リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 品位という名の鎖
その日の午後、第一側妃宮の奥にあるヒルデガードの私室は、極上の茶葉が放つ芳醇な香りに満ちていた。
美しい装飾が施された白磁のティーカップ。見事な三段の皿に盛られた、宝石のような焼き菓子。
だが、長椅子の向かいに座るセシリアの藤色の瞳は、テーブルの中央にそっと置かれた「ある物」に釘付けになっていた。
小さな革表紙の手帳。
昨夜、極度の疲労から教練室(サロン)の机で寝入ってしまった際に置き忘れ、血の気が引く思いで探していた、あの『覚え書き』である。
「ヒルデガード様、それは……っ!」
セシリアは弾かれたように身を乗り出し、そして己の非礼に気づいてサッと顔を俯かせた。
王宮の教練室に私物を置き忘れるなど、行儀見習いとしてあってはならない失態だ。しかも、その中には婚約者への熱烈な恋心や、個人的な誓いが書き連ねられている。
「……申し訳ございません。私の、不注意で……っ」
叱責を覚悟し、震える声で謝罪するセシリア。
しかし、ヒルデガードは怒るどころか、どこかひどく哀しげな、そして慈しむような溜息を一つこぼした。
「謝る必要などありませんよ、セシリア。貴女が日々の過酷な教練に耐え、限界まで努力してくれている証ですもの。……ただ」
ヒルデガードは、手帳の表紙へ白く滑らかな指先を這わせた。
その所作には、セシリアを責めるような気配は微塵もない。むしろ、まるで壊れやすい宝物を扱うような、深い敬意すら滲んでいた。
「私のサロンに残されていたものですから、不用心な小鳥が機密を漏らしていないか、宮の主として中身を改めさせてもらいました。……ごめんなさいね。貴女の、あのように純粋で美しい恋心を覗き見てしまって」
セシリアの顔が、今度は羞恥で耳の先まで真っ赤に染まった。
読まれた。アイゼンガルトの次期元帥に向けた、数々の愛の言葉を。どんなに離れていても心を寄り添わせるという、あの痛いほどに個人的な誓いを。
「お恥ずかしい限りです……っ。あのような、取るに足らない感傷など……」
「いいえ。決して恥じることではありません。むしろ、これこそが貴族の令嬢のあるべき姿です」
ヒルデガードは静かに首を振り、セシリアの言葉を真っ向から否定した。
「過酷な状況の中で、愛する婚約者を信じ、ひたむきに己を律して待ち続ける純粋な心。……それは、我がローゼンタリア王国が重んじる『貴族の品位』を、これ以上なく美しく体現するものですわ」
ヒルデガードの言葉に、セシリアはわずかに顔を上げた。
「品位」――――それは、この国の貴族にとって命よりも重い絶対の価値基準である。
「セシリア。貴女も知っての通り、今、王都の民衆は深い不安の中にあります。度重なる不祥事や見えない派閥の対立……。彼らは愛する国を憂うあまり、事実とは異なる噂話に心を痛めているのです」
ヒルデガードは、慈愛に満ちた憂いの表情を作った。
だがその本心は違う。ゼノビア侯爵家(自らの実家)の暴走事件以来、下民どもが王家の威光を疑い、泥のような噂話に興じている現状は、王家の『品位』を著しく汚すものだ。ヒルデガードは内心でそう吐き捨てながらも、声の響きには極上の優雅さだけを乗せていく。
「日々の暮らしに追われる彼らには、高尚な政治の理を説いても届きません。彼らの不安を取り除き、平穏へと導くには、金や武力ではなく……見上げるほどに美しく、ただひれ伏したくなるような『圧倒的な品位の象徴』を提示してやらねばならないのです」
要するに、何も理解できない愚かな下民どもを黙らせるには、問答無用で平伏させるだけの絶対的な「権威の物語」を叩きつけてやればいいという、冷酷な支配の論理である。
「お願いです、セシリア。……貴女のその美しい言葉を、迷える民を導き、王家の品位を高めるための『希望の象徴』として、使わせてはもらえないかしら?」
「――――え?」
セシリアは、予想外の提案に呆然と息を呑んだ。
自分の、あの拙い恋心を綴った覚え書きを、王都の民衆に公開する? 舞台や紙芝居の物語として?
「そ、そのようなこと、絶対にできませんわ! あれはただの私的な日記であり、レオン様へ向けた私だけの……っ」
激しく首を横に振るセシリア。当然の拒絶である。
自分の個人的な恋文を世間に晒されるなど、令嬢としての羞恥心が耐えられるはずもない。だが、ヒルデガードはその拒絶をすでに完璧に計算し尽くしていた。
「そのまま出せと言っているわけではありませんよ。当然、実名や家名はすべて伏せ、別の名前と設定に変えます。……これはあくまで、名もなき令嬢と青年の『美しき品位の物語』として世に出すのです」
実名を伏せる。設定を変える。ただの架空の物語として。
その条件が提示されたことで、セシリアの強固な拒絶の壁に、ほんのわずかな亀裂が走った。
「貴女のお父様は、王国の宰相として、今この瞬間も国政の品位を保つために血を吐くような努力をしておいでです。……娘である貴女が、筆一本で、民の不安を美しい敬愛へと変え、少しでもお父様の助けになれるとしたら?」
父の顔が、セシリアの脳裏をよぎった。
出立の朝に見せた、あのひどく疲弊し、痛ましいほどにやつれた父の顔。
「個人の羞恥と、王家の品位。……アイゼンガルトの妻となる貴女なら、どちらを優先すべきか、きっとお分かりになるはずですわ」
それは、この国の貴族にとって決して逆らうことのできない「品位という名の絶対の鎖」であった。
名前を変えるのなら、レオンハルトとの個人的な秘密が暴かれるわけではない。もし自分の書いた文章が、下民を感化して王家の品位を高め、過労で倒れそうな父の負担をわずかでも減らすことができるのなら。
それを「恥ずかしいから」という個人の感情で拒絶することは、元帥家の妻となる者の振る舞いとして許されるのだろうか。
「……名前と家名を、完全に変えていただけるのですね?」
迷いと葛藤の末に、セシリアの唇から震える声がこぼれた。
その瞬間、ヒルデガードの瞳の奥で、毒蜘蛛が獲物を絡め取った時の暗い歓喜が閃いた。
「ええ、約束します。誰も、それが貴女とアイゼンガルトの嫡男の物語だとは気づきません。……王宮で見習いをしている作者が、匿名で書いた『ただの美しい物語』として扱いますわ」
その言葉に嘘はなかった。
ヒルデガードは初めから、世間がそれを「アイゼンガルトの嫡男(レオンハルト)の物語」だと気づくような間抜けな改竄をするつもりなど、微塵もなかったのだから。
「……分かりました。私の書いたものが、王家とお父様の品位を保つためのお力になれるのであれば。……どうか、お使いくださいませ」
セシリアは、膝の上で強く拳を握り締めながら、自らの意思で深く頷いた。
彼女は、自分がどれほど恐ろしい承諾をしてしまったのかを知らない。
権力者の言質において、「自ら一度同意した」という事実が、後からどれほど強固な大義名分となって自分を縛り付けるのかを。
王家の品位という絶対の正義を突きつけられ、自ら差し出したその承諾を、ヒルデガードは極上の微笑みとともに、完璧に飲み込んだのである。
◇
深夜。
第一側妃宮の奥深く、幾重にも鍵が下ろされたヒルデガードの執務室は、昼間の甘い香りが嘘のように、冷たく無機質な空気に満ちていた。
部屋の隅に控えているのは、一人の影のような侍女である。
彼女はゼノビア侯爵家(ヒルデガードの実家)が暗部で飼い慣らしてきた特殊な使用人であり、その舌の裏には、主への絶対の服従と秘密厳守を強いる『呪縛の魔紋』が青黒く刻み込まれている。
この部屋で交わされた言葉も、命じられた指示の経緯も、彼女は物理的に一切外へ漏らすことができない。
ヒルデガードは、豪奢な机の上にセシリアの手帳を放り投げた。
「さあ、仕事の時間よ。この手帳の文章を元に、王都の民が涙を流して喜び、王家へ深い敬愛を抱くような、極上の『舞台脚本』を書き上げなさい」
それはすなわち、下民どもを熱狂させ、理性を奪う劇薬を調合しろという冷徹な命令である。
魔紋を刻まれた侍女は、音もなく進み出ると、恭しく手帳を受け取り、傍らの書き物机へ向かった。彼女は筆を取る速度も、文章を劇作へ変換する技術も、並の劇作家を凌駕するよう訓練されている。
「ただし、設定には細心の注意を払いなさい」
ヒルデガードは、ワイングラスを傾けながら、氷のように冷酷な声で指示を下す。
「令嬢の相手役は、国境を守る荒々しい武人であってはならない。……『国家の重責をその身に背負い、誰よりも高貴な血筋を持つ、若き権力者』へ書き換えるのよ」
「はっ。……では、彼が纏う純白の軍服の描写は」
侍女が淡々と確認の問いを口にする。
「『王家の威信を示す、豪奢な白亜の外套』へ変更しなさい。手にする剣は『統治者の証たる笏(しゃく)』へ。……そして、令嬢は彼をこう呼んで待ち焦がれるの。『私の、太陽のようなお方』と」
それは、見事なまでの「記号のすり替え」であった。
レオンハルト・デイル・アイゼンガルトという軍人の痕跡を文章の中から徹底的に漂白し、消し去っていく作業。
そしてその空白に、王都の民衆が最もよく知る権力の象徴――――『第一王子グラクト』の記号を、巧みに、そして露骨に流し込んでいく。
「よろしいですか、第一側妃様。作者名は『セシリア』として出すのですよね?」
筆を走らせながら、侍女が確認を求める。
作中の人物を匿名(架空の設定)にしておきながら、作者名だけは堂々と本名を出す。そこには明確な矛盾がある。
「ええ、もちろんよ。作者名は絶対に伏せてはならないわ」
ヒルデガードは、くつくつと喉の奥で黒い笑い声を立てた。
「民というものはね、真実をただ与えられることよりも、自分たちで『隠された真実を暴いた(気づいた)』と思い込む瞬間に、最も心を揺さぶられる生き物なのよ」
第一側妃の冷徹な大衆心理の分析が、深夜の執務室に響き渡る。
「作者名がセシリア。彼女は今、実際に私の宮で、高貴な行儀見習いとして教育を受けている。そして、作中の相手役は『王家を背負う若き権力者』。……それを読んだ王都の民は、勝手にこう結論づけるわ」
ヒルデガードはグラスの縁を指でなぞり、狂気に満ちた笑みを深めた。
「『ああ、これは身分を隠して書かれた、第一王子殿下と作者令嬢の、真実の純愛録なのだ』とね。……大衆の間で熱狂的に支持されたこの物語は、やがて巨大な『民意が認めた品位』となって、王宮を逆流してくる」
完璧なロジックであった。
第一側妃派は今、ゼノビア家の失墜によって「武力」という支柱を失っている。ならば、それに代わる新たな無形の武器として「大衆の熱狂(世論)」を創り出し、それを第一王子グラクトの『品位』として纏わせるのだ。
下民どもが自ら「点と点を繋げた」と思い込むからこそ、その熱狂は誰にも止められない強固な同調圧力となる。
「……令嬢本人は、これをお許しになるのでしょうか。彼女の意図とは、全く異なる相手役となりますが」
「許すも何も、彼女には『人物名や設定を変えて出す』とすでに了承を得ているわ。私が約束を破った箇所など、一つもないのだから」
ヒルデガードの言葉に、侍女は沈黙し、ただ恐ろしい速度で脚本を書き進めていく。
セシリアは「自分の書いたものが、レオンハルトとの物語として知られるのは恥ずかしいから設定を変えてほしい」と願った。
ヒルデガードは「その願い通りに」設定を変えただけだ。ただその変更先が、たまたま第一王子を連想させるものだったというだけのこと。
もし後になってセシリアが「これは私の意図した物語ではない!」と抗議したところで、もう遅い。
彼女は最初に「王家の品位を高めるためなら、設定を変えて公開してよい」と自ら首を縦に振ってしまったのだ。大衆がそれに熱狂してしまえば、彼女の個人的な意図など、濁流に飲まれる木の葉のように跡形もなく消え去る。
『アイゼンガルトに嫁ぐはずだった哀れな小鳥。貴女の純愛は、この私が第一王子の『新たな品位の武器』として使ってあげるわ』
深夜の執務室で、沙沙という筆の音だけが不気味に響き続ける。
少し離れた令嬢の私室では、セシリアが穏やかな寝息を立てていた。自分の愛した「白き軍服の少年」の存在が、自分の名前を冠した物語の中から一行ずつ消去され、別の権力者の姿へと塗り替えられていることなど、夢にも思わずに。
王都を飲み込むことになる恐るべき「純愛悲劇」の脚本は、こうして第一側妃の密室で、魔法契約の呪縛とともに産声を上げたのである。