リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側1:鳥籠の令嬢3』

3 白薔薇の綻び

 

「本日はここまで。本当によく頑張りましたね、セシリア」

 

 夜の帳が下りる頃、第一側妃のサロンでの厳しい教育を終えたセシリアへ、ヒルデガードは自ら一輪の美しい白薔薇を手渡した。

 

「貴女の習得の早さには、私も驚かされるばかりです。これほど優秀な令嬢を妻に迎えるアイゼンガルトの嫡男は、果報者ですわ」

 

「もったいないお言葉です、殿下……っ」

 

 白薔薇を受け取ったセシリアの瞳から、安堵と達成感の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 

「ゆっくりお休みなさい。明日も、貴女のためになる教練を用意してありますからね」

 

「あ……あの、ヒルデガード様。恐れ入りますが」

 退出しかけたヒルデガードの背中に、セシリアは震える声で呼びかけた。

 

「湯浴みへ向かう前に、あと少しだけ、このサロンの机をお借りしてもよろしいでしょうか? 本日殿下からいただいた素晴らしい学びを、忘れないうちに書き留めておきたくて……」

 その健気で熱心な申し出に、ヒルデガードは心底嬉しそうに目を細めた。

 

「ええ、もちろん構いませんよ。本当に立派な心掛けですわね。気が済むまで、自由にお使いなさい」

 ヒルデガードは優雅に微笑み残し、侍女たちを連れてサロンを後にした。

 

 豪奢な部屋に一人残されたセシリアは、ホッと息をつき、静まり返ったサロンの机へと向かった。

 足は棒のように重く、つま先は擦り切れるように痛む。

 

 だが、その極度の疲労感すら、今のセシリアにとっては心地よいものだった。厳しい教育係の叱責も、第一側妃の威圧感も、すべては自分を磨き上げるための砥石だ。

 

 セシリアは、ドレスの隠しポケットから、肌身離さず持ち歩いている小さな革表紙の手帳を取り出した。

 手帳を開き、最初のページに挟まれた『深紅の薔薇の押し花』をそっと指先でなぞる。あの陽だまりの庭園で、彼が真っ直ぐな瞳で捧げてくれた永遠の誓い。それを見るだけで、痛む足の辛さもすっと引いていくような気がした。

 

 机の上のインク壺を開け、セシリアは今日一日の成果を綴り始める。

 手紙はすべて検閲されるため、彼に直接送ることはできない。だからこそ、この誰にも見せない手帳の中にだけ、自分の本当の想いを書き留めておくのだ。

 

『――――レオン様。今日も、殿下から素晴らしい教えをいただきました。お茶の淹れ方も、歩き方も、以前の私とは比べ物にならないほど上達したと褒めていただいたのですよ』

 

 ペンの走る音が、静かなサロンにさやさやと響く。

 

『貴方が今、私と同じ王都の空の下で、白い軍服に身を包み、厳しい鍛錬に励んでいることを想うと、私の胸は誇りでいっぱいになります。

 

 どんなに離れていても、私の心は常に貴方と共にあります。いつか、戦場から帰り着く貴方を一番にお迎えし、その心を癒せる妻となるために。私もこの場所で、貴方にふさわしい立派な淑女になってみせます』

 

 そこまで書き終えた瞬間だった。

 ふっと、ペンの先が羊皮紙の上で止まった。

 

 第一側妃の重圧から解放され、さらに彼への想いを綴って心が完全に安心しきったことで、一日中張り詰めていた精神の糸が、ふつりと音を立てて切れたのだ。

 

 それは、尋常ではない肉体の酷使と、王宮の作法という重圧に耐え続けた令嬢の、限界を超えた疲労の波であった。

 

「……ぁ……」

 セシリアの視界が急激にぼやけ、まぶたが鉛のように重くなる。

 

 インクの蓋を閉めなければ。手帳をしまわなければ。そう頭では分かっているのに、指先一つ動かすことができない。心地よい疲労と深い睡魔が、暴力的なまでの力で彼女の意識を刈り取っていった。

 

 コツン、と。

 

 ペンが手から滑り落ち、セシリアは第一側妃のサロンの机に突っ伏したまま、深く、静かな眠りへと落ちていった。

 

 ――数分後。

「セシリア様、湯浴みの準備が整いました」

 

 呼びに来た侍女の声に、セシリアはびくっと肩を跳ねさせて目を覚ました。

 

「……っ! あ、ごめんなさい、私ったら……」

 

「お疲れのようです。さあ、すぐにお召し替えを」

 寝ぼけ眼のまま、侍女に促されるままに立ち上がる。

 

 頭には霞がかかり、足元はふらついてうまく歩けない。侍女に半ば支えられるようにして、セシリアは湯殿へと歩き出した。

 

 極度の疲労による、たった一度の、致命的な油断。

 

 いつもなら必ず肌身離さず持っていくはずの大切な手帳を、彼女は第一側妃のサロンの机の上に広げたまま、完全に失念してしまっていたのである。

 

   ◇

 

 その夜遅く。第一側妃の私室。

 

 上機嫌でくつろいでいたヒルデガードの前に、サロンの片付けに入った侍女が音もなく進み出た。

 

 その手には、セシリアが置き忘れた革表紙の手帳が握られている。

 

「殿下。セシリア様がサロンの机に置き忘れた品にございます。中身に、妙な記述が」

 

「……見なさい。私のサロンに忘れ物をしていくなんて。不用心な令嬢が機密を漏らしていないか、私たちが『管理』して差し上げなくてはならないわね」

 ヒルデガードはくすっと笑い、正当な理由を手にして優雅にその手帳を受け取った。

 

 機密事項でも書き留めていないか。あるいは、実家への泣き言でも書いているのではないか。軽い確認のつもりでページをめくった彼女の視線が、そこに記された純粋な言葉の数々に張りついた。

 

『白い軍服に身を包む貴方を想うと……』

『どんなに離れていても、私の心は常に貴方と共に……』

『いつか、戦場から帰り着く貴方を一番にお迎えし、その心を癒せる妻となるために……』

 

 それは、過酷な状況下で一途に婚約者を想い続ける、涙が出るほど美しく、純粋な悲恋の言葉であった。

 

「……まあ」

 ヒルデガードの唇から、感嘆とも愉悦ともつかない、甘い吐息が漏れた。

 

 政治的な機密など何一つない。だが、ヒルデガードの類まれなる政治的嗅覚は、この手帳に記された「純粋な愛の言葉」が、どれほど恐ろしい価値を秘めているかを瞬時に理解した。

 

 不安と不満を抱える王都の民衆。彼らが最も好むのは、こうした「一途で、健気で、美しい物語」である。

 

 もしこの言葉を、少しだけ形を変えて、民衆の前にばら撒いたとしたら?

 

「素晴らしいわ。本当に、素晴らしい小鳥……っ」

 ヒルデガードは、喉の奥でくつくつと黒い笑い声を立てた。

 

 真っ当な教育を施し、完璧な淑女を育て上げるつもりだった。だが、彼女が自らの教練で限界まで疲弊し、公の場に落としていったこの『手帳』は、単なる教育の成果を超え、王都全体の盤面をひっくり返すほどの強烈な武器になる。

 

 ヒルデガードの野心が、新たな獲物を見つけて鎌首をもたげた。

 

 無知なる希望が、残酷な絶望へと反転する狂気の舞台。その幕が、この夜、静かに引き上げられたのである。

 

 

 

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