リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側1:鳥籠の令嬢6』

6 影響の承認

 

 第一王子派の武の支柱であったゼノビア侯爵家が、王宮の表舞台から姿を消して、すでに三年が経過していた。

 

 第一王子の側近であり、ゼノビア家の嫡男であったセオリスが、第二王子の婚約者ルナリアを暗殺するという大事件。その凄惨な真相は下民たちには一切伏せられているものの、強大な軍事力を持った名門の突然の失脚は、王都の治安に深刻な動揺をもたらした。

 

 さらに追い打ちをかけるように発生した、食糧価格の歴史的な大暴騰と、それに続く大暴落。

 

 多くの商家や貴族が没落の危機に瀕し、王都の空には拭いようのない暗雲と、王家の統治に対する漠然とした不安が立ち込めていた。

 

 その淀んだ空気を払拭すべく、王家はこれまでオセロ大会の開催などを通じ、民の目を娯楽へ向けさせるための慰撫政策に腐心し、ようやく一定の落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 そんな折に、王都の劇場で爆発的な流行を見せたのが、例の舞台『白亜の太陽と、待ち焦がれる百合』であった。

 

 第一側妃ヒルデガードの息がかかった劇団が演じた、架空の他国を舞台にした高貴な青年と健気な令嬢の純愛録。それが民の心を強力に惹きつけ、王都の不満を見事に散らしている事実は、すでに王宮の中枢にも届いていた。

 

   ◇

 

 王都を揺るがす熱狂から、数日が過ぎた頃。

 

 第一側妃宮の奥深く、ヒルデガードの私室に呼ばれたセシリアは、目の前で起きた信じられない光景に息を呑み、硬直していた。

 

「……どうか、私を許してちょうだい、セシリア」

 王国の最高権力者の一人である第一側妃ヒルデガードが。

 

 あろうことか、ただの行儀見習いに過ぎない自分の前で、その誇り高く美しい頭をわずかに下げたのである。

 

「ヒ、ヒルデガード様……!? どうかお顔をお上げください、私のような者に、そのようなお振る舞いは……っ!」

 

 慌てて膝を突き、懇願するセシリア。

 

 だが、顔を上げたヒルデガードの瞳には、うっすらと哀切な涙が浮かんでいた。

「いいえ。私は貴女に、事前の相談もなく取り返しのつかないことをしてしまいました。……貴女が手帳に綴っていた、あの純粋で美しい覚え書き。私はあれを私の劇団に渡し、貴女に無断で『舞台の脚本』として上演させてしまったのです」

 

 その告白に、セシリアの心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。

 

 王都の劇場で、自分の名前を原案とした舞台が信じられないほどの熱狂で迎えられているという噂は、使用人たちの囁きからセシリアの耳にも届いていた。

 

 だが、まさか第一側妃様ご自身が、それを仕組んでいたとは。

 

「なぜ……そのようなことを……っ」

 

「すべては、王都を覆う暗雲を払い、民の心を慰撫するためですわ」

 ヒルデガードは痛ましげに目を伏せ、切々と語り始めた。

 

「三年前の事件から続く、王都の治安悪化と食糧危機。民の心には統治への漠然とした不安が蔓延しています。私は、その空気を少しでも晴らしたかった。そんな時、貴女のあの美しい言葉を見つけたのです。……私は劇団に命じ、それを『存在しない架空の他国の物語』として脚本化させました」

 

「架空の、他国の物語……」

 その言葉に、セシリアの胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。

 

 設定が「架空の他国の王子」に完全に書き換えられているのなら。あれがレオンハルトへ向けた個人的な恋文であるという秘密は、誰にも悟られることはない。事実、セシリアは自分の想い人が他国の王子として描かれることの不自然さに安堵すら覚えていた。

 

「事後報告になってしまったこと、本当にごめんなさい。……演目の許可自体は、宰相である貴女のお父様に申請し、通常の審査を経て正式に得たものです。ですが……この舞台が王都に与えた影響は、私の想像を遥かに超えていました」

 

 ヒルデガードは、セシリアの両手を白く滑らかな手で痛いほどに強く握りしめた。

 

「民の熱狂は凄まじく、もはや単なる娯楽の枠を超え、王家の行う『統治政策』に何らかの不具合や影響を与えかねないほどの巨大なうねりとなってしまった。……もしも今後、一介の劇団が国家の統治に影響を与えるほどの熱を生み出したことを王家から咎められるようなことがあれば。私が真っ先に前に出て、すべては私の責任であると証言します」

 

「ヒルデガード様……っ」

 

 セシリアの藤色の瞳から、ポロポロと感動の涙が零れ落ちた。

 

 第一側妃は、王都の民を救うために自らの劇団を使い、予想外の影響力を持ってしまった事態の責任をすべて被り、ただの令嬢である自分を完璧に庇おうとしてくださっている。セシリアの論理は、ここで完全にヒルデガードの優雅な詭弁に絡め取られた。

 

「……分かりました。私の綴った言葉が、架空の物語として少しでも王都の慰撫の助けとなったのであれば。私はこの事態を、喜んで受け入れます」

 

「セシリア……。ああ、貴女のその類まれなる脚本の才能は、王宮の誇りですわ」

 

 感動に打ち震えるようにセシリアを抱きしめながら。

 

 ヒルデガードの背後に回った顔には、氷のように冷酷で、底意地の悪い嘲笑が張りついていた。

 

『愛らしい小鳥。これで貴女は、自分の才能が「巨大な影響力」を持ったことを自ら承諾したわ』

 

 ヒルデガードの真の狙いは、この「巨大な影響力を生み出したセシリアの才能」を王家(国王と王妃)に公式に認めさせ、彼女に圧倒的な箔を纏わせることにあった。

 

   ◇

 

 そして数日後。

 

 王宮の中枢に位置する最も豪奢で厳格な間、『白薔薇の間』。

 

 硬い大理石の床の上で、セシリアは極度の緊張に指先を震わせながら、第一側妃ヒルデガードの斜め後ろに付き従い、深く平伏していた。

 

 数メートル先の玉座から彼らを見下ろしているのは、国王ゼノンと、氷の貌を持つ王妃マルガレーテである。

 

「――――この度の私どもの行い、いかなるお叱りも受ける覚悟にございます」

 

 静寂に包まれた謁見の間に、ヒルデガードの透き通るような声が響いた。

 

 彼女は、自前の劇団の長として、あくまで王宮の正規のルールに則った平身低頭な謝罪の形をとっていた。

 

「私の息がかかった劇団を用い、架空の演目『白亜の太陽と、待ち焦がれる百合』を上演いたしました。……内容につきましては、事前の審査通り、王家の品位を貶めぬものとして、宰相府から正式な許可を得ておりましたが」

 

 ヒルデガードは、一度だけ痛ましげに目を伏せ、用意していた完璧な建前を語り始めた。

 

「思いのほか、この物語が民の心を捉えすぎてしまいました。……単なる娯楽の枠を超え、王家の進めておられる『統治政策』に何らかの不具合や影響を及ぼしかねないほどの熱狂を生み出してしまったこと。結果的とはいえ、王家の統治の領域を揺るがすような事態を招いてしまったこと、誠に申し訳ございません」

 

 ルールの範囲内で上演した劇が、予想以上に大流行し、結果的に国家の統治政策に影響を与えかねないほどの巨大な力を持ってしまったことへの謝罪。

 

 それは、どこまでも非の打ちどころのない美しい誤算を装った建前であった。

 

 だが、玉座から見下ろす国王ゼノンの瞳には、微塵の感情も浮かんでいない。

 

 ゼノンは、三年前にルナリア暗殺の糸を引いていた真の黒幕が、目の前で平伏しているこの女であると確信している。自らの手を汚さず、今はこうして「想定外の流行でした」という白々しい建前を盾にして盤面を動かしている。その醜悪さに、ゼノンは反吐が出るほどの嫌悪を抱いていた。

 

 ゆえに、ゼノンは一言も発しない。

 

 この毒婦と口を利くことすら己の品位を汚す行為であるとばかりに視線を外し、隣に座る王妃マルガレーテへと顎でわずかに合図を送った。お前が裁定を下せという明確な意志表示である。

 

 夫の意図を正確に読み取ったマルガレーテは、冷厳な表情を崩さぬまま、静かに口を開いた。

 

「……第一側妃ヒルデガード。一介の劇団の演目が、結果的に統治の領域にまで影響を及ぼすほどの熱を生み出した件、確かに報告は受けています」

 

 マルガレーテの言葉が、鋭い刃のように謁見の間に響く。

 

「ですが……その巨大な影響力が、結果的に王都の不満を逸らし、我々の統治に極めて良い結果をもたらしていることは事実です」

 

 マルガレーテは、感情ではなく結果の合理性のみで盤面を裁定する。

 

 ヒルデガードの思惑など些末なことだ。重要なのは、事前の審査通りその架空の物語が王家の品位を貶めておらず、結果として民の不安を取り除き、王都の治安維持に絶大な貢献をしているという事実だけである。

 

「内容に問題はなく、宰相府の審査基準を満たしている以上、特段の処罰は必要ありません。……それが統治の助けとなるのであれば、今後の公演についても、これまで通りの許可でよいとします」

 

「おお……! 王妃殿下の合理に満ちた寛大なご裁定、心より感謝申し上げます」

 ヒルデガードは深く平伏しながら、床に隠れた顔で至福の笑みを浮かべた。

 

 完璧だった。これでこの舞台は、単なる劇団の演目から「王家が公式に黙認し、統治の助けと認めた巨大なうねり」へと昇華されたのだ。

 

「そして、ヴァルメイユの娘よ。面を上げなさい」

 マルガレーテの冷たく透き通るような声に呼ばれ、セシリアは震える体を必死に律して顔を上げた。

 

「架空の物語とはいえ、そなたの持つ類まれなる脚本の才能が生み出した影響力が、王都の慰撫に大きく貢献したことは疑いようのない事実です。宰相の娘として、見事に王家の統治を支えてみせた。……その働き、褒めて遣わします」

 

 王家からの、絶対の承認と称賛。

 セシリアは、胸の奥から込み上げる震えを抑え込み、教え込まれた通りの模範解答を口にした。

 

「もったいないお言葉、身の引き締まる思いにございます、王妃殿下」

 

 透き通るような声で、セシリアは再び深く頭を垂れる。

 

「私の小さな才能など、取るに足らぬもの。……すべては、私に王家へ仕えることの尊さを教えてくださり、私の言葉を舞台へと導いてくださった、第一側妃様からの温かい御教導の賜物にございます」

 

 個人の手柄を誇らず、第一側妃の教育の成果であると帰結させる。

 

 それは、第一側妃宮の行儀見習いとして、これ以上なく完璧で品位に満ちた令嬢の姿であった。

 

「よろしい。今後もその才能と品位を忘れず、研鑽に励むがよい」

 

「はっ。ありがたき幸せに存じます」

 謁見が終わり、ヒルデガードに付き従ってセシリアが静かに玉座の間を退出していく。

 

 その背中を見送りながら、マルガレーテはただ氷のような無表情でその扉が閉まるのを見つめていた。

 

 何も知らないセシリアは、王家から素晴らしい才能だと直接褒められたことで、自分のしたことは正しかったのだと深い喜びに浸っていることだろう。

 

 だが、この人治国家において「王家から許可と称賛を受けた」という事実は、名誉であると同時に、決して逆らうことのできない絶対の呪縛を意味する。

 

 王家は、あの物語を「架空の他国の美談であり、優れた統治の助け」として公式に認めた。

 

 ならば今後、たとえ下民たちが勝手にその物語を第一王子グラクトと重ね合わせて熱狂しようとも。セシリアは絶対に、自らの口で「あれはレオンハルトへ向けた手紙です、上演を止めてください」などと主張することはできない。

 

 もしそんなことを言えば、それは王家の審査を通った作品を自ら否定し、王都を慰撫している統治政策に泥を塗る、万死に値する大罪となるからだ。

 

 第一側妃の優雅な詭弁によって才能という名の退路を絶たれ。

 

 王妃の称賛によって否定の権利を奪われる。

 

 この日、セシリア・ミント・ヴァルメイユという一人の純真な令嬢の首には、誰の目にも見えない、しかし決して断ち切ることのできない巨大な鉄の鎖が、完璧に巻き付けられたのである。

 

 

 

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