リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 別々の帰路と、触れられない空白
修了式の翌朝、王立学園の門前には、各家の紋章をつけた馬車が長く列を作っていた。
春の終わりの風は柔らかかったが、別れの朝にしては妙に静かである。二年生たちは誰もが、この一年で学園の空気そのものが変わってしまったことを、言葉にせずとも理解している。だからこそ、例年のような浮ついた休暇前の高揚は薄く、それぞれが何かを抱えたまま、それぞれの帰路へ散っていった。
ハーテス子爵家の小さな馬車へ乗り込んだレティシアは、扉が閉まる音と同時に深く息を吐いた。
膝の上には、ヴィオラから持たされた羊皮紙の束がある。派閥図、王都の物流、後宮の序列、血統管理の整理。少し前の自分なら、そんなものを旅のお供に抱えて帰る未来など想像もしなかっただろう。
馬車がゆっくりと学園を離れ、石畳の振動が規則的に身体へ伝わってくる。
窓の外では、見慣れた王都の街並みが少しずつ後ろへ流れていった。職人街の煙、荷車の列、組合の倉庫、貴族街へ続く広い道。今までならばただの背景にしか見えていなかった景色が、今はまるで別の意味を持って網膜へ迫ってくる。
あの倉庫の出入り一つにも金が動く。
あの馬車一台にも、誰かの契約と責任が積まれている。
あの王都の上に、王家の血統と派閥と経済が蜘蛛の巣のように重なっている。
『――――何も見えていなかった』
レティシアはそっと目を閉じた。
自分が見ていたのは、あつらえられた舞台だった。綺麗な攻略対象がいて、イベントが起きて、好感度が上がって、物語が進む。そういう安全な箱庭のつもりで、ずっと世界を読んでいた。
でも本当は違った。
王子は王子であるゆえに、血統管理の中枢だった。
令嬢たちは装飾ではなく、家の利害と身体ごと盤面に置かれた駒だった。
そして自分は、主人公などではなく、どこからでも簡単に切り捨てられる管理外の異物でしかなかったのだ。
そう再認識した瞬間、胸の奥がまた少しだけ冷えた。
今でも十分に怖い。あの温室で自分が何を投げたのか。あの拒絶で彼に何を返してしまったのか。思い返すたび、深い穴へ落ちるような感覚がする。
それでも、以前とは違っていた。ただ怖がるだけでは終われない。知らないまま、夢を見たまま、もう一度あの場所へ戻ることだけは絶対にできない。
レティシアは膝の上の羊皮紙を一枚だけ開いた。
そこにはヴィオラの癖のある整った字で、王都の主要家系とその利害が簡潔に記されている。読んでも、まだ半分も理解できない。けれど、もう目を逸らさなかった。
馬車はやがて王都の外れを抜け、緩やかな街道へ出る。道の先には、王都ほど華やかではない、小さな町と畑と、代官屋敷のある穏やかな地方が待っていた。そこは自分が生まれ育った場所だ。そしてたぶん、今の自分がもう一度「何者でもない子爵令嬢」として戻るには、少しだけ狭くなってしまった場所でもあった。
◇
その頃、別の馬車が学園から王宮へ向けて走っていた。
第一王子用の車列は、当然ながらレティシアのそれより遥かに豪奢で、護衛の数も比べものにならない。だが、その中央に座るグラクトの胸中が穏やかだったわけではない。
正面の書類入れには、約定の調停に関する規則の草案が収められていた。
修了式を終えた帰路にあってなお、彼は王都へ戻る道中で、条文の修正箇所を頭の中で反芻していた。調停不成立の定義、客観的証拠の優先順位、虚偽申立てへの制裁、報復防止条項と風紀官権限の接続。
本来なら、休暇前の帰路にそこまで考える必要はない。だが考えていないと駄目だった。窓の外を眺めると、どうしても別のことを思い出してしまうからだ。
『――――レティシアは今、どこを走っているのか』
王都を離れる馬車の中で、自分のことを何と思っているのか。もう顔も見たくないと思っているのか。それとも、少しは迷っているのか。
考えたところで答えは出ない。だから、学則という無機質な論理の海へ逃げる。
逃げている――――その言葉を、グラクトはもう否定できなかった。
正しい統治者であろうとすること。規則の欠点を学び、自分の言葉で制度を組もうとすること。それ自体は間違っていない。むしろ必要だ。
だが、その必要な努力の中へ沈み込んでいる間だけは、一人の女の尊厳にどう向き合うのかという問いを先送りにできる。レティシアへどんな顔で会えばよいのか、何を告げればよいのか、その答えの出ない空白から目を逸らしていられるのだ。
馬車が揺れ、書類入れの金具が小さく音を立てた。グラクトは目を閉じる。
ヴィオラの残酷な問いは、いまだに心臓の奥底から抜けない。
『レティシア嬢を傍へ置きたいのだとしたら、あの娘に、どのような立場を与えるつもりなのですか』
婚約ではない。妾妃でもない。奉仕役などなお違う。名もない曖昧な位置へ置くことなど、もっと許されない。
ならば、自分は何を望んでいたのか。
温室で、ただそこにいてほしいと思った。王でも生徒会長でもなく、自分を見てくれる存在がほしいと、たしかに思った。
だがその願いが、相手へどれほど不誠実で、どれほど無責任だったのかを、今はもう分かってしまっている。
王宮の尖塔が遠く見え始めた。
あそこへ戻れば、また王妃がいて、冷徹な制度があり、婚約者がいて、側妃たちがいて、自分は第一王子として振る舞わねばならない。
そしてその肩書きから一度も降りずに、誰かへ本当に何かを与えることができるのか――――その問いだけが、まだ宙に浮いたままだった。
同じ日の夕暮れ。
王都から離れていく小さな子爵家の馬車と、王宮へ戻る王家の車列は、もう互いの姿など見える距離にはなかった。けれど、その中にいた二人はよく似た空白を抱えていた。
ひとりは、何も知らない夢の続きを終わらせ、自分の意志で戻るか逃げるかを選ばねばならない少女。
もうひとりは、統治者としての言葉はいくつも持ちながら、一人の男として何を与えるべきかの答えを持たない王子。
春の終わりの空は高く、薄く霞んでいる。
その下で、二人は別々の方角へ帰っていった。まだ何も始められないまま。
それでも、次に会う時にはもう、知らなかった頃のままではいられないと、それぞれがどこかで理解しながら。