リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
12 帝国の参戦
ファブリス帝国、第二皇子宮。
高い天井を支える黒鉄の柱には、戦功と勅令を刻んだ銀板が等間隔に打ち込まれていた。豪奢ではある。だが、ローゼンタリア王宮のように虚栄を飾るための華美ではない。ここにあるのは、力と統治の記録を誇示するための、乾いて硬質な威圧だけだった。
この国では、家は血だけで保たれない。家を掲げる者ほど、才ある者を抱え、役目に据え、時には時には嫡子を押し退けてでも、家を継がせ、あるいは婿として迎える。それが帝国貴族の自尊であり、皇帝の名のもとに整えられた組み込まれた秩序でもあった。
その私室で、アレクシスは、リーゼロッテから届いた第二の返書を最後まで読み終えたまま、しばらく一言も発しなかった。
燭台の火が静かに揺れる。窓の外では、帝都の夕暮れが石壁を青く沈めつつあった。
やがて、アレクシスはごく低く息を吐いた。
「見事だ――――」
短い一言だった。だが、その声音には、もはや相手を試す側の余裕はない。
そこに書かれていたのは、完成された帝国法学の語彙をなぞる優等生的な答案ではなかった。
当事者同士の偽りは、あくまで当事者同士の間では偽りのままであること。けれど、自ら本物らしい外見を作り、その見かけを信じて動いた者が現れた後になって、「最初から無効だった」と言って、何も知らなかった者にだけ損失を負わせることは許されないこと。
嘘そのものを真実へ変えるのではなく、嘘を真実のように見せた側へ、その外見を作った責任を負わせること。
用語を借りているのではない。その制度が何を守ろうとしているのかへ、自力で辿り着いている。だが、法理を見抜く才だけで人は測れない。帝国で価値を持つのは、書物の上の才ではなく、家保ち、官を用い、人を従わせ、失敗の責めを引き受ける実量である。
アレクシスは、便箋の最後の行へもう一度目を落とした。
『これは、暗記した学説の提示ではない。虚偽を制度として抱えた王宮の中で生き、と本心が食い違う現実を実際に見てきた者でなければ出てこない論理だ』
つまり、あの白金の王女は、ただ賢いのではない。腐敗した人治のただ中で、まだ名づけられていない法理へ自らの手を伸ばしているのだ。
アレクシスの唇が、わずかに吊り上がった。
「これはもう、『迎え入れて終わる王女』ではないな――――」
独り言に近かった。
それでも次の瞬間には、彼の中で結論は出ていた。
価値がある。
ならば、見に行く。
書簡の往復だけで測り終えるには惜しい。あの知性が、ローゼンタリア王立学園という閉じた場で、何を見て、誰を用い、何を変えようとしているのか。直接確かめる必要がある。法の問いに答える才に留まるのか。それとも、法を用いて人と制度を動かせる者なのか。その差を、紙面だけで見誤るわけにはいかなかった。
右端に置かれていた呼鈴を鳴らした。侍従がすぐに入室し、膝を折る。
「陛下へ上奏の用意を。今すぐだ」
「今すぐ、でございますか」
「今すぐだ」
問い返しはそれで終わった。
ファブリス帝国において、決断の遅れは無能の証左である。何を見たか、何を価値と判断したかが定まったなら、次に必要なのは行動だけだった。
アレクシスは立ち上がる。返書を懐へ収め、その足で皇帝の執務宮へ向かった。
◇
帝国皇帝の執務室は、第二皇子宮以上に無駄がなかった。
広い。重い。だが、飾りは少ない。中央の巨大な机の背後には、帝国全土と周辺諸国の地図が壁一面に広げられている。帝国皇帝は、そこから一歩も動かずに国境と軍路を把握する男だった。
皇帝は書類から目を上げると、入室してきたアレクシスを一瞥した。
「急だな」
アレクシスは一礼し、無駄な前置きを一切挟まず告げた。
「ローゼンタリア王立学園への留学許可を願います」
室内の空気が一変する。側近たちの視線が一斉に集まった。だが、アレクシスは動じない。
「理由を述べよ」
「三つあります」
淀みない即答だった。
「第一に、リーゼロッテ王女個人の知性を、もはや文面だけで測る段階は終わったと判断したためです。あの王女は、帝国の内へ取り込むだけの対象ではなく、近くで観察し、必要なら競り合うべき相手です。ただし、現時点で認めているのは、法理を掴む知性です。人を選び、組織を動かし、失敗の責めを引き受ける実量までは、まだ確認できておりません。」
皇帝の眉が、わずかに動く。帝国において「競り合うべき相手」という語は決して軽くない。まして、才の評価に厳しい第二皇子が、他国の同年代の王女へそれを認めることはなおさらである。
「第二に、ローゼンタリア王立学園は、もはや単なる学び舎ではありません。次代の統治思想を育てる実験場へ変質しつつある。表向きは第一王子グラクトの威光、実際には第一王子の名だけでは説明できない意図が規則と運営に反映されています。今のうちに帝国の目と耳を送り込む価値は大きい」
「別の手、とは」
「それを判断するために見にいくのです」
短く、断定的だった。
皇帝はそこで初めて、完全に執務の手を止めた。
ルナリア死後のローゼンタリア王宮の軋み。学園で進みつつある奇妙な規則主義。帝国使節団が高く評価した第一王女の実務能力。個々の情報はある。だが、それらを一つの判断へまとめ、「王家の内部で、王の言葉だけに依らない統治理念が育っている」とまで言い切るには、なお論理が飛躍している。
アレクシスは、その飛躍を恐れなかった。
「第三に、相互拘束としても価値があります。帝国第二皇子が学園へ入るなら、ローゼンタリアは我が身柄に配慮せざるを得ない。表向きは友好と学術交流、実際には互いの行動を縛る外交措置です。帝国にとって不利益はありません」
皇帝は、しばし黙って息子を見つめていた。
それは感情の沈黙ではない。帝室の利益を量るための沈黙だった。この提案が帝国と帝室にとって投資に値するかを、純粋な効率で量っている。
「お前個人の興味は、どこにある」
ようやく落ちた問いは、静かで鋭かった。
「知性です」
「婚姻の相手としてではなくか」
「それを否定するほど愚かではありません。ですが、順序が逆です。婚姻の価値があるかどうかも、まず才と実量を見てから判断すべきです」
皇帝の口元に、かすかな笑みが刻まれた。
嘲りではない。少なくとも、気分ではなく理由を並べて来たことに対する為政者としての評価はあった。
「よかろう。許可する。ただし遊学ではない。帝国の皇子として行け。帝国の目として見ろ。向こうで帝国の威信を損なうなら、即座に呼び戻す」
「御意に」
返答は一息だった。
その速さに、側近の一人が思わず顔を上げる。
まだ外務府との調整も、受け入れ条件の詰めも、ローゼンタリアへの正式打診も残っている。普通なら、ここから数日、あるいは数週はかかる話だ。
だが、帝国は違った。
皇帝はすでに次の命令を下していた。
「外務府へ伝えよ。本日中に草案を起こせ。友好と学術交流の名目で打診する。相手に『拒む口実を与えぬ形』で出せ。学園内規則には従うが、帝国皇子としての身分保障と随員数は最低限確保する」
決まった以上、話は終わりである。
ファブリス帝国においては、価値を見抜いた者が、その日のうちに国家機構を動かす。そこに感傷も逡巡も挟まない。
アレクシスは一礼して退出した。
扉が閉まる頃には、すでに次の段取りを頭の中で組み終えている。留学許可。警護人数。学園側規則の確認。王都で接触すべき相手。観察すべき対象。
リーゼロッテ。
グラクト。
そして、その奥で学園の規則と運営を変えつつある者。リーゼロッテ自身がその中心なのか、それとも、彼女の背後に別の実務者がいるのか。あるいは、王女自身が人を用い、制度を動かし始めているのか。
彼の歩みに、一切の迷いはなかった。
◇
それからの帝国の動きは、驚異的なまでに速かった。
同日中に外務府の草案が起こされ、翌朝には皇帝裁可を経て、ローゼンタリア王宮へ正式な打診が発たれる。内容は穏当だ。帝国第二皇子アレクシスが、両国友好の深化と学術交流のため、王立学園への留学を希望する――――そのように外交文書として整えられていた。
王宮の外務担当と王妃宮は、当然に対応を迫られた。
強国の第二皇子を、若者の学び舎へ迎え入れる。表向きは大きな名誉であり、帝国との友好を誇示できる外交的勝利でもある。加えて、その身柄が王都にあるという事実は、見方によっては実質的な人質を王都に迎えることでもあった。
ゆえに、結論は早かった。王国はこれを受諾する。
王宮で処理に当たる者たちの多くは、これを外交の延長としてしか見ていない。帝国皇子が学園へ来るのも、王女との文通が進んだ結果にすぎないと受け止め、せいぜい次代同士の関係を円滑にする程度のもの――――その程度にしか考えていなかった。
だが実際には違う。
これは、帝国の皇統と実力主義が、王立学園へ直接介入するという明確な介入表明であった。しかもただの見学者としてではない。価値を見抜き、必要とあれば国家機構ごと動かす、冷徹な実力主義の帝国の皇子として。
◇
その報がリーゼのもとへ届いたのは、数日後の夕刻だった。
離宮の机上へ置かれた正式文書を読み終え、リーゼはしばらく動かなかった。
「早いですわね――――」
感嘆というより、確認に近い声だった。
驚きはある。だが、理解の外ではない。
書簡だけでは足りぬと判断した。ならば、直接学園へ入ってくる。しかも、一度価値を認めた対象に対して、迷わず国家を動かす。実に帝国らしい。
ルリカが後ろから文書を確かめ、静かに問うた。
「どうなさいますか」
リーゼは文書を閉じた。
金の瞳の奥で、静かで確固たる光が定まる。
「来年度の入学が、ただの年齢相応の通過儀礼では済まなくなりましたわね――――」
それは確認であり、同時に決意でもあった。
第一王女リーゼロッテが十五歳で王立学園へ入ること自体は、もともと決まっている。だがこれまでは、王都の裏を握り、本宮の流れを読み、必要な時だけ学園へ必要な指示と情報を届かせれば足りると考えていた。
その間も、彼女は王宮から目を離していたわけではない。セシリアとは継続して顔を合わせている。言葉を交わすたび、怯えだけで動けなかった令嬢が、第一側妃の前で自分を保つ術を覚え始めていることを、リーゼは確かめていた。
だが、自分が学園へ入れば、その直接の面談を同じ形では続けられない。だからこそ、王都の裏と本宮の監視は、ルリカへ預ける必要があった。
しかし、次年度、帝国第二皇子アレクシスが直接王立学園へ入ってくれば、もはや学園だけの問題ではない。王家、家職貴族、軍部、離宮、そして帝国が、同じ学園の中で互いを観察し、牽制し、取り込もうとする関係になる。
「わたくしは入学します。けれど今度は、ただ王女として席に着くのではありません。責任を負う者として、最初から正面へ立つことになりますわ」
そして、視線をルリカへ向ける。
「王都の裏は、お姉様に託します。セシリア様との面談も、春以降はお姉様を通して整えてくださいませ。わたくしが表へ出る以上、あの方に選べる余地を残す役目は、お姉様に担っていただかねばなりません」
「承知しております。これまでお会いして確かめたことは、こちらで引き継ぎます。セシリア様がご自身の言葉を失わぬよう、私が支えます」
「お姉様が抱えている実務の一部は、春休みに戻るカイル様へ任せればよろしいでしょう。あの方なら、表の警備と裏の伝令を、混同せずに扱えます」
ルリカは黙って頷いた。
その横顔に、静かな誇りが宿る。白金の髪を揺らし、まっすぐ前を見るその姿に、かつて離宮の奥で震えていた幼い少女の面影はもうない。そこにいるのは、ルナリアの遺した思想を抱え、ついに表舞台へ上がることを決めた王女だった。その決意は、名誉を得るためではない。自分が動けば、誰に危険が及び、誰が責任を引き受けるのかを理解した上での決断だった。
窓の外では、春の夕暮れが王都を静かに染めている。
だがその柔らかな色の下で、学園をめぐる争いは、すでに王国の内側だけでは収まらなくなっていた。
次年度の学園は、もはや単なる学び舎ではない。
王家、家職貴族、軍部、離宮、帝国。そのすべてが、同じ学園へ目を向けることになる。そしてリーゼロッテは、見られる者としても、見返す者としても、学園へ立つ。