リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『外側2:王女の始動9』

9 密室の対価と、鳥籠の観測手

 

 リーゼロッテの問いが、旧書庫の空気を一段と冷たく張り詰めさせた。

 

 外の鎖である『劇』への対抗策を見出したセシリアの脳裏に、再び現実が重くのしかかった。国家の政務を統べる父が犯した不義密通。第一側妃自身を巻き込むその証拠を、敵は握っている。

 

 証拠の書簡を奪い返すか。あるいは、関係者の口を封じるか。

 

 だが、深窓の令嬢に過ぎないセシリアに、第一側妃宮の厳重な警護を破る手立てなどあるはずもない。考えれば考えるほど、道は塞がり、彼女の顔から再び血の気が引いた。

 

「……わかりません。私には、あの証拠を奪う力も、父の罪を消し去る権力もありません」

 

 震える声で限界を認めたセシリアに対し、リーゼロッテは紅茶のカップを置き、淡々と告げた。

 

「ええ。奪う必要も、今すぐどうにかする必要もないわ。……今は動かない。静観することが、現時点では正解よ」

 

「……何もしない、ですか?」

 

「第一側妃様の立場で考えてごらんなさい。第一側妃様が、その不義密通の証拠を公にすればどうなるか」

 

 リーゼロッテが示したのは、証拠そのものではなく、それを使う側の危険だった。

 

「不義密通の相手は『第一側妃様ご自身』よ。もしそれが公になれば、単なる政治の失脚などでは絶対に済まない。王家の血統を穢した大罪として、宰相閣下は極刑を免れず、ヴェルメイユ家も連座を避けられない。……当然、貴女も巻き込まれるわ」

 

 セシリアの肩がかすかに跳ねた。だが、破滅するのは宰相家だけではない。

 

「そしてそれは、あの御方にとっても完全な自滅を意味する。第一側妃様ご自身が裁かれるだけでは済まないわ。第一王子や私にまで『本当に王の血を引いているのか』と血統の疑いをかけられ、破滅する。よくて一生幽閉、悪ければ王族としての命脈を断たれる。あの証拠は、表に出した瞬間、宰相家と第一側妃様の双方を裁きの場へ出すものなの」

 

 相手を完全に支配するために、第一側妃は、自らの罪と子供たちの血統、家門の存続までを宰相家支配の材料にした。

 

 証拠は強い。だが、強すぎるがゆえに、使い方は限られる。

 

「だからこそ、あの御方が、あれほど言い逃れの利かない証拠を、自分から表に出すはずがないのよ。私たちが今すべきことは、不義密通そのものを無かったことにする根本解決じゃない。あの御方に『セシリアは恐怖で追い詰められ、完全に支配下に入りつつある』という一定の満足を与え、暴走させず、こちらが時間を得ることよ」

 

 リーゼロッテはそこで一度、紅茶の水面へ視線を落とした。その短い沈黙は、恐怖を煽るためではなかった。セシリアが『証拠を奪う』発想から、『証拠を使わせない』発想へ移るための間だった。

 

 セシリアが小さく息を呑んだ。その間に、リーゼロッテは第一側妃が次に選べる手段を、さらに整理していった。

 

「では、あの御方は次にどう動くか。……四年前のルナリア様の一件以降、あの御方は王妃様から警戒され、第一王子に深く食い込んでいる第三側妃派からも動向を探られている。表で、宰相閣下に露骨な圧力をかけたり、アイゼンガルトとの婚約破棄を強引に進めたりすれば、即座に足元を掬われるわ」

 

 だからこそ、あの御方は外部の監視が届きにくい『第一側妃宮』という密室にセシリアを囲い込んだ。表で動けば疑われる。だから、疑われにくい内側でセシリアを折ろうとする。

 

「あの御方の目的は、貴女を第一王子の側妃として取り込み、宰相家の権力を後ろ盾にして後宮での発言力を取り戻すこと。……もちろん、人を支配する方法は一つじゃないわ。贅沢や特権を与え、そこに依存させる甘い罠を使ってくる可能性もある」

 

「甘い、罠……」

 

「ええ。でも、もしその手で来るなら、貴女は流されたふりをして、受け取れるものだけ受け取り、内心を渡さなければいい。特別な対処はいらない。……私たちが想定し、防御を固めなければならないのは、対処を一つでも間違えれば心と命が危うくなる『最悪の手』の方よ」

 

 甘い罠なら、受け流せばよい。問題は、受け流す余地すら奪われる場合だった。

 

「貴女に父の不義を突きつけた時、ひどく怯え、逃げ場を失った顔を見せたはずよ。その気の弱さと孤立を見て、あの御方はこう計算した可能性が高い。『わざわざ大きな危険を冒して身体を傷つけずとも、密室で精神的に追い詰めるだけで、この娘は自ら第一王子の側妃になると泣きついてくる』とね」

 

 側妃として利用する予定の娘を暴力で損なうことは、第一側妃にとっても本意ではない。もし命を危険に晒せば、宰相家を取り込むという計画そのものが完全に破綻するからだ。

 

「あの御方は、以前の事件で、死が制御できない危険だと知っているはずよ。危険な兆候さえ監視しておけば管理の届く『精神支配』は、選びやすい手よ。……だから、まずはこれに対する防御を固めなさい」

 

 セシリアは両手を固く握りしめた。これから自分が戻らなければならない場所で何が行われるのか、その輪郭が見えてしまった。

 

「ならば、どうすれば……私は、あの場所で正気を保てるのでしょうか」

 

「戦おうとしないことよ」

 

 悲痛な問いに対し、リーゼロッテは離宮で身につけてきた、密室で生き延びるための防御を口にした。

 

 それは、ただの作法ではなかった。離宮で身につけた、相手の前提を読み、相手が望む答えだけを見せるための知恵だった。本来なら、家族の内側に留めておくべきものだ。けれど今は、その一部をセシリアへ渡さなければならない。セシリアが欺き続けられなければ、第一側妃は証拠を使う必要に追い込まれ、王宮の混乱は、制御できない形で始まる。

 

「言葉の裏にある『前提』を読むの。相手が今、何を欲しているか。……あの御方が欲しいのは、貴女が完全に絶望し、自らの意志を手放して支配下に落ちたという『成果』よ。なら、それを見せればいい」

 

 リーゼロッテは、セシリアの奥底を見据えた。

 

「心の中では冷静に相手を観察しなさい。そして表向きは、相手が望む通りの『心が折れた哀れな令嬢』の仮面を完璧に被るの。内心を守り、精神支配の段階であの御方を騙し切り、満足させること。それが、密室における今考え得る生存の道よ」

 

 屈服するのではない。屈服したように装うのだ。

 

 その考え方の転換に、セシリアの強張っていた肩の力がふっと抜けた。耐えるだけの被害者ではなく、相手を欺くために、自分で選ぶ仮面。それならば、どれほど言葉で傷つけられても、心の奥にある望みだけは守り抜くことができる。

 

「……はい。私、やります。あの御方が望む通りに、心が折れたふりをして、必ず騙し通して見せます」

 

 静かな決意を口にしたセシリアの表情に微かな安堵の色が浮かんだ。

 

 だが、次の瞬間、リーゼロッテはその安堵を断ち切るように、冷たい言葉を告げた。

 

「――でも、もし貴女の被った仮面が見抜かれて、精神支配では屈服しないとあの御方が悟った時は……大きな危険を冒してでも、直接的な暴力に切り替えてくるわ」

 

 旧書庫の温度が、一気に数度下がったかのように思えた。

 

 セシリアの息が止まった。リーゼロッテは目を逸らさず、四年前の事実を告げた。

 

「ルナリア様が受けた地獄よ。傷つけられ、癒やされ、また傷つけられる。終わりの見えない苦痛を、貴女にも向けてくる可能性がある」

 

「あ……」

 

 セシリアの唇から、形にならない恐怖が漏れ出た。

 

 深窓の令嬢に過ぎない彼女にとって、それは想像を絶する地獄だった。なぜ、生き延びる方法を示してくれた直後に、そんな絶望を突きつけるのか。

 

「なぜこんな残酷なことを言うのか、わかるかしら」

 

 震えるセシリアを見据え、リーゼロッテは為政者としての冷たい優しさで告げた。

 

「いざ直接の苦痛を加えられた時、想定外の事態で恐慌に陥れば、貴女が必死に取り繕った仮面は一瞬で崩壊するからよ。……自分がどれほど死と隣り合わせの場所にいるか、正しく認識しなさい。最悪を想定していなければ、極限の場では生き残れないわ」

 

 痛めつけるためではない。心を折らせないために、最悪を先に見せる警告だった。知らない恐怖は人の心を一瞬で壊すが、知っている恐怖なら、震えながらでも準備ができる。

 

 死の恐怖を前にしてもなお、セシリアは逃げ出さなかった。真っ青な顔で、震える両手を強く組み合わせ、それでも、自らの意志で踏みとどまった。

 

「……耐え、ます。どんなことがあっても、レオンハルト様との未来のために……っ」

 

 涙を浮かべながらも、セシリアは目を逸らさなかった。

 

 その覚悟の重さをしかと受け止めたリーゼロッテは、最後に、本当の命綱を示した。耐えろと言うだけなら、それは第一側妃と変わらない。リーゼロッテが渡すべきものは、耐えた先に、外へ出られると信じられる仕組みだった。

 

「泣き叫んでもいい。無様な姿を晒して、屈辱を受けてもいい。身体が動く限りでかまわない。……だから、一日、一回だけ、合図を出すところまで耐えなさい」

 

「一日、一回だけ……」

 

「ええ。第一側妃宮にある貴女の部屋の窓に、侍女に見られても不審に思われない窓辺の飾りとして、リボンを結んでおきなさい。青は『無事』。赤は『相談あり』。どちらもない時は、限界を迎えた合図として扱うわ」

 

 リーゼロッテは、王族としての権威と、ひとりの少女としての祈りを込めて、救出の約束を口にした。

 

「もし相談が必要なら、赤いリボンに替えなさい。限界を迎えて、これ以上は耐えられないと思った時は、何も出さなくていい。……毎日、私の側で貴女の窓を確認します。私自身でなくとも、私の命じた者が必ず見るわ。赤いリボンなら、その日のうちに接触の道を作る。何も出ていなければ、その日のうちに私が必ず、第一側妃宮から貴女を外へ連れ出すわ」

 

 それは、第一側妃宮へ戻るセシリアのための、救済の仕組みだった。だが、リーゼロッテの保証はそれだけでは終わらなかった。

 

「そして……もし耐えきれずに助けを求め、方策が失敗に終わったとしても、私は王女として記録に残る責任を負って、アイゼンガルト家と交渉し、必要なら、王女である私自身が証人に立ち、第一側妃宮で貴女が強いられた事情を示してでも、貴女の望みである『レオンハルト様との公式な結婚』をかなえてみせる」

 

 セシリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

 

 それは、無条件の救済ではなかった。しかし、耐える覚悟への対価として示された、逃げ道を含む保証だった。リーゼロッテはそこで、セシリアが支払う対価も告げた。

 

「貴女が一日耐えれば、私たちは一日準備できる。王妃様へ届く道を探し、あの御方が証拠を公にできない形を作る時間が増える。貴女が耐えることは、ただ貴女自身の未来を守るためだけではないわ。私たちがこの王宮の混乱を制御するための時間にもなるの」

 

「……戻ります、リーゼロッテ様。私は、折れたふりをして、毎日、窓辺に私の答えを残します」

 

 涙を拭って立ち上がったセシリアの顔には、もう怯えるだけの令嬢の面影はなかった。

 

 自らの意志で第一側妃宮へ戻っていく彼女の後ろ姿を、リーゼロッテは静かに熱を帯びた瞳で見送った。青も、赤も、何もない窓も、第一側妃宮の内側にいるセシリアの意思を外へ知らせる答えになる。窓辺に意味が残る限り、彼女は完全には孤立しない。

 

 

 

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