リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 王女の始動
その夜。本宮から物理的にも政治的にも切り離された離宮の一角――リュートから与えられたリーゼロッテの私室には、本宮の重苦しさとは質の違う、冷たく研ぎ澄まされた静寂が満ちていた。
窓の隙間から入り込む秋の夜風が、分厚い羊皮紙の束をかすかに揺らす。机上に置かれた魔導ランプの淡い光が、かつてルナリアから譲り受けた調度品を鈍く照らしていた。
「王妃殿下は、あの人が自分の価値を疑わない人間であるということを少し甘く見積もりすぎているようですわね」
プラチナブロンドの髪が月光を受けながら、リーゼロッテは王都の劇場で配布されているという二冊の小冊子を指先で弾いて言った。
彼女は、己を産んだ実の母を「あの人」と呼んだ。ルナリアを暗殺した第一側妃ヒルデガードを母と呼ぶ気も、それを見て見ぬふりをした実兄グラクトを兄と呼ぶ気も、今のリーゼロッテには微塵もない。彼らは血の繋がっただけの他人であり、政治的敵対者に過ぎなかった。
部屋の暗がりには、離宮の実力執行を担う長女、ルリカが音もなく控えている。呼吸音すら一切させないその佇まいは、夜の闇と同化する一振りの刃のようだった。
「報告書を見る限り、黄金の男児誕生により第三側妃派が極端に後宮への影響力を強めました。対して、実家のゼノビア侯爵家を家職停止で失い、第一王子という実子まで第三側妃の影響下にあると見られている第一側妃にとっては、これほどの権力喪失の恐怖はないはずです」
「ええ。だからこそ、第一側妃様は動いたのよ。この純愛劇の流行は、単なる民の慰撫などではないわ」
リーゼロッテは、王子と行儀見習いの献身的な恋を描いた劇の内容の書かれた小冊子を手にとった。
「1作目の狙いは、行儀見習いが第一王子殿下に恋愛感情を持っているという暗示ですわ。現実のグラクト殿下とセシリア様の関係を匂わせ、現状の両思いにみえる状態を民衆に錯覚させる。王家に対する著作の責任を持つ宰相は、これをただの創作による王子の人気取りだと侮ったのでしょう。影響力を評価せず、王家も重要視しなかったので、この2作目の公開を許してしまったのよ」
次に彼女が手を伸ばしたのは、新たに公開された2作目の小冊子だった。
「2作目の内容は、行儀見習いの婚約者が身を引き、王子の婚約者が側室を認めるというもの。これは宰相令嬢セシリア様の婚約解消と、第一王子殿下への側妃入りを暗示しているのでしょう。1作目は創作で通せても、2作目は現在のヴェルメイユ侯爵家やアイゼンガルト侯爵家の状況と酷似しすぎているわ。王都の民衆も、セシリア様自身が婚約解消を望んでいると1作目と同じ様に熱狂するでしょう」
「第一側妃お抱えの劇団が、これほど内情に肉薄した劇を公開している。第一側妃が制作に深く関与しているのは確実ですね」
報告書をに視線を落としながら指摘するルリカに対して、冷たい笑みを浮かべた。
「ええ。第一側妃様の目的は、自らの息の掛かったセシリア様を第一王子殿下の側妃に据えること。それによって、結局は第一王子派の最大の後ろ盾は実母である第一側妃派であると内外に見せつけ、第三側妃派から影響力を落とすことよ」
それは王家の威信や息子の人生すら、自身の権威を誇示のための道具としてしか考えていない者の権力闘争の方法であった。
「問題は、当事者であるセシリア・ミント・ヴェルメイユが、この劇の意図にどこまで関与しているかです」
ルリカが闇の中から静かに本質を突いた。
「劇の内容は、宰相家の内情と一致する場面が多すぎます。第一側妃の主導であっても、セシリア様自身から情報が提供されている可能性が高いので、少なくとも劇の制作には彼女自身が関与しているはずです」
「そうね。だから、彼女の現在の意志は三つの可能性に分けられるわ」
リーゼロッテは冷たい机上に、三本の指を立てた。
「考えるべきは三つ。一つ目は、野心。完全に第一側妃様に同意し、自ら側妃の座を狙っている場合。二つ目は、劇の制作自体には同意したが、第一側妃様の真の目的までは分かっていない場合。そして三つ目は、第一側妃様に弱みを握られ、無理やり協力させられている場合」
「いずれにせよ、セシリア様の認識はどうであろうと、民衆の熱狂という支持が形成されつつある以上、セシリア様の婚約解消は民衆の間では既成事実化されることは時間の問題です。婚約破棄しても誰の品位も傷つけないという外堀は完全に埋められましたね」
冷徹な分析が一段落すると、ルリカはわずかに首を傾け、リーゼに実利を問うた。
「第一王子殿下が第一側妃派に取り込まれようと、我々離宮には無関係です。この件に介入する利益はありますか?」
ルリカにとって、この世の価値基準は弟妹の安全のみである。第一王子の側妃問題など、本宮の権力闘争の延長に過ぎない。しかし、リーゼロッテは夜空に浮かぶ月を見据えたまま、静かに首を振った。
「第一王子殿下に側妃ができようが、誰の派閥に属そうが知ったことではないわ。所詮、あの人の考えられる範囲は後宮内のことだけ、自分の感情を満足させること、この場合、第三側妃の後宮への影響力が気に入らないだけなのよ」
第一側妃に侮蔑の情を隠すことなく、リーゼはそれが王家、ひいては王国全体にどのような影響を及ぼすかを推測する。
「それでも、無視できないのは、第一側妃が動いた結果による影響を全く考慮しない視野の狭さにあるの。あの人の行動はセシリア様という個人ではなく彼女の背後にいる武門のアイゼンガルト侯爵家も巻き込むことになる」
リーゼは窓の外の月明かりを眺めながら、離宮の現状から抗えない絶対的な暴力が最も不足している事実を再認識する。
「軍部元帥アイゼンガルド侯爵家がセシリア様との婚約破棄に不満を持てば政局の予想がつかなくなる。いまだ北の守護者アイギス公爵家、家職停止中とはいえ近衛騎士団長家ゼノビア侯爵家が離宮勢力側とはいえない以上、アイゼンガルド侯爵家の行動次第では軍部全体が動揺を招く可能性もある。現状、対抗できる武力のない私たちでは対処が後手に回ってしまう。この情勢の不透明さを回避するためにもアイゼンガルド侯爵家には動いてほしくないの」
その言葉に、ルリカの気配が僅かに鋭さを増した。
「セシリア様がアイゼンガルド家との婚約を望み、私たちがそれを叶えて離宮勢力に引き込むことができれば、必要なときにアイゼンガルド侯爵家をこちらに引き込む下地となる、と」
「ええ。逆に、彼女が第一王子殿下への野心を持っているのなら、アイゼンガルド侯爵家の不満を利用して静かに離宮勢力へ引き込むことになるわね。離宮としては、彼女がどちらに転んでも構わないわ」
リーゼは他者の人生を重さとして量ることを、自分に課している。それを醜いと知りながらも、それが離宮を守る者として目を逸らせないものであるから。
「だからこそ、セシリア様の現在の意志を見極める必要があるわ」
「直接接触して、問いただしますか」
「いいえ、まだ早い。もし彼女が野心から動いている場合、私たちが直接接触すれば、離宮が本宮の動向を監視し、介入の機を窺っているという情報をあの人に与えるだけになるわ」
リーゼロッテは窓辺から離れ、冷たい笑みを深めた。
「だから、まずは多数の令嬢を招いたお茶会を開くの。王都の流行に敏感な令嬢たちを集め、彼女たちの口からこの2作目の劇の噂を語らせる。このときのセシリア様を私たちは主催者として、その反応を観察すればいいわ」
離宮の思惑を何一つ晒すことなく、後宮内の悪意を利用して対象の思惑を測る。帝国第二皇子と互角の論理を交わし、離宮の顔として王都の裏を管理する王女にとって、茶会とは優雅な社交の場ではなく、冷酷な試問の場に等しかった。
「その観察結果によって、私たちが直接接触する価値があるかどうかを判断する。もし彼女が、ただ状況に絶望して何の意志ももたず流されるようなら、お姉さまの言う通り切り捨てて、アイゼンガルド侯爵家の動静を注視します。ですが……もし彼女が、血を流してでもレオンハルト卿との婚約を守ろうと抗う意志とそれに伴う責任を見せるなら、彼女を拾うことも考えましょう」
「承知いたしました。参加者の選定と招待状の準備を進めます。座席と話題の誘導は」
「わたくしが考えますわ」
ルリカが闇の中で静かに頭を下げる気配を感じながら、リーゼロッテは再び手元の資料へ視線を落とした。
「セシリア様が自力でこの罠を食い破る意志があるか、それともただ状況に流されるか。彼女が自分の意志を持っているかを見定めさせてもらうわ」