リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側1:鳥籠の令嬢1』

1 白亜の鳥籠と、無知なる希望

 

 王立学園の入学式が春の陽光の中で執り行われている頃、王都のもう一つの中心である豪奢な王宮の正門を、一台の馬車が静かに通り抜けていた。

 

 扉には、王国の頭脳たるヴァルメイユ侯爵家(宰相家)の紋章が刻まれている。

 馬車の中で背筋を伸ばして座るセシリア・ミント・ヴァルメイユは、膝の上で固く組んだ手をそっと解き、小さく深呼吸をした。

 

 藤色の瞳に映るのは、高くそびええる王宮の白亜の尖塔である。春の風が車窓を撫でていくが、王家の敷地内へ入った瞬間から、空気の密度が一段重く、そして澄み切ったものに変わったような気がした。

 

『――――お父様、どうかご安心くださいませ。私、立派にお務めを果たしてまいります』

 

 邸を出る時の、ひどく顔色の悪かった父の姿を思い出す。

 激務に追われる新宰相たる父は、娘を送り出すというのに、まるで今にも泣き出しそうな、ひどく痛ましい顔をしていた。

 

 だが、セシリアはその理由を「愛娘と離れて暮らす寂しさ」と「激務による疲労」のせいだと信じて疑っていなかった。

 

 第一側妃殿下が、父の負担を減らすために自分の行儀見習いを引き受けてくださったのだ。これほどの誉れはない。

 

 それに、今は自分だけでなく、大切なあの人もまた、王立学園という新しい場所で厳しい修練の日々を歩み始めているはずだった。

『私だけが、安全な温室で待っているわけにはいきませんもの』

 

 純白の軍服に身を包み、自分に真っ赤な薔薇を捧げてくれた、あの誠実で眩しい少年の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 彼が立派な元帥となるために汗を流しているのなら。自分もまた、彼にふさわしい「非の打ちどころのない侯爵夫人」となるため、この王宮の奥深くで己を磨き上げなければならない。

 

 恋を知った少女の胸にあるのは、不安ではなく、痛いほどに純粋で真っ直ぐな希望だけだった。

 

 馬車が止まり、従者が恭しく扉を開ける。

 セシリアは一片の疑いもなく、自らの足で、豪奢な王宮の石畳へと降り立った。

 

   ◇

 

 案内された第一側妃の宮は、外の春の陽気とはまるで異なる、ひんやりとした静謐に包まれていた。

 

 廊下には分厚い真紅の絨毯が敷き詰められ、壁には見事なタペストリーが飾られている。行き交う侍女たちの衣服はどれも上質で、一切のシワもほつれもない。

 

 だが、セシリアが最も驚いたのは、その「音の無さ」であった。

 何人もの侍女や女官が行き交っているというのに、衣擦れの音も、足音も、話し声さえも一切聞こえない。誰もが視線を床から一定の高さに保ち、機械のように正確な軌道で歩き、無言のまま完璧な仕事をこなしている。

 

 私語など論外。笑顔一つ、感情の揺らぎ一つすら見せないその異常な空間に、セシリアは思わず息を呑んだ。

 

『これが……王宮の奥。第一側妃殿下の統べる場所……』

 それは、外から見れば「絶対的な恐怖による支配」が完成している証拠でしかない。

 

 しかし、純粋な深窓の令嬢であったセシリアは、その背筋の凍るような静寂を「洗練の極致」として受け取ってしまった。

 

『なんて無駄がなく、美しい作法なのかしら。私の実家の侍女たちとは、まるで水準が違う。……私も早く、この空気に応えられるだけの淑女にならなければ』

 

 彼女はきゅっと唇を引き結び、案内役の女官の背中を、より一層姿勢を正して追いかけた。

 

 やがて通されたのは、豪奢な装飾が施された応接室だった。そこで待っていたのは、第一側妃宮の奥を取り仕切る、冷たい目をした初老の筆頭女官である。

「セシリア・ミント・ヴァルメイユ様。この度は第一側妃殿下の宮へようこそおいでくださいました。これより、本宮での滞在に関する『お約束』をお伝えいたします」

 

 感情の読めない平坦な声とともに、女官は一枚の羊皮紙をテーブルの上へ滑らせた。

 

 そこには、滞在する部屋の区画、教育の名目と時間割、そして「外部との接触」に関する厳密な規則が記されていた。

 

「ここは第一側妃殿下の御膝元。防諜と保安の観点から、ご実家の方を含め、外部からの面会はすべて『第一側妃殿下の事前の許可制』とさせていただきます。また、外部へ送る書状、および受け取る書状につきましても……」

 

 筆頭女官の冷たい目が、セシリアの藤色の瞳を真っ直ぐに射抜く。

「すべて、封を開けた状態で提出してください。中身に危険がないか、宮の検閲を通した上で発送・受理いたします。これは、王家をお守りするための絶対の規律です。ご不満はおありですか?」

 

 それは、王家の保安という大義名分を被った、完全な「隔離(人質化)」の宣告であった。

 

 自分の手紙の文面をすべて他人に読まれ、面会すら自由にできない。本来なら、貴族の令嬢として異常を察知すべき拘束条件である。

 

 しかし、セシリアは微塵も怯まなかった。

 むしろ、真っ直ぐに筆頭女官の目を見つめ返し、花が綻ぶような穏やかな笑みを浮かべたのである。

「いいえ。ご不満など、あろうはずがありませんわ」

 

 澄み切った声が、ひんやりとした応接室に響いた。

「ここは王宮の中枢であり、私は未熟な見習いの身。王家の平穏と規律をお守りするための規則に、一切の例外があってはならないと思います。……厳しいお振る舞いも、すべて私の学びといたしますわ」

 

「…………左様ですか。素晴らしい心掛けです」

 セシリアのあまりにも純粋な返答に、筆頭女官の目がほんのわずかに眇められた。

 

 だが、セシリアは気づかない。自分が今、みずからの手で「外部への助けを求める権利」を放棄し、鳥籠の鍵を内側からかけてしまったことに。

 

 彼女はただ、レオンハルトの妻となるために、この過酷な規律へ適応することこそが自分の義務だと信じ切っていた。

 

   ◇

 

 そして夕刻。

 

 入浴と着替えを済ませ、王宮の作法に則った簡素だが上質なドレスに身を包んだセシリアは、ついにこの宮の主が待つ謁見の間へと通された。

 重厚な扉が開かれた瞬間、むせ返るような白薔薇の香水がふわりと鼻腔をくすぐる。

 

 部屋の奥、一段高くなった豪奢な長椅子に腰掛けていたのは、第一側妃ヒルデガードであった。

「よく来てくれましたね、セシリア。待っていましたよ」

 

 美しく結い上げられた金髪に、人を惹きつけてやまない豪奢な美貌。

 ヒルデガードは、扇をゆっくりと閉じながら、まるで実の娘を慈しむような、とろけるほどに甘く優しい微笑みをセシリアへ向けた。

 

 その神々しいまでの美しさと威厳に当てられ、セシリアは即座に膝を折り、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとって頭を垂れた。

「お初にお目にかかります、第一側妃殿下。ヴァルメイユ侯爵家が娘、セシリアと申します。この度は、浅学非才な私に行儀見習いの機会をお与えいただき、身に余る光栄に存じます」

 

「顔を上げなさい。そんなに固くならなくてもよろしくてよ」

 絹の擦れる音がして、ヒルデガードが自ら長椅子から立ち上がり、セシリアの目の前まで歩み寄ってきた。

 

 そして、白く滑らかな両手で、セシリアの小さな手を優しく包み込んだのである。

「貴女の有能なお父様には、日頃から王国の政務でひどく助けられておりますの。宰相という重責を担う彼が、愛娘の貴女を気に懸けて仕事に支障をきたしては、国にとっても損失ですもの」

 

 ヒルデガードの言葉には、一片の悪意も感じられなかった。温度を持った優しい声が、セシリアの耳に心地よく響く。

「それに、貴女は来年、アイゼンガルトの嫡男と結ばれるのでしょう? 王国の軍と政を結ぶ、美しき婚姻。……ならば、アイゼンガルトの次期元帥の隣に立つにふさわしい、非の打ちどころのない最高の淑女になるための手助けをしたいと、そう思ったのですわ」

 

「第一側妃、殿下……っ」

 セシリアの藤色の瞳が、みるみるうちに感動の涙で潤んでいく。

 

 なんてお優しく、国の未来を憂いてくださるお方なのだろうか。父の負担を減らすだけでなく、自分とレオンハルトの未来までをも祝福し、そのための教導を直々に引き受けてくださるなんて。

 

 父が信頼し、自分を託してくれたのも頷ける。

 セシリアの心の中にあった僅かな緊張は、この瞬間、第一側妃への絶対的な「敬意」と「信頼」へと完全に塗り替えられてしまった。

 

「お父様にも、殿下にも、決して恥をかかせるような真似はいたしません。……私、必ずや、殿下のご期待に応えられるような立派な淑女になってみせます!」

 

「ええ、期待していますわ。貴女は私の、大切な『宝物』ですもの」

 ヒルデガードは、涙ぐむセシリアの頬を優しく撫で、その背中へ回した手でそっと抱きしめた。

 

 セシリアからは見えない位置で、その美貌に、ぞっとするほど冷酷で嗜虐的な笑みが浮かんでいることなど知る由もない。

 王国の最高権力を握る新宰相の愛娘。そして、絶対の武力を持つ次期元帥の婚約者。

 

 これほど扱いやすく、これほど価値のある『極上の人質』が、自ら喜んで自分の腕の中へ飛び込んできたのだ。ヒルデガードにとって、セシリアはすでに「盤面を操るための完璧な駒」でしかなかった。

 

 だが、毒蜘蛛の腕の中に抱かれたセシリアの胸を満たしていたのは、温かな忠誠心と、未来への希望の光だけだったのである。

 

   ◇

 

 その日の夜。

 

 あてがわれた豪奢な私室で一人になったセシリアは、備え付けられた書き物机に向かい、そっとインク壺の蓋を開けた。

 部屋の隅では、第一側妃からつけられた専属の侍女が、微動だにせず控えている。

 

 だが、セシリアの心は驚くほど穏やかだった。窓の外に広がる王宮の庭園には春の月が輝き、王都のどこかにあるはずの、あの人のいる学園の方角を優しく照らしている。

 

 セシリアは、持参した手荷物の中から、一冊の真新しい革表紙の手帳を取り出した。

 

 手紙はすべて検閲される。ならば、手紙には書けない日々の想いや、自分の成長の記録は、この手帳に「自分だけの覚え書き」として書き留めておこうと思ったのだ。

 

 手帳を開き、その最初のページに、大切に持ってきた『深紅の薔薇の押し花(栞)』をそっと置く。

 あの陽だまりの庭園で、彼が真っ直ぐな瞳で捧げてくれた、永遠の誓いの証。それを見るだけで、王宮の厳しい規律を乗り越える力が湧いてくる気がした。

 

 ペン先にインクを浸し、セシリアは滑らかな文字で想いを綴り始める。

『――――レオン様。今日から、私の王宮での日々が始まりました』

 

 そこには、第一側妃殿下がいかに優しく自分を歓迎してくれたか。王宮の空気がいかに洗練され、自分がいかに未熟であるかが、素直な言葉で記されていく。

 

『貴方が今、私と同じ王都の空の下で、白い軍服に身を包み、厳しい鍛錬に励んでいることを想うと、私の胸は誇りでいっぱいになります』

 

 ペンの走る音が、静かな部屋にさやさやと響いた。

 背後に立つ侍女の視線が、その文面を冷徹に記憶していることなど、彼女は気づかない。

 

『どんなに離れていても、私の心は常に貴方と共にあります。

 

 いつか、戦場から帰り着く貴方を一番にお迎えし、その心を癒せる妻となるために。

 

 私もこの場所で、白き軍服の貴方にふさわしい、誰よりも立派な淑女になってみせます――――』

 書き終えた文面を見つめ、セシリアは幸せそうに微笑み、押し花の上へそっと指先を這わせた。

 

 誰に見せるつもりもない、純粋な乙女の祈り。恋い慕う婚約者への、切実な愛の言葉。

 

 ――この、あまりにも純粋で美しい『覚え書き』こそが。

 

 やがて王都の世論を狂わせ、彼女の人生を絡め取り、レオンハルトとの未来を永遠に引き裂く最大の「凶器」へと変貌することなど。

 月明かりの下で愛を綴るこの夜のセシリアは、まだ何一つ、知る由もなかったのである。

 

 

 

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