

 

 

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