リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側1:鳥籠の令嬢9』

9 猶予の喪失

 

 第三側妃ソフィアが、金髪金眼の男児――ソルディを出産した。

 

 密偵から届けられたその凶報の羊皮紙を、第一側妃ヒルデガードは冷たい瞳で見下ろしていた。

 

(……女児であれば、セシリアを王立学園に入学させるまで、飼い慣らす時間があったものを)

 

 白薔薇の宮の自室。優雅に紅茶の香りを楽しみながらも、ヒルデガードの内心では極めて冷徹な計算が猛烈な速度で弾き出されていた。

 

 第一王子グラクトの最大の政治的価値は「唯一の正当な血統」である。だが、第三側妃派が完璧な血統の予備を手に入れた今、その独占的地位は崩壊した。このまま時間を掛ければ、大衆の支持も貴族たちの視線も、いずれ新たな王子へと流れていく。

 

 盤面における「猶予」というカードは、たった今、完全に消滅した。

 

(急ぐしかありませんわね。グラクトの権威を、大衆の熱狂ごと物理的に縛り付ける。……そのための極上の贄は、すでにこの手の中にあるのですから)

 

 ヒルデガードは傍らに控える、魔法契約で縛られた腹心の侍女へ視線を向けた。

 

「本日から、セシリアへの教育内容を切り替えなさい。侯爵夫人としての実務は不要。教え込むのは、第一王子の『側妃』としてひたすらに影に徹し、沈黙する隷属の作法のみです」

 

「畏まりました。ですが、不審に思われるのでは?」

 

「構いません。どうせ間もなく、己の立場を骨の髄まで理解することになります」

 

 ヒルデガードの唇に、嗜虐的で優美な弧が描かれる。

 

「それと、あの子が実家やアイゼンガルトの小僧へ宛てる手紙ですが……貴女の特技を使う時が来ましたわね」

 

「はい。いかようにも」

 

「精巧に筆跡を真似て、文面を改変しなさい。あの子が本心から綴った言葉の温もりは残したまま、不都合な悲鳴だけを巧妙に削り落とし、『王家のために充実した日々を送っている』という文脈にすり替えるのです。……決して、外の者たちに違和感を抱かせてはなりませんよ」

 

 軍部と内政の頂点である両家が、令嬢の異常を察知して『建国以来の盟約』を盾に強引に介入してくる盤外のリスク。それを物理的な情報の遮断によって完全にゼロにする。

 

 セシリア本人の「真実」を利用して、完璧な虚構を完成させる。それは、セシリアの退路と視界を完全に奪い取るための、冷酷で完璧な鳥籠の完成であった。

 

  ◇

 

 数日後。外界から完全に隔離された執務室で、ヒルデガードは目の前に立つ少女を見据えていた。

 

 セシリアの顔色は青白く、数日の理不尽な教育による疲労が色濃く滲んでいる。だが、その瞳には高位貴族の令嬢としての理知的な反抗の光が、まだ僅かに残っていた。

 

「……第一側妃様。現在の教育は、軍元帥家へ嫁ぐという当初の盟約に著しく反しております。これ以上の逸脱が続くのであれば、わたくしは父である宰相に報告し、当主としての裁定を仰がねばなりません」

 

 毅然と響くその声に、ヒルデガードは内心で小さく嘲笑した。

 

 己が両家の権威に守られていると信じて疑わない、無知ゆえの強さ。だが、ヒルデガードにとってもここは正念場であった。第三側妃の男児誕生により崩れかけた権力基盤を立て直すには、今この密室で、確実にこの少女の自我を粉砕し、第一王子の鎖として隷属させねばならない。

 

「当主の裁定?……無意味な手続きですわ」

 

 ヒルデガードはゆっくりと長椅子から立ち上がり、ドレスの裾を揺らしてセシリアの目の前まで歩み寄る。

 

「貴女の父である宰相は、すでにわたくしの手駒として、この盤面に組み込まれているのですから」

 

「……どういう意味でしょうか。父は国家の最高実務責任者です。いかに第一側妃様であろうと、父を己の駒として扱うなど不可能です」

 

 鋭く睨み返してくるセシリアの反論は、王宮の常識に照らし合わせれば極めて正しい。

 

 だからこそ、ヒルデガードは自らの下腹部――子宮のあたりに優雅に手を当て、最も悍ましい「盤外の真実」を突きつけた。

 

「ええ、平時であれば不可能でしょう。ですが……もし宰相が、『国王陛下の第一側妃』であるこのわたくしと肉体関係を結ぶという、決して許されざる大逆罪を犯していたとすれば、どうかしら?」

 

 その瞬間、セシリアの全身が硬直した。

 

 理知的な瞳が大きく見開かれ、血の気が一瞬にして引いていく。

 

「……あり、得ません。父が、自らの命と家門の破滅というリスクを負ってまで、そのような凶行に及ぶはずが……!」

 

「立派な建前で着飾ったところで、男など所詮は獣ですわ」

 

 ヒルデガードの極めて優美な声音が、セシリアの耳元で残酷な現実を囁く。

 

「貴女の厳格なお父様も……正妻である夫人ではなく、このわたくしの柔肌と匂いに狂い、王妃の目を盗んでわたくしの褥(しとね)で幾度も欲望を満たしたのですよ。あの理知的な宰相が、獣のように喘いでわたくしに縋り付いた。……それが男という生き物の、醜くも抗いがたい現実です」

 

「嘘……お父様が、そんな……っ」

 

「男という生き物は皆、同じですわ。……貴女が信じて疑わない、あの誠実なレオンハルト様とて例外ではない。今頃、王立学園で美しく熟れた他の令嬢たちにすり寄られ、男としての本性をたっぷりと暴かれているのではありませんこと?」

 

 セシリアの唇が微かに震える。尊敬する父の裏の顔。生々しく醜い肉欲の現実。そして、絶対に揺るがないと信じていたレオンハルトへの純粋な信頼にまで、致命的な疑念の毒が注ぎ込まれる。

 

「わたくしは、その男の哀れな肉欲を利用して、この『相互破滅(一蓮托生)』の鎖を首に巻き付けてさしあげたのです」

 

 ヒルデガードは、少女の絶望の色を極上のワインのように味わいながら、最後の一撃を振り下ろした。

 

 王家の血統を汚す大逆罪。それが公になれば、ヴァルメイユ家は即座に御家断絶となり、一族は皆殺しとなる。

 

「貴女の父は、天秤に掛けました。一族郎党すべてが処刑台に送られる『絶対の破滅』と、わたくしの足元に跪き、血筋だけは存続させる『屈辱』を。……結果、彼は己の罪を隠蔽し、家門を存続させる対価として、実の娘である貴女をわたくしに売り渡したのです」

 

「……あ……」

 

「貴女はもう、両家の盟約に守られた尊い令嬢ではありません。父の醜い欲望の尻拭いとして差し出された、『人身御供』なのですよ」

 

 セシリアの膝から力が抜け、床に力なく崩れ落ちた。

 

 家門の誇りも、レオンハルトとの誓いも、すべては父親の醜い欲望と取引によって売り払われていた。自分はただの贄であり、帰る場所など最初からどこにもなかったのだという真実が、彼女の自我を完全に粉砕する。

 

「これより、貴女には大衆の望む通り、第一王子の側妃となっていただきます。もしこれを拒み、実家やアイゼンガルトに泣きつけば、わたくしは即座にこの大逆の事実を公表します。お父様が貴女を売ってまで守りたかった家門は滅び、大逆罪人の娘となった貴女とレオンハルト様との婚約も、前提から完全に消え去る」

 

 瞳から完全に光を失い、床に這いつくばるようにして震えるだけのセシリアを一瞥し、ヒルデガードは冷酷に言い放つ。

 

「自ら婚約破棄を申し出て、愛する男と家門を存続させるか。それとも、ここで反逆し、貴女の愛する者すべてを処刑台へ送るか。……話は終わりです。明日の朝、また講義室へ来なさい」

 

 絶望に染まりきった少女の返事など、最初から待つ必要すらない。全神経を尖らせて放ったヒルデガードの論理が、家族への信頼すらも根こそぎ奪い去った密室の中で、完璧な支配を完了させた。

 

 

 

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