リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『外側2:王女の始動8』

8 窮地の論理と、偽装の従順

 

 薄暗い旧書庫で、リーゼロッテの静かな問いかけに、セシリアは手元のティーカップを見つめたまま微かに唇を震わせた。

 

 第一側妃宮という狂気の檻の中で、彼女はずっと『どうすべきか』だけを強要されてきた。第一王子殿下の側妃という座に据えられること。純愛劇のヒロインを演じきること。実家の不義を隠蔽するための蓋となること。自らの意志など、どこにも介在する余地はなかった。

 

 だからこそ、『本当はどうしたいのか』と問われたのは、この地獄に足を踏み入れてから初めてのことだった。

 

「私……私は……」

 

 セシリアは顔を上げ、リーゼロッテの金色の瞳を真っ直ぐに見返した。

 

「レオンハルト様と、結ばれたいです。第一側妃様が作った筋書きから逃れ、彼との未来を生きたい。……でも、私を代償にされる原因を作ったとはいえ、たった一人の父を見捨てることも、ヴェルメイユ家を滅ぼすことも、私にはできません。レオンハルト様との未来も、家族も……どちらも失いたくないのです」

 

 それが、セシリアの本音だった。自分を犠牲にする原因を作った父であっても見捨てきれない親への情。家門の令嬢として背負わされた責任。そして愛する者との未来。すべてを失いたくないという、あまりにも危うい答え。

 

 本宮の冷徹な政治闘争において、その甘さは通常なら命取りになる。だが、リーゼロッテはそれを嘲笑うことはなく、静かに、優しく包み込むような視線を向けた。

 

「ええ。両方守りたいのね。それが貴女の本当の望みなら……お手伝いはできるわ。私たちが使える力を貸すこともできる」

 

「お手伝い……」

 

「そう。でも、あくまで動く主体は貴女自身よ。だって、これは貴女の望みでしょう? 誰かが運命を変えてくれるのを待つ被害者のままでは、現状は何も変わらないわ」

 

 リーゼロッテの声は穏やかだったが、その奥には、為政者としての厳しい真理があった。

 

「残酷なことを聞くわね、セシリア様。……もし、お父様を切り捨て、ヴェルメイユ侯爵家の破滅を受け入れることでしか、レオンハルト様と共に生きる道が手に入らないとしたら、貴女はどうする?」

 

 突きつけられた極端な問いに、セシリアの顔から血の気が引いた。

 

「両方を無傷で手に入れるなどという甘い夢は、初めからこの王宮には存在しないかもしれない。それでも、何も選ばなければ、現状のまま全てを第一側妃様に奪い尽くされるだけよ。……貴女は、当事者として何かを選び取る意志はあるかしら?」

 

 セシリアは、震える膝の上に置かれた自分の両手を見つめた。

 

 どちらかを切り捨てる。そんな恐ろしい選択を、自分ができるのか。旧書庫に沈黙が降り、彼女の浅い呼吸だけが繰り返された。

 

「……怖いです。けれど、このまま何も選べずに、すべてを奪われるのだけは嫌です。もしどうしても選ばねばならない時が来たら……私は、父を切り捨ててでも、レオンハルト様との人生を選びます」

 

 それは、父も家も失う可能性を引き受ける、血を吐くような覚悟の証明だった。

 

 その瞳に確かな光が宿ったのを見届け、リーゼロッテは小さく微笑んだ。

 

「極端な例えよ。……でも、そのように『最悪の事態』を想定し、考え続けることが必要なの。決めつけて思考を止めない限り、状況の変化にも対応できるわ」

 

「考え続ける……」

 

「ええ。貴女はアイゼンガルト家のように、剣を持って戦うことはできない。行動には限界があるわ。でも、勝つために考えること、最悪の状況に陥らないように相手の選択肢を狭めることはできるでしょう? 剣で戦う以外に状況を改善する方法を、考え続けるのよ」

 

 思考を止めない限り、状況は動かせる。剣を持てないなら、剣を持つ者が軽々しく動けない理由を作ればいい。

 

 リーゼロッテのその教えは、セシリアを「被害者」から「自分の意志で状況に関わる者」へと引き上げるための、確かな導きとなった。

 

「……はい。考えます。両方を守るために、自分の意志で」

 

 静かな決意の言葉を聞き届けると、リーゼロッテはゆっくりと立ち上がった。

 

 彼女はセシリアの前に置かれた、すっかり冷めきってしまったティーカップを引き寄せ、ポットから新しい紅茶を静かに注ぎ直した。芳醇な茶葉の香りがほどけ、温かな湯気が二人の間へ薄く広がっていく。リーゼロッテはすぐに次の問いを重ねず、セシリアがその温かさを受け取るまで待つのだった。

 

「少し喉を潤して。たくさん話して、頭も疲れたでしょう」

 

「……お心遣い、感謝いたします」

 

 セシリアは促されるままにカップを両手で包み込んだ。陶器越しに伝わる熱が、強張っていた指先をゆっくりと解していった。一口含むと、温かい液体が喉を通り、張り詰めていた息が自然とこぼれた。

 

 自らの本当の望みを定め、最悪を想定し、冷静に考え続ける姿勢を受け入れたことで、彼女の心には、これまでにない静けさが戻っていた。

 

 セシリアが落ち着きを取り戻し、確かな眼差しで顔を上げたのを確認してから、リーゼロッテは再び向かいの席に腰を下ろした。

 

 ここから先は、精神論ではない。生き残るための具体的な対処を考える時間だった。

 

「頭の切り替えはできたかしら?」

 

「はい。……お気遣い、ありがとうございます」

 

「なら、一緒に考えましょう。どうやって貴女を縛るあの『二つの鎖』を緩めるか。まずは外の鎖から考えましょう。王都の世論を操作し、貴女の退路を断つ『純愛劇』。これをどう無力化する?」

 

 セシリアは必死にセシリアは必死に考えた。先ほどまで『どう従うか』しか知らなかった思考が、『どう抗うか』という筋道を探し始めた。

 

「あの劇は、あくまで『名もなき王子と令嬢の物語』という作り話の建前をとっています。ならば……噂を流し、あの劇の王子はグラクト殿下ではなく、第二王子であるリュート殿下のことだと大衆の認識をすり替えてしまうのはどうでしょうか。リュート殿下は表立った噂が少なく、大衆の想像を上書きするのには都合が良い対象になるかと存じますが……」

 

 劇が持つ『作り話』という逃げ道を突き、情報の少ない人物を利用しようとするセシリアの案を聞いた瞬間、リーゼロッテはかすかに肩を揺らした。

 

(お兄様が、甘い悲恋の王子……)

 

 甘い悲恋の王子という像は、あまりにも現実のリュートから遠かった。リーゼロッテは一瞬だけ口元を緩めかけたが、すぐに王女としての表情を整え直した。

 

「……とても斬新な着眼点ね。でも、セシリア様。仮に、その噂を上手く流し、リュート殿下が悲恋の主人公だという錯覚を大衆に信じ込ませることに成功したとするわね。……では、現在すでに王都で公演されている『第2作目』はどうなるかしら?」

 

 リーゼロッテの問いに促され、セシリアは自らの案の『その先』へと筋道を辿った。

 

 1作目を『王家の秘恋の真実だ』と大衆に認めさせてしまった後の世界。そこで今まさに上演されている、令嬢が愛のために婚約を破棄する物語。

 

「……っ。大衆は、2作目も無条件に『真実』だと思い込んで熱狂してしまいます」

 

 自らが提案した策の致命的な欠陥に気づき、セシリアの顔から血の気が引いた。

 

「私たちが劇のモデルをリュート殿下にすり替え、『第1作目は真実だ』という権威を与えてしまえば、連作である第2作目の『婚約解消』も抗えない正義として大衆に肯定されてしまう。……それは結果として、私に婚約破棄を迫る世論の圧力を最大化することになります」

 

「ええ。狙いを逸らしたつもりで、第一側妃様の握る『劇』という武器そのものを疑いにくい事実として扱わせてしまう。……残念だけど、自滅を招く危険な手ね」

 

 正面から否定すれば、セシリアの立場が危うくなる。劇場側に第一側妃の資本が入っている以上、強権による停止も難しい。さらに王女が劇を止めれば、かえって王家の内情を隠していると疑われる。別人にすり替えることも、敵の武器を強化するだけだった。

 

 すべての退路を塞がれたセシリアは、ティーカップの縁を指でなぞりながら、それでも世論の圧力から逃れる活路を探す。真実という権威を与えてはならないのなら、どうすればいいのか。

 

 長い沈黙の後、セシリアの脳裏に、王宮で幾度も見てきた流行が消費され、飽きられていく仕組みが浮かんだ。

 

「……価値を、落とすしかありません。王都の人々があの連作劇に熱狂しているのは、愛し合う者は結ばれるべきだ、努力した者は報われるべきだ、という願いを、あの劇が美しく満たしているからです。ならば……同じように身分差の恋が報われ、婚約を退けて愛が選ばれる物語をいくつも流せば、あの劇だけが特別な希望ではなくなります。王都の人々は、特定の令嬢の真実ではなく、ありふれた夢物語の一つとして受け取るようになるはずです。ただし、あからさまに増やせば、誰かが意図して流していると気づかれます」

 

「劇が持つ特別さを薄めるわけね。……ええ、とても筋の通った考えだと思うわ」

 

 リーゼロッテは優しく微笑んで同意を示しながらも、そのまま静かに、しかし妥協のない問いを重ねた。

 

「でも、セシリア様。その『似たような物語を少しずつ流通させる』という手を打った場合、第一側妃様はどう動く? 実行した後の推移と、それに伴う不利益は計算できているかしら」

 

「推移と、不利益……」

 

 ひとつの答えに辿り着いた安堵は、その穏やかな問いかけによってすぐに消えた。策は、実行した後の敵の動きまで計算して初めて機能する。

 

 セシリアは、自らの案を実行した後の『第一側妃の目的と手順』をさらに深く検討した。

 

「……第一側妃様の最終目的は、私をグラクト殿下の側妃に据えることです。そのためには、私とアイゼンガルト家との婚約を白紙化しなければなりません」

 

「ええ。なら、なぜ第一側妃様は、最初からお父上の不義密通の証拠を使って、お父上自身の権限で無理やり婚約を破棄させないのかしら?」

 

 リーゼロッテの誘導に、セシリアは息を呑んだ。

 

 相手を縛れる不義の証拠があるのに、なぜわざわざ劇などという迂遠な手段をとっているのか。第一側妃の立場で、政治的な損益を計算する。

 

 父が命じれば婚約は動かせる。けれど、それではアイゼンガルト家に侮辱だけが残る。武門の筆頭を正面から敵に回す危険を、第一側妃が見落とすはずはない。

 

「……アイゼンガルト家の、反発を防ぐためです。もし父が一方的に婚約を破棄すれば、武門の筆頭であるアイゼンガルト家は泥を塗られ、今後の政争で明確な敵に回る危険があります。ですが……劇を通じて『令嬢が王子を深く愛しており、世論もそれを支持している』という状況を作れば、アイゼンガルト家の方から身を引くか、あるいは父が『世論に押された』という大義名分を持って角を立てずに婚約を解消できるかもしれません。第一側妃様は、アイゼンガルト家の恨みを買うことなく、最も理想的な形で婚約解消へ進めようとしている……」

 

 言い終えたセシリアは、そこで初めて自分の答えの重さに気づいた。劇は飾りではない。アイゼンガルト家を傷つけずに退かせるための、最も実現可能で、外からは穏当に見える方法なのだ。

 

「その見方も正しいと思うわ。では、私たちが類似の物語を目立たぬ形で流通させ、あの御方の『世論工作』の価値を失わせたらどうなる?」

 

「……第一側妃様は、理想的な形での婚約解消は不可能になったと判断するはずです。そして、アイゼンガルト家の恨みを買うリスクを背負ってでも、目的を達成するために、より確実な手段へ切り替える可能性が高い。……つまり、父の不義の証拠を盾にした『直接的な脅迫』に踏み切る恐れがあります。そうなれば、父の命と家の猶予が、即座に消え去りかねません」

 

 自らの甘い想定が招く最悪の結果を思い描き、セシリアの背に冷たい汗が伝った。

 

「ええ。その可能性を高めてしまうわ。けれど、第一側妃様にとっても、お父上の不義は軽々しく表へ出せる材料ではない。使えば宰相家だけでなく、御自身の罪と王宮の統制まで傷つく。だからこそ、あの御方はいま劇を使っているのよ。世論工作という比較的穏やかな手段を不用意に壊せば、より危険な手段へ移る必要性を高めてしまう。つまり、その方策を実行するには『第一側妃様に世論工作を妨害されたと悟られないこと』が、私たちが猶予を保つための最低条件になるわ。だから表では、貴女は何も気づいていないように振る舞わなければならないわ」

 

 リーゼロッテの言葉に、セシリアは深く頷いた。相手の狙いを正確に読み解いたからこそ、今自分が立っている危うさを理解した。抗うためには、抗っているように見えてはならないのだ。従うふりをしながら、退路だけを少しずつ開く。それが、いま許される抵抗だった。

 

「……では、どうやって実行する? 大衆の熱が自然に冷めたと錯覚させるように、第一側妃様の監視を避けて似た物語を流す手段はあるの?」

 

 問いは、目的の確認から、実行方法の検討へ移った。リーゼロッテの導きに従い、セシリアは王都の構造と、第一側妃の持つ権力の監視網を思い浮かべた。

 

「……大きな劇場は使えません。家職停止中とはいえ、第一側妃様の御実家であるゼノビア侯爵家の目は、王都の大きな劇場にはまだ届くでしょう。少しでも貴族の資本や後援が入っている場所を動かせば、第一側妃様の耳に入る可能性が高い。……使うとすれば、貴族が芝居として数えない場所です。街角で語られる短い恋物語や、酒場や商人宿で口伝えに広がる噂話……そういうものなら、大きな劇場を動かさずに済みます。ただ、それを誰が、どこから流し始めるのかまでは、私には分かりません」

 

「ええ、悪くないわね。相手の力が届きにくい場所を使うのは、有効な方法よ」

 

 自力で危険を読み、実行の方向まで辿り着いたセシリアに、リーゼロッテはわずかに満足げな笑みを浮かべた。

 

「現状、私たちが取り得る手段としては、その『下層の流通経路』を使うのが最も理にかなっていると思うわ。……そして私には、公務で慰問している王都の孤児院へ出入りする商人や職人の伝手がある。そこを直接使うのではなく、その出入りの流れを中継にすれば、商人宿や紙芝居師、辻語りの者たちへ、王女の名を出さずに、あくまで自然な流行の一つとして物語を流せるはずよ」

 

 セシリアが導き出した方針に、リーゼロッテが実行手段を添える。危険を比較し、噂を薄めるための、現状で最も現実的な案が、ひとまず形を取った。

 

「……では、次は内の鎖よ。宰相閣下の不義密通。これをどうする?」

 

 

 

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