リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『外側2:王女の始動7』

7 聖母の療法

 

 本宮西翼の最奥に位置する旧書庫は、数世代にわたって実質的な利用が途絶えており、カビと劣化した羊皮紙の匂いが重く沈殿していた。

 

 秋はすでに深まり、分厚い石造りの壁を抜ける冷気が、容赦なく体温を奪っていく。隙間だらけの窓枠は夜風に軋み、遠くの秋虫の音だけが、この冷え切った空間にも外の夜が続いていることを告げていた。

 

 その静寂を破り、重厚な樫材の扉が微かな蝶番の悲鳴と共に押し開けられた。

 

 暗闇へ足を踏み入れたのは、濃紺の地味な外套に身を包み、フードで顔を深く隠したセシリア・ミント・ヴェルメイユだった。手にした小さな燭台の灯りを震わせながら、恐怖に引き攣った浅い呼吸を繰り返している。誰かに会いに来たのではない。手紙に従い、旧書庫の目録棚へ返答を置くためだけに来た。

 

 第一側妃の監視の目を盗み、深夜の本宮を一人で歩き回る。それだけで、行儀見習いの令嬢には規律違反として破滅しかねない危険があった。少しでも物音がするたびに心臓が跳ね上がり、今すぐ私室へ逃げ帰りたいという衝動に何度も駆られたに違いない。

 

 だが、彼女は逃げなかった。父の不義という残酷な真実を突きつけられ、愛するレオンハルトとの未来が完全に断たれるという絶望の淵にあって、それでも彼を救い出せるかもしれないという一縷の細い糸を手放せなかった。

 

「よく来ましたわね、セシリア様」

 

 書庫の最奥、月明かりだけが差し込む埃まみれの空間から、静かで、ひどく澄んだ声が響いた。

 

 セシリアが肩を跳ねさせ、震える手で燭台を高く掲げる。淡い光の輪の中に浮かび上がったのは、つい数時間前、あの息の詰まる茶会の席で完璧な微笑みを浮かべていた第一王女、リーゼロッテの姿だった。

 

「だ、第一王女殿下……。どうして、殿下がこのような場所に……」

 

 セシリアは後ずさり、声にならない悲鳴を上げた。それだけで、これが第一側妃による忠誠心の最終テストだと疑うには十分だった。

 

 極限の恐怖でセシリアの膝が折れそうになったその瞬間、彼女の背後で、開いたままだった重厚な扉が音もなく閉められた。扉脇の影の中には、いつの間にか黒い影が立っていた。

 

 セシリアが息を呑んで振り返ると、そこには第一王女の専属護衛ルリカが、夜の闇そのもののような冷徹な佇まいで控えていた。ルリカはセシリアの背後を確認し、誰も尾行者がいないこと、彼女が誰にも付き添わせていないことを視線だけで主へ報告する。

 

「ご苦労様です。……セシリア様、そんなに怯えなくてもよろしくてよ。誰も貴女を害そうとは思っていません。ルリカ、お下がりなさい」

 

ルリカは無言で一礼し、扉脇の影へ身を退いた。

 

 リーゼロッテは一切の威圧感を消した声でそう言うと、書庫の中央に置かれた古い閲覧用の机へと歩み寄った。そこには予め、保温のための魔法陣が刻まれた銀筒と、二つの清潔なティーカップが用意されていた。

 

 自らの手で銀筒の蓋を開け、カップへ静かに湯を注ぎ始めた。芳醇なハーブと蜂蜜の香りが、埃っぽい書庫の空気を一瞬にして塗り替えていく。

 

「さあ、お掛けなさい。秋の夜の石造りは、冷えが骨まで響きますから」

 

 本宮の狂った身分制度に照らせば、第一王女が一介の行儀見習いに自ら茶を淹れるなどあり得ない。だが、そのあり得なさが、第一側妃宮の絶対的なルールに支配されていたセシリアの思考を一時的に麻痺させ、その規則の外へ引きずり出す引力になっていた。

 

 セシリアは促されるままに、ふらつく足取りで椅子へと腰を下ろした。

 

 書庫の深い影に溶け込みながら、ルリカはその光景を静かに見つめていた。

 

 リーゼロッテの所作には、先ほどの茶会で見せていた冷徹な気配は微塵もない。カップの縁を扱う指先の角度、相手の警戒を解くための声の高さと間、そして空間全体を包み込むような拒絶しない静かな気配。

 

 ルリカの目に映っているのは、間違いなくリーゼロッテだった。だが、その立ち振る舞いは、かつて深く傷ついた者たちを救済した亡き母ルナリアの姿と完全に重なる。

 

 極限の恐怖で自己崩壊の縁に立たされた者を救うための、まず震えを鎮め、次に言葉を取り戻させる手順。リーゼロッテは、ルナリアが用いたその手法を自己のものとし、この密室で再現していた。

 

「温かいカモミールティーよ。すっかり芯まで冷えてしまったでしょう」

 

 リーゼロッテが差し出したカップを、セシリアは震える両手で受け取った。

 

 陶器越しに伝わるその確かな温もりが、冷え切っていたセシリアの掌から全身へと広がっていく。そしてその熱は、限界まで張り詰めていた彼女の精神の糸を、あっけなく緩めた。

 

「あ……っ」

 

 セシリアの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

 

 第一側妃宮では、絶望の表情を見せれば王家の純愛劇に泥を塗る反逆だと脅されてきた。声を上げて泣くことすら許されなかった彼女にとって、目の前の少女が放つ、拒まず、急かさず、黙って受け止める空気は、あまりにも優しすぎた。

 

 堰を切ったように、セシリアの口から嗚咽と共に言葉が溢れ出した。

 

「私は、劇の意味を分かっておりませんでした。ただ、父の立場を守れるなら、それでよいのだと……。けれど、あれは第一王子殿下への恋心として語られ、王都中が、私の側妃入りを望んでいることにされてしまいました」

 

 そこで、セシリアは一度だけ言葉を詰まらせた。次に口にすることが、父を二度と引き返せない場所へ押し出すと分かっていた。

 

 だが、目の前にいるのは、第一側妃の実の娘だった。これが罠なら、沈黙してもすでに終わっている。罠でないのなら、ここで話さなければ、父も、家も、レオンハルトとの未来も失われる。敵であっても、味方であっても、もはや隠す意味は残っていなかった。

 

「父は、王宮で許されぬ関係を持ったのだと告げられました。私が従わなければ、ヴェルメイユ家は破滅すると……私は、父を縛るために、家を縛るために、レオンハルト様との婚約を壊すために差し出されたのです。私が頷けば家は残る。私が拒めば家は潰される。そう言われて……私は……」

 

 リーゼロッテは言葉を遮らず、ただ静かに聞いていた。けれど、セシリアが次の名を口にした瞬間、カップを持つ手が止まった。

 

「……待って。お父上が許されぬ関係を持った相手というのは……まさか」

 

「……はい。第一側妃様ご自身が、そう仰いました。父はあの御方と許されぬ関係を持った。私は、その代償として差し出されるのだと」

 

 その瞬間、旧書庫の空気が微かに凍りついた。

 

 暗闇に控えていたルリカが、音を立てずに鋭く息を呑む気配がした。リーゼロッテもまた、僅かに瞳を見開き、完璧な仮面の奥で深い驚愕を走らせていた。

 

 宰相が何らかの致命的な弱みを握られている可能性は考えていた。だが、第一側妃自身がその弱みを作ったとなれば、話が違う。

 

 王妃の目を盗み、本宮の内側で宰相を縛る。不義が露見すれば、ヴェルメイユ家とアイゼンガルト家だけでは済まない。宰相の罪、第一側妃の罪、第一王子の品位、王妃の統制、王宮そのものの秩序まで巻き込む。

 

 リーゼロッテは、胸の奥で冷たく断じた。ルナリアが帝国公爵家の娘であることを承知しながら、帝国との戦を招きかねない狂犬をけしかけたあの日と同じだ。

 

 何も変わっていない。自分の満足と焦燥のためなら、国がどこまで燃えるかを数えない。追い詰められたから危険なのではない。追い詰められるたび、自分の足元の火を王宮全体へ広げる。その影響力の強さを自覚できないのが第一側妃ヒルデガードという女なのだ。

 

 しばらく、旧書庫にはセシリアの嗚咽だけが残った。リーゼロッテは急かさない。問いも、慰めも差し挟まない。ただ、セシリアが自分の呼吸を取り戻すのを待つ。父の罪を口にした少女は、もうそれだけで半ば崩れている。

 

 ここで答えを求めれば、彼女は再び第一側妃宮で叩き込まれた恐怖の形へ戻ってしまう。必要なのは次の情報ではない。自分の口で語っても、すぐには罰されないのだと、セシリアの身体が理解するまで待つことだった。やがて、セシリアの嗚咽が少しずつ収まり、荒かった呼吸が落ち着き始める。

 

 涙を拭ったセシリアは、ふと我に返り、縋るような、それでいて怯えるような視線をリーゼロッテに向けた。

 

「……第一王女殿下。どうして、殿下は私のお話を黙って聞いてくださるのですか。殿下は、第一側妃様の実の娘ではありませんか……。なぜ、私などにこれほどの情けを……」

 

 それは、極限状態の者が抱く当然の疑念だった。自分を追い詰めた元凶の娘が、なぜこんな真似をするのか。

 

 リーゼロッテは、同情の言葉を選ばなかった。王宮の秩序を揺るがす真実だと分かっていても、いま彼女を第一側妃の恐怖から引き離すには、それだけの重さが必要だった

 

「セシリア様。……貴女は、第二側妃ルナリア様が亡くなられた『本当の理由』をご存知かしら」

 

 不意に落とされたその名に、セシリアは戸惑って瞬きをした。

 

 ルナリアといえば、先の第一王子の側近狂乱事件の後、ほどなくして病死したと公式に発表されている。

 

「ご病気で、亡くなられたと伺っておりますが……」

 

「表向きはね。でも、真実は違うわ」

 

 リーゼロッテのプラチナブロンドの瞳に、深い喪失と、冷たく澄んだ怒りの炎が宿った。

 

「彼女は、私を生んだあの御方……第一側妃様が唆した狂犬によって、命を奪われるほど傷つけられた」

 

「え……っ!?」

 

 セシリアの喉が引き攣った。

 

 セシリアが知っている公式発表では、護衛騎士のセリオスは突如狂乱し、後宮の侍女を殺害したことになっている。だが、いま第一王女が告げた内容は違う。帝国公爵家の娘である第二側妃が、第一側妃の唆した者によって命を奪われた。

 

「ルナリア様は、私にとって本当の家族だった。血など繋がっていなくても、私に知性を教え、無条件の愛を与えてくれた方。……私は、その一番大切な人を、第一側妃様に奪われたの」

 

 淡々と語るリーゼロッテの声には、血を滲ませるような悲哀と、静かな殺意があった。セシリアは、目の前の第一王女が抱える傷の深さと、彼女が置かれている凄絶な立ち位置を理解し始めた。

 

「私は、あの御方に抗うために、自分の意志でここに立っている。……だから、第一側妃様の理不尽な暴力で、貴女が大切な人との未来を奪われようとしているのを、どうしても見過ごせなかったのよ」

 

 第一王女は、自分を哀れんで助けようとしているのではない。自分と同じく、第一側妃という化物によって大切なものを奪われ、それでもなお抗おうとしている痛みを知る者だった。

 

 その痛みを伴った嘘偽りのない真実を突きつけられ、セシリアの中にあった「敵の娘」という警戒心が、少しずつ揺らぎ始めた。

 

「……殿下……」

 

 セシリアは、初めて、彼女の身分ではなく同じように絶望の淵に立たされた一人の少女としてリーゼロッテを見た。

 

「貴女は、一人ではないわ、セシリア様」

 

 リーゼロッテがそっと手を伸ばし、セシリアの震える手を包み込む。

 

 王宮という巨大な檻の中で、頼る者も逃げ場もなく孤立していたセシリアの心に、初めて、確かな温もりが届いた。

 

「……ありがとうございます、第一王女殿下。私、本当に……一人で、恐ろしくて……」

 

 セシリアは両手でリーゼロッテの手を握り返し、もう一度だけ静かに涙を流した。だがそれは、先ほどまでの恐慌による絶望ではなく、暗闇の中に手を差し伸べてくれる者を見つけた安堵だった。

 

 秋の冷気が満ちる旧書庫の中で、二人の少女の間に、静かな信頼の糸が、かすかに結ばれた。

 

 セシリアの呼吸が完全に落ち着き、涙が止まるのを待って、リーゼロッテは優しく、しかし確かな意志を持った声で問いかけた。

 

「……セシリア様。貴女を縛る鎖のこと、お父上のこと……解くべき糸は、必ず見つけられるわ。だから、まずは貴女の本当の心を聞かせてちょうだい。……貴女自身は、これからどうしたいの?」

 

 

 

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