リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 死角の熱狂
その日、王都の平民街に位置する大劇場の屋根を、割れんばかりの拍手と歓声が揺らしていた。
立ち見客までがすし詰めになった薄暗い客席では、数え切れないほどの男女がハンカチで目頭を押さえ、舞台の上で抱き合う二人の役者へ向かって熱狂的なため息を漏らしている。
上演されているのは、数日前に初日を迎えたばかりの新作劇、『白亜の太陽と、待ち焦がれる百合』であった。
国家の重責を背負い、孤独な宮廷で政務に打ち込む高貴なる青年。そして、決して表舞台には出ず、後宮の片隅で彼を案じ、ただ一途に帰りを待ち続ける純真な令嬢。
作中において、彼らの固有名詞は一切語られない。だが、劇場の入り口に掲げられた看板には、美しく飾られた文字で堂々とこう記されていた。
『原案・作者:セシリア――第一側妃宮・行儀見習い』と。
本来、このローゼンタリア王国のような絶対的な人治国家において、王族を連想させる人物を大衆演劇の題材にすることは極めて危険な行為である。一歩間違えれば、王家の品位を汚した不敬罪として劇団ごと首が飛びかねない。
それにもかかわらず、この劇が堂々と上演され、検閲の衛兵すら見て見ぬふりをしているのには、明確な理由があった。
この大劇場自体が、第一側妃派の息のかかった貴族による裏の出資を受けていたからである。
劇団の座長は、第一側妃宮からの「この演目は王家の品位を高める美しい物語であるゆえ、上演を許可する」という非公式な後ろ盾を得ていた。
そして下民たちもまた、権力の動きにはひどく敏感である。なぜこの劇は検閲で潰されないのか。作者が第一側妃宮にいる令嬢だからだ。その事実は、大衆に一つの極めて甘美な錯覚を与えた。
『ああ、これは身分を隠して書かれた、第一王子殿下と作者令嬢の、真実の純愛録なのだ。だからこそ、お上も取り締まらないのだ』と。
下民というものは、複雑な政治の理屈を嫌う。だが、権力者たちの公然の秘密や、美しい色恋沙汰を覗き見ることには、底知れぬ嗅覚と情熱を発揮する。
ゼノビア侯爵家の失脚以来、王都の治安は揺らぎ、見えない派閥闘争の影が市井の民の心に暗い影を落としていた。彼らは、自分たちを安心させてくれる分かりやすく美しい、圧倒的な品位の象徴を渇望していたのだ。
そこに提示されたのが、この物語であった。
冷徹で近寄りがたいと思われていた第一王子が、実は一人の令嬢を深く愛し、孤独と重圧に耐えている。そして、美しき令嬢がその純潔を懸けて彼を支えようとしている。
その美談は、下民たちが抱いていた王家への漠然とした不安を、劇的なまでの敬愛と熱狂へと塗り替えるのに十分すぎる特効薬であった。
「おお……なんという美しい愛だ」
「殿下には、あのような清らかな令嬢が寄り添っておられるのだな……」
幕が下り、拍手が鳴り止まぬ劇場の中で、観客たちは誰もが満足げに涙を拭っていた。
彼らは知る由もない。自分たちが今、感動の涙とともに消費した物語の本当の相手役が、第一王子などではなく、国境の風に吹かれる一人の若き軍人であったことなど。
そして、この大衆の無責任な熱狂が、やがて王家の品位という絶対の盾を纏い、一個人のささやかな未来を圧殺する巨大な大衆煽動の怪物へと姿を変えたことに気づく者は、まだ誰もいなかった。
◇
下民たちの泥臭い熱狂から遠く離れた、王宮の高層階。
第一側妃ヒルデガードは、私室のバルコニーから王都の街並みを見下ろしながら、極上の赤ワインが注がれたグラスを優雅に傾けていた。
「……第一側妃様。本日の劇場の収益と、観客の動員報告にございます」
背後に控えていた侍女が、恭しく一枚の羊皮紙を差し出す。
そこには、連日満員を記録し続ける劇場の熱狂ぶりと、王都のあちこちで第一王子殿下とセシリアの純愛が、まるで確定した事実であるかのように語られている現状が、克明に記されていた。
「ふふっ……素晴らしいわ。下民どもは、私たちが与えた極上の餌に、疑いもせず食いついてくれたようね」
ヒルデガードの美しい唇が、歪な三日月のように吊り上がる。
すべては彼女の計算通り、いや、計算以上の完璧な成果であった。武の支柱を失い、地に落ちかけていた第一王子派の威信は、今や清らかな令嬢との純愛という大衆の熱狂によって、かつてないほどの高まりを見せている。
だが、第一側妃の冷徹な知略は、ただ一つの劇場を当たらせた程度で満足するような浅いものではなかった。
彼女はグラスのワインを一口含むと、侍女へ向かって次なる冷酷な指示を下した。
「舞台だけでは、王都の隅々まで熱を届けるには不十分よ。次は本を出しなさい。文字の読める裕福な商人や、中流の市民向けに、この脚本を元にした原作小説を大量に刷ってばら撒くの。もちろん、作者名はセシリアのままでね」
「はっ。承知いたしました」
「ええ。そして……文字の読めない貧民街の屑どもや、路地裏の子供たちの層も取り零しては駄目よ。彼らには、大道芸人や香具師を使って紙芝居をやらせなさい。視覚と音で、若き権力者の高貴さと令嬢の健気さを脳裏に焼き付けさせるの」
それは、富裕層から貧困層に至るまで、あらゆる階級の民衆が好む情報経路を完全に掌握する、恐るべき世論操作であった。
王都全体を一つの巨大な幻覚で包み込む。ここまで徹底すれば、もはや大衆の同調圧力は、王家の品位を支える民意という巨大な波となる。
「……ですが、第一側妃様。一つ懸念がございます」
侍女が、わずかに眉をひそめて進言した。
「これほど王都で騒ぎになれば、いくら隔離された王立学園であっても、いずれその噂は壁を越えて生徒たちの耳に入るはずです。……もし、令嬢の真の婚約者であるアイゼンガルトの嫡男がこれを知れば、激怒して事態の収拾に動くのではありませんか?」
自分の婚約者が、第一王子の恋人として王都中で持て囃されているのだ。血気盛んな若き軍人がそれを知れば、黙っているはずがない。
至極真っ当な懸念である。だが、ヒルデガードは全く意に介する様子もなく、むしろ可笑しくてたまらないというようにクスクスと笑い声を立てた。
「激怒? どうしてあの坊やが激怒するの?」
「それは……ご自身の婚約者が、他の殿方の恋人として扱われているからでございますが……」
困惑する侍女に対し、ヒルデガードは氷のように冷たく、すべてを見透かした瞳で微笑んだ。
「貴女は、真実を持っている人間の心理というものが全く分かっていないのね」
カチン、と。グラスをテーブルに置く硬い音が、静かな私室に響いた。
「レオンハルトは、セシリアの本当の性格を知っているわ。そして何より、自分と彼女が固い絆で結ばれた婚約者であるという真実を、疑いようもなく知っているのよ」
「……はい」
「では、その真実を知る者の耳に、この舞台の噂が入った時、彼はどう思うかしら?」
ヒルデガードは、扇をゆっくりと広げながら、アイゼンガルトの嫡男の思考を完璧になぞってみせた。
「『ああ、セシリアが民を慰め、王家の品位を高めるために、美しい作り話を書き上げたのだな。さすがは私の誇り高き婚約者だ』……そう思って、笑って終わりよ。脅威になど、微塵も感じないわ」
侍女の目が、驚きに大きく見開かれた。
「当事者とその家門を知りすぎているからこそ、彼らは物語の登場人物と現実の自分たちをイコールで結びつけられないのよ。……彼らは、自分たちが現実を知っているのだから、この作り話と現実を混同する馬鹿などこの世にいるはずがないと、無意識に高を括っているの」
それが、この罠の最も恐ろしい死角であった。
王家も、アイゼンガルト家も、そして学園にいるレオンハルト自身も。
彼らはセシリアが誰の婚約者であるかを完璧に知っている。だからこそ、この大ヒットをただのよく出来た作り話として消費し、全く警戒しない。
「真実を知る高位の貴族たちはただの作り話だと油断して放置し、真実を知らぬ下民たちはそれを現実の純愛だと信じ込んで熱狂するのよ」
ヒルデガードは、眼下に広がる王都の街並みへ向かって、再びグラスを掲げた。
「そして、アイゼンガルトの坊やが、下民どもはこの作り話を現実だと本気で信じ込み、自分たちの婚約解消を望んでいるという異常事態に気づいた時には……もう手遅れよ」
その時、大衆の熱狂はすでに王家の品位という絶対の鎧を纏っている。
ただの作り話だと笑っていた彼らは、その作り話によって退路を断たれ、自らの首を差し出すしかなくなるのだ。
「この身分による致命的な認識の断絶……真実を知るがゆえの油断こそが、私の作り上げた最も美しく、最も残酷な罠なのよ」
風が吹き抜け、第一側妃の冷酷な笑い声を王都の夜空へと溶かしていく。
王立学園という白亜の箱庭の中で、若き軍人が愛する婚約者の帰りを信じ、彼女の活躍を無邪気に誇らしく思っている間にも。
外の世界では、彼らの美しい未来を永遠に引き裂くための重厚な包囲網が、音もなく、しかし確実に完成へと近づいていたのである。