リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 生贄のドレス
第一側妃宮でセシリアに与えられた私室は、宰相令嬢である彼女の身分に相応しく、選び抜かれた調度品で整えられていた。だが、今の彼女にとって、この美しい部屋は息の詰まる牢獄でしかなかった。
豪奢な天蓋ベッドの端に腰掛けたセシリアの指先は、小刻みに、そしてどうしようもなく震え続けていた。手の中には、王家の紋章を押した封蝋つきの招待状が握られている。上質な羊皮紙の滑らかな感触すら、今の彼女には逃げ道を塞ぐ冷たい命令書のように思えた。
『第一王女リーゼロッテより、秋の茶会への招待状』
その文字を目にした瞬間から、セシリアの心臓は早鐘のように鳴り続け、冷や汗が背筋を伝い落ちている。招待状には、王都で評判の劇について令嬢たちと言葉を交わしたい、と丁寧な文字で記されていた。
第一王女リーゼロッテ。セシリアは行儀見習いとしてこの宮に上がってから、彼女と個人的な言葉を交わしたことなど一度もない。それなのに、なぜ突然、劇の感想を語る茶会の中心に据えられるような形で招かれたのか。
考えを進めるほど、思考は同じ結論へ沈んでいく。その奥から、数日前に見た第一側妃ヒルデガードの微笑みが浮かび上がった。
『王家の品位を高め、民の心を慰撫した貴女の献身に、心から感謝しますわ。もちろん、賢い貴女なら……これが何を意味しているか、お分かりでしょう?』
セシリアには、ようやく見えた。王都を熱狂させている劇は、単なる第一王子の人気取りなどではない。あれは、セシリアとアイゼンガルト家との婚約を、しかも、その形を取れば、誰も第一側妃が命じたとは言わない。セシリア自身が望まれ、祝福され、頷いたのだと語られる。
気づいた時には、レオンハルトと交わした未来の約束は、民の祝福という名の声に押し流されようとしていた。レオンハルトとのささやかで確かな未来を夢見ていたセシリアの希望は、第一側妃の後宮を支配する権威と、王都に広がる熱狂の前に、無惨にも踏み躙られたのだ。
絶望と焦燥で、呼吸が浅くなる。この招待状こそ、逃げ道を閉ざす最後の封蝋だったのだ。
リーゼロッテ王女は、ヒルデガードの娘である。ならば、この茶会も第一側妃の意思が介入しているに決まっている。王都の流行に敏感な令嬢たちが多数集まるその席で、セシリアは衆目の前で、側妃となることを望んでいると受け取られる言葉を引き出されるのではないか。そして、黙っていれば、恥じらっているのだと笑われる。否定すれば、王家の品位を傷つけたと咎められる。
恐ろしい。行きたくない。だが、王女からの招待を断ることなど、侯爵家の娘であっても、今は第一側妃宮に仕える行儀見習いに過ぎないセシリアには許されない。かといって、青ざめた顔のまま茶会へ出れば、それもまた、王女の茶会に相応しくない振る舞いとして咎められる。
進むことも退くことも許されない。セシリアは、見えない糸で四方を縫い留められたように、ただ震えるしかなかった。
◇
茶会当日、ノックの音すらなく、私室の重厚な扉が開かれた。
「まあ、随分と顔色が優れませんこと。これから華やかなお茶会へ向かうというのに」
部屋に入ってきたのは、数人の侍女を従えた第一側妃ヒルデガードだった。彼女が足を踏み入れた瞬間、濃厚な薔薇の香水の甘さの奥に、逆らうことを許さない後宮の力が滲んでいた。
セシリアは弾かれたように立ち上がり、震える膝を必死に押さえつけて深く頭を下げた。
「だ、第一側妃様……」
「リーゼロッテからの招待状はもう届いておりますね。もちろん、私の方で先に文面は改めさせてもらいました。」
ヒルデガードは、セシリアの手にある招待状を一瞥し、優雅な笑みを深めた。彼女にとって、娘のリーゼロッテなど、自らの顔色を窺うだけの従順な娘でしかなかった。この茶会の開催すら、母である自分の意思を汲み取って開いた、気の利いた社交に過ぎないと見なしている。
「あの子も、やがては帝国へ嫁ぐ身。王宮を離れる前に、いずれグラクトの側妃としてこの宮を支えることになる貴女と、友好的な関係を築いておきたいのでしょう。姉妹となる者同士、良い機会ではありませんか」
その言葉に、セシリアの顔からさらに血の気が引く。ヒルデガードの口ぶりは、セシリアがグラクトの側妃になることを、もはや覆るはずのない定めとして扱っていた。
「第一側妃宮を代表して王女の茶会へ赴くのです。そのような行儀見習いの地味な装いでは、第一側妃宮の品位に関わります。着替えなさい」
ヒルデガードが指を鳴らすと、控えていた侍女たちが一斉にセシリアを取り囲んだ。
拒絶する間もなく、侍女たちの手がセシリアの簡素なドレスを解いていく。代わりに彼女の身体に押し当てられたのは、行儀見習いが着るような代物ではなかった。上質な絹に金糸と深紅の刺繍を重ねた、第一側妃宮の威をそのまま身にまとわせるようなドレスだった。それは明らかに、それは明らかに、彼女を第一王子の側妃候補として周囲に示すための、呪いのような衣装だった。
コルセットが限界まで締め上げられ、セシリアは小さく呻き声を漏らす。だが侍女たちの手は止まらない。首元には宝石のネックレスが掛けられ、結い上げられた髪には、重い髪飾りがいくつも挿し込まれた。その重さが、第一側妃宮という権力そのものとなって、セシリアの肩と首にのしかかった。
「……とても、美しくてよ。宰相令嬢」
着飾られ、身動きすら満足に取れなくなったセシリアの背後に、ヒルデガードが音もなく歩み寄った。鏡越しに目が合う。ヒルデガードは冷たい美貌に笑みを浮かべたまま、セシリアの耳元へ顔を寄せた。
「貴女は今日、誰よりも幸福な女性として、あの茶会で微笑むのです。王家の威信を高める純愛劇の主人公として、令嬢たちの羨望を一身に浴びてきなさい」
耳元に落ちる甘やかな声音は、猛毒を含んだ絶対の命令だった。
「もし……貴女が茶会の席で、その美しい顔に少しでも暗い影を落とすようなことがあれば。それは王家の品位に泥を塗る、許しがたい反逆です」
ヒルデガードの冷たい指先が、セシリアの首元に飾られた宝石をゆっくりとなぞった。ぞくり、とセシリアの全身に鳥肌が立った。
「貴女の振る舞い一つで、お父上である宰相閣下の立場も、そして……貴女が大切に思っているアイゼンガルトの若き騎士の将来も、どうとでも変わってしまうということを、賢い貴女なら理解していますわね?」
それは、レオンハルトの名と未来を握っているのだと告げる、明確な脅しだった。本来なら、第一側妃が軍部元帥家の嫡男の未来を直接握れるはずなどない。だが、今のセシリアには、その当然の距離を測る余裕がなかった。王家の品位、宰相家の立場、第一側妃宮の圧力。そのすべてが一つに重なり、レオンハルトの名を押し潰すものに思えた。
セシリアの目から、恐怖と絶望の涙が溢れそうになる。だが、それすらも許されない。泣けば化粧が崩れ、ヒルデガードの不興を買う。彼女は必死に唇を噛み締め、引き攣った顔で、ただ人形のように頷くことしかできなかった。
「……は、はい。第一側妃様……」
「よろしい。では、行ってらっしゃい」
ヒルデガードの満足げな声に見送られ、セシリアは重い足取りで部屋を後にした。
華美なドレスは鎧ではなく、彼女を逃がさないための檻だった。首を飾る宝石は、祝福ではなく、生贄に掛けられた首輪に思えた。彼女はこれから、祝福される令嬢の姿をした生贄として、第一王女の茶会へ向かう。
その先で待っている王女が、ヒルデガードの道具ではなく、別の冷たさで彼女の意志を試す者であることなど、セシリアにも、ヒルデガードにも、知る由はなかった。