リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『外側2:王女の始動5』

5 劇空間の真意

 

 第一王女リーゼロッテが持ち出した『王都で流行している純愛劇』という極めて自然な、だが計算し尽くされた話題は、優雅な茶会の空気を一瞬にして熱狂の渦へと変えた。

 

 その熱の中心で、セシリアだけが取り残されていた。周囲が明るく華やぐほど、彼女の座る席だけが冷えていく。

 

 王宮という閉鎖空間において、最新の芸術や流行の演目を語ることは、自らの教養と情報網の広さを誇示するための最も安全で華やかな手段である。ましてや、それが第一王子殿下という次代の王位に最も近い存在の秘められた恋を暗示する内容となれば、好奇心旺盛な令嬢たちが関心を寄せないはずがなかった。

 

「ええ、存じておりますわ。第一王子殿下を思わせる高貴な御方と、その傍で健気に仕える行儀見習いの令嬢の純愛を描いた、あの素晴らしい舞台ですわね」

 

「わたくしも先日、劇場で拝見いたしました。身分違いの恋に胸を焦がしながらも、少しでも殿下の御為にとひたむきに努力するヒロインの姿に、劇場の誰もが涙しておりましたのよ」

 

「あのように美しく、純粋な献身こそ、我々貴族の娘が見習うべき鑑ですわ」

 

誰かが、扇の陰で小さく笑った。

 

「あの劇のことでしたら――まるで、現実のどなたかを思わせるようで……胸が熱くなりましたわ」

 

 その声が落ちた瞬間、セシリアの指先が膝の上で強く握り込まれた。笑っているのは、誰なのか。セシリアには分からなかった。扇の陰に隠れた口元が、みな同じ形に見える。誰も責めてはいない。誰も刃を向けてはいない。だからこそ、どこへ向かって否定すればよいのか分からなかった。

 

 色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちが、扇で口元を隠しながら熱を帯びた溜息を漏らす。彼女たちの瞳は純粋な感動と憧憬に輝いており、そこに悪意は微塵も存在しない。ただ美しい物語を受け取り、無邪気に称賛しているだけだ。

 

 だが、その無邪気さこそが、セシリアの逃げ場を奪う称賛の輪となることを、場の流れを操るリーゼロッテは熟知していた。

 

 善意と称賛の薄絹に包まれた輪には、反論のしようがない。令嬢たちの熱狂は、この劇がすでに王都の民衆と貴族社会の間で『誰もが愛し、称賛すべき美しい物語』として固まりつつある事実を証明していた。

 

 セシリアの耳には、その称賛が少し遅れて届いていた。声は聞こえる。意味も分かる。けれど、返すべき微笑みだけが作れない。唇の端を持ち上げようとするたび、頬の筋肉が他人のもののように強張った。

 

「まあ、皆様もすでにご覧になっていらしたのね。わたくしも台本だけは読ませていただきましたけれど、本当に胸を打たれましたわ」 

 

 リーゼロッテは、白磁のティーカップを優雅に傾けながら、秋の陽だまりのような微笑みを浮かべたまま次の言葉を選んだ。彼女の視線が、主賓席で身を強張らせているセシリアへと静かに向けられる。

 

「あの劇は、第一側妃様がお抱えになっている劇団の公演だと伺っております。そして何よりも素晴らしいのは、あの物語の源となり、ヒロインの姿に重ねられているのは、他ならぬセシリア様ご自身だということですわ」

 

 リーゼロッテの澄んだ声が庭園に響き渡った瞬間、令嬢たちの間に感嘆のどよめきが広がった。羨望と熱を帯びたいくつもの視線が、一斉にセシリアへ集まった。

 

 セシリアは一瞬、リーゼロッテの言葉の意味を理解できなかった。源。重ねられている。自分。聞き慣れたはずの言葉が、どれも遠い国の言葉のように遅れて胸へ沈んでいく。

 

「まあ。では、あの舞台は単なる創作ではなく、真実の愛の記録だったのですね」

 

 真実。その言葉だけが、はっきりと聞こえた。違う。あれは劇ではない。誰かに見せるための物語でもない。レオンハルトへ向けて、誰にも聞かせずにしまっておいた言葉だった。

 

「セシリア様だからこそ、あのように第一王子殿下の御心に寄り添う真実の純愛を描くことができたのですね。なんと胸を打たれることでしょう」

 

 セシリアは、返事をしようとして失敗した。舌が動かない。口を開けば、レオンハルトの名がこぼれそうだった。その名だけは、この場に落としてはならない。落とした瞬間、それは王家への反論になる。

 

 令嬢たちの無邪気な賛美の声の中で、セシリアの顔からは血の気が完全に引き、まるで精巧な蝋人形のように真っ白になっていた。 セシリアの脳内で、恐ろしい真実の断片が組み合わさっていく。

 

 第一王子殿下は学園に在籍しており、王宮にいるセシリアと親しく言葉を交わす機会など存在しない。

 

 劇の元となったのは、セシリアが誰にも見せるつもりなく綴っていた日記だった。そこに記されていたのは、レオンハルトへの想いと、彼と共に生きる未来への願いである。

 

 その言葉から、レオンハルトの名だけが抜き取られ、相手役は第一王子へ置き換えられていた。誰にも見せるつもりのなかった願いは、王家の秘恋として整えられていた。

 

 そのおぞましい真実に気づいた瞬間、セシリアの全身から一気に温度が奪われた。

 

(否定しなければ。これはレオンハルト様との話であって、第一王子殿下への恋情などではないと。違う、と言えばいい。ただそれだけでいい。けれど、その一言の向こうに、父の顔が浮かんだ。ヴェルメイユの家名。第一側妃宮の侍女たち。ヒルデガードの微笑み。そして、アイゼンガルトの若き騎士の未来。)

 

 しかし、セシリアの乾いた唇から否定の言葉が発せられることはなかった。

 

 もしここで真相を口にすれば、劇を公認し、彼女にこの豪奢なドレスを与えて送り出した第一側妃様に対する明確な反逆となる。王家の純愛劇に泥を塗り、第一王子殿下の品位を損なう大不敬。否定すれば、ヴェルメイユ侯爵家が潰れる。

 

 その血の凍るような王家と後宮の鎖がセシリアの喉を塞ぎ、彼女は一言の弁明も発することができなくなった。

 

 リーゼロッテは、無言で震えるセシリアを観察しながら、内心で冷徹な消去法による見極めを進めていた。

 

 第一の見立て、セシリア自身が権力への欲求からレオンハルト卿を裏切ったという可能性は、ここで消えた。もし自発的な権力欲があるなら、この称賛を傲慢に受け入れているはずだ。彼女は自ら状況を動かそうとせず、事態の深刻さに今ようやく気付いて恐怖している。

 

 残る見立てを確定させるため、リーゼロッテは最後の一押しとなる第二の罠を動かす。

 

「そういえば、皆様。あの劇には、さらに素晴らしい2作目が上演されたと伺いましたわ」

 

 リーゼロッテの声が、秋の庭園に冷たく響く。

 

「行儀見習いの令嬢に想いを寄せていた騎士が、第一王子殿下と彼女の真実の愛を知り、王家の品位のために自ら身を引くという、涙なしには語れない物語だとか」

 

(身を引く。誰が。レオンハルトが。何のために。王家の品位のために。セシリアの中で、言葉が一つずつ、冷たい釘のように打ち込まれていく。)

 

 その言葉が落ちた瞬間、セシリアの肩が小さく跳ねた。背後に控えるルリカは、セシリアの瞳が大きく揺れ、焦点を失っていくのを見逃さなかった。

 

「ええ、その2作目こそ、王都で最も話題になっているのですわ」「令嬢を愛しながらも、第一王子殿下という国を背負う御方のために自ら身を引く騎士様。その気高く哀しい忠義の姿に誰もが心を打たれました」

 

「王家の品位と秩序を守るため、自ら身を引くことこそが最も美しい愛の形。これこそが、我々臣下の持つべき真の忠誠心ですわね」 

 

 令嬢たちの言葉は、セシリアの心を押し潰す重しとなっていた。1作目がセシリアの現状の書き換えであるならば、2作目は第一側妃様が強要する未来そのものだ。

 

 この劇が美談として王都に定着した今、レオンハルトの取り得る行動は狭められた。もし彼がセシリアとの婚約破棄を拒めば、第一王子殿下の恋路を邪魔し王室の品位を傷つける不忠な騎士として名誉を失う。身を引けば、王家の品位のために自己犠牲を払った忠義の騎士として称賛される。

 

 第一側妃様は、アイゼンガルト侯爵家を第一王子派から離反させないために、レオンハルトの忠義心と家門の面目を人質に取り、彼からセシリアを切り離すことを美しい自己犠牲として押しつけたのだ。

 

 セシリアがここで側妃になることを拒めば、レオンハルトが不忠のそしりを受ける。受け入れれば、二人の未来は永遠に失われる。どちらに転んでも、第一側妃様の思惑通りに事態が進む。

 

「第一王子殿下への献身と、自ら身を引く騎士の忠義。王室の品位をこれほど美しく示す物語は、そう多くはありませんわ。セシリア様の描かれたその美しい物語は、間違いなく王国の歴史に残るでしょう。皆様も、そうお思いでしょう」

 

 令嬢たちの称賛の声がセシリアの周囲で巻き起こる。誰もが自分を称賛し、誰もが自分を第一王子殿下の側妃として認めている。この温かく華やかな茶会の空間こそが、逃げ場の存在しない最も残酷な檻だった。

 

 リーゼロッテは、冷徹な瞳でセシリアを見据えたまま、最後の問いを置いた。

 

「セシリア様。貴女も、この素晴らしい結末を心から望んでおいでなのでしょう?」

 

 王女からの直接の問いかけ。それは第一王子殿下の側妃となることを受け入れよという、第一側妃が望む結末を、セシリア自身の口で認めさせるための問いに他ならなかった。

 

 セシリアは震える手を膝の上で固く組み合わせ、血が出るほど唇を噛み締めた。否定の言葉は喉の奥で絶望の塊となってつかえ、決して外へは出てこない。口を開けば、レオンハルトが、ヴェルメイユ家が破滅する。

 

 彼女はただ一筋の涙を頬に伝わせながら、まるで糸を引かれる人形のように、ゆっくりと力なく首を縦に振った。それは同意ではなかった。降伏ですらない。ただ、声を奪われた者が、壊れないために選ばされた動きだった。

 

「は……はい、第一王女殿下」

 

 消え入るようなその肯定の言葉は令嬢たちの称賛の声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。ただ一人、至近距離で彼女を観察し続けていたルリカを除いては。

 

 ルリカの冷たい視線はセシリアの涙に一片の同情も寄せることはない。彼女が読み取ったのは、ただ一つの絶対的な事実だけである。セシリアに権力への欲はない。自ら第一王子へ寄った気配もない。あるのは、レオンハルトへの執着と、今の状況に耐えきれぬほどの絶望だけだった。

 

 ルリカは銀の盆を胸元に引き寄せ、背後のリーゼロッテへ向けて微かに踵を鳴らし、見極めが終わったという合図を送った。それを受けリーゼロッテは令嬢たちに向けて完璧な微笑みを崩さぬまま、静かにティーカップを傾けた。

 

 見極めは終わった。セシリアは第一側妃の策によって切り捨てられる生贄に過ぎない。だが、彼女がレオンハルトを愛し絶望しているという事実は、離宮陣営にとって途方もない価値を持つ。

 

 もしこの絶望の底に沈む令嬢に、泥をすすってでも第一側妃様に牙を剥き、レオンハルトとの未来を勝ち取る覚悟があるのなら、彼女は第一側妃宮とアイゼンガルト侯爵家のあいだに打ち込む楔になり得る。

 

 秋の陽光が降り注ぐ美しい空中庭園で、第一王女リーゼロッテは冷たい統治者の笑みを、紅茶の香りの奥に沈めた。

 

 

 

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