リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側1:鳥籠の令嬢2』

2 完璧なる淑女教育

 

 第一側妃宮の奥に設けられた、豪奢な装飾が施された教練室。

 分厚いペルシャ絨毯の上を歩くセシリア・ミント・ヴァルメイユの頭上には、重々しい革表紙の教本が三冊重ねて乗せられている。

 

 ヒルデガードは、部屋の端に置かれた長椅子に深く腰を掛け、優雅に扇を揺らしながらその姿を静かに観察していた。

 第一側妃専属の老練な教育係が、セシリアの歩みに合わせて容赦のない指導の声を飛ばしている。

 

「右足から踏み出す歩幅は、絨毯の百合の紋様一つ分。視線は常に相手の喉元から胸元の高さへ落とし、お許しが出るまで決して直接瞳を覗き込んではなりません」

 

 手にした細い指示棒で、教育係がセシリアの肩の僅かな力みを指摘する。

「歩みを止める際の靴音は無に。振り向く際は、首だけで動くのではなく、腰から滑らかに回転しなさい。アイゼンガルトの元帥夫人となれば、王家の御前へ出る機会も数多ありましょう。その立ち振る舞い一つが、夫の威信を決めるのです」

 

「……はい、先生」

 セシリアは額に滲む汗を拭うこともせず、ただ静かに頷き、もう一度部屋の端から歩み直す。足の震えを必死に抑え込んでいるのが、離れて見ているヒルデガードにも分かった。

 

『――――見事なものね。あれほど過保護に育てられたヴァルメイユの娘が、わずか数日で泣き言を漏らさなくなるとは』

 扇の奥で、ヒルデガードの唇が満足げな弧を描いた。

 

 彼女にとって、セシリアは新宰相を意のままに操るための「極上の人質」である。だが、だからといって地下牢に幽閉したり、理不尽な虐待を加えたりするような三流の真似はしない。

 

 ヒルデガードがセシリアに施しているのは、王国で考え得る限り最高峰の、極めて真っ当で完璧な淑女教育であった。

 

 いずれアイゼンガルトの次期元帥に嫁ぐこの令嬢を、非の打ちどころのない完璧な夫人へと育て上げる。それができれば、「第一側妃宮の教養と威信」は王都の貴族社会において絶対的なものとして賞賛されるからだ。

 

 教育は肉体的な作法だけではない。午後になれば、後宮における複雑怪奇な政治的教養の座学が始まる。

「書状の末尾に『白百合の健やかなる成長を祈る』と添えられた場合。これは単なる季節の挨拶ではなく、相手がこちらの派閥の若手を取り込もうとしている暗黙の牽制です。貴女なら、どう返しますか?」

 

 教育係の問いに、セシリアは手元の羊皮紙を見つめながら、静かに、しかし澱みなく思考を回した。

「……相手の牽制を直接はね除けるのは下策です。私ならば、『我が庭の百合は、王家の土に深く根を張っておりますゆえ、ご案じるには及びません』と返し、こちらが盤石であることを間接的に伝えますわ」

 

「よろしい。では次に、季節外れの果物が贈られてきた場合の返礼の相場は……」

 贈られる花の種類、便箋の色、訪問する際の時間帯。その一つ一つに込められた政治的取引の意図。

 

 並の令嬢であれば、その陰湿で複雑な裏の意味に耐えきれず、精神をすり減らしてしまうだろう。だがセシリアは、それをスポンジが水を吸うような恐ろしい速度で吸収していく。

 

 ヒルデガードは、扇を閉じて小さく感嘆の息を漏らした。

 最初は単なる人質としての価値しか見ていなかったが、この令嬢は素材として極めて優秀だ。性格は従順でありながら、宰相の血を引く知性を持ち合わせ、何より「学ぶこと」に対する底知れぬ熱意がある。

 

「セシリア。少し休憩にいたしましょう。こちらへいらっしゃい」

 ヒルデガードが優美な声をかけると、教育係の女官がサッと壁際へ下がる。

 

 セシリアは完璧な礼をとった後、衣擦れの音も立てずに第一側妃の向かいの席へ腰を下ろした。疲労困憊のはずだが、その顔には穏やかな笑みが張りついている。

 

「とても筋が良いわ。この数日だけで、貴女の歩き方は見違えるように美しくなりました。……お父様も、さぞお喜びになるでしょうね」

 ヒルデガードは、自ら見事な手つきで陶磁器のティーカップへ紅茶を注ぎながら、ふわりと問いかけた。

 

「王宮での生活には慣れたかしら? 愛する娘を手放したお父様は、邸でひどく寂しがっておいででしょう。……今なら、特別に面会を許してあげてもよろしくてよ?」

 それは、彼女の精神的な自立度を測るための、ちょっとした試金石であった。

 

 セシリアはティーカップの縁へ伸ばしかけた指を、ほんの半歩だけ手前でぴたりと止めた。そして、藤色の瞳で真っ直ぐに第一側妃を見つめ返し、花が綻ぶような微笑みを浮かべる。

 

「もったいないお言葉、心より感謝申し上げます、殿下。……ですが、面会は結構でございますわ」

 

 その声には、微塵の揺らぎもなかった。

「父は今、王国の宰相として、陛下の御為に昼夜を問わず身を粉にして働いております。私が未熟な寂しさで父の仕事の邪魔をすることは、娘として最も恥ずべき行為です。……私はここで、殿下のご期待に応えるべく、ただ前だけを見て学びを深めてまいります」

 

 ヒルデガードは、思わず目を見張った後、心底嬉しそうに微笑んだ。

 素晴らしい。個人の感情よりも、国家の公務と王家への忠義を最優先する、模範的で完璧な回答である。これほど指導のし甲斐がある令嬢は、王宮広しといえどもそうはいない。

 

「ええ、その覚悟、立派ですわ。貴女なら必ず、誰からも羨まれる最高の夫人になれますとも」

 

 ヒルデガードは、上機嫌でセシリアを褒め称えた。

 人質としての価値以上に、自分の手でこの完璧な美術品を完成させ、王都の社交界へ披露する日が待ち遠しい。第一側妃の胸の中は、教育者としての確かな達成感と優越感で満たされていた。

 

 

 

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