リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第2話『無答の王宮2』

2 ヒルデガードとの対話

 

 第一側妃ヒルデガードの宮は、以前と変わらず、どこまでも整っていた。

 

 花は季節を外さず、香は強すぎず、侍女たちの立つ位置にも無駄がない。衰えた家は、こういうところから先に綻ぶ。だが、この宮にはそれがなかった。失ったものを失った顔のままにはしておかない。その意地そのものが、なおこの女の力なのだろうと、グラクトは思った。

 

 通された応接間も同じだった。華やかではない。だが、王家の生母たる者の品位を一歩たりとも下げぬという意思だけは、調度の隅々にまで行き渡っている。

 

 やがてヒルデガードが現れた。

 

 扇を手に、静かな微笑を浮かべている。柔らかく見えるが、柔らかいだけの女ではない。感情も計算も矜持も、すべて同じ布で包んで差し出せる種類の統治者だった。

 

「学園からお戻りになって早々、母のところへいらっしゃるとは思いませんでしたわ」

 

 扇の陰で、ヒルデガードは柔らかく目を細めた。歓迎の形は整っている。だが、その視線は、息子の歩幅と沈黙の長さまで測っているようだった。

 

 グラクトは儀礼どおりに挨拶を済ませ、正面へ座った。ここで母子の情へ流されれば、聞くべきことはたちまち別の言葉で覆われる。問いたいのは感傷ではなく、王宮で誰が何を動かしているのか、その輪郭だった。

 

「母上に、お聞きしたいことがございます」

 

「珍しいこと。学園でずいぶんお立ちになったと伺っておりますのに、まだ人へ問うことがおありなのですね」

 

 扇の先が、ほんの少しだけ持ち上がった。褒めているようで、問う側を一段低く置く仕草だと見て取りながら、グラクトはその誘いには乗らず、静かに返した。

 

「自分で決めるために、お聞きしたいのです」

 

 扇が、ほんの僅かに止まった。母は今、息子を以前と同じ位置に置けるかどうかを測り直し、それを隠すように何事もなかった風を戻してから、問いを促した。

 

「では、何をお聞きになりたいのかしら」

 

 グラクトは、昨夜自室で整理した問いを、そのまま机上へ置いた。

 

「いま確かめたいのは、なお第一王子である私を中心に、誰がどこまで影響力を持っているのかという問題なのか。それとも、第三王子殿下がお生まれになったことで、第一王子と第三王子のどちらを次の神輿として担ぐのかという段階へ移ったのか、ということです」

 

 すぐに答えは返らなかった。扇の骨に添えた指を一本ずつ静かにそろえ、問いの粗さではなく、その問いを息子が口にしたこと自体を吟味してから、彼女はまず王宮らしい正しさを置いた。

 

「第三王子殿下のお生まれになったこと自体は、慶事ですわ」

 

 前置きとしては、いかにも王宮らしい正しさだった。だが、それだけで終わらぬことも、グラクトには分かった。

 

「ですが、だからといって、王家の重心が直ちに動くわけではありません。乳飲み子は乳飲み子です。今すぐ継承の中心へ据えられるものではございません」

 

 そこまでは、グラクトにも理解できる。ソルディそのものが、直ちに現実の争点になるとは彼も思っていない。問題は、その先だった。

 

「では、母上が案じておられるのは、何ですか」

 

 そこで初めて、微笑の輪郭がわずかに薄くなった。扇は動いている。だが、先ほどより少し遅い風で間を整えてから、母は答えを選んだ。

 

「慶事の光が、第三側妃の宮だけを必要以上に照らしていることですわ。新たに王子の生母となった。それだけでも重い位置です。そこへ、なお第一王子殿下にも近いように見える。そうなれば、周囲は第三側妃の宮の言葉が、第一王子殿下にも新王子殿下にも届くように読みます」

 

 そこで、扇が音もなく閉じられた。柔らかな風を送る仕草をやめ、言葉の輪郭だけを応接間に残してから、母は核心をさらに奥へ包み直した。

 

「それでは、第一側妃の宮が王家の中心から外れたように見えてしまいます。まして、殿下のお傍に上がる名ひとつにも、王宮は意味を読みます。母が知らぬところで殿下の色が定まったように見えれば、それだけで余計な声を招きましょう。問題なのは第三王子殿下そのものではありません。第一王子殿下に対する影響力が、第三側妃の宮へ傾いたように見えることです。その見え方が固定されれば、王宮の均衡は崩れます」

 

 そこまで聞いて、ようやく母の言葉の奥にある形が見えた。

 

 つまり今争われているのは、第三王子への影響力ではない。あくまで第一王子への影響力である。第三王子の誕生は、それ自体が主戦場なのではなく、第三側妃派を大きく見せる材料として働いているに過ぎない。

 

「では、母上は私にどうあれとお考えなのですか」

 

 問いを受けて、母の視線が扇の陰からまっすぐに上がった。今度は濁さない、というより、濁したまま押し切る目で息子を見据え、第一王子の名を前へ出した。

 

「品位に沿ってお立ちなさい。王家の御身は、御身おひとつのものではございません。お傍に置く名も、歩み寄る宮も、すべて第一王子殿下の色として見られます。ですから、殿下のお傍に上がる名ひとつを、母が案じぬはずがございません。殿下の色を曇らせぬかどうか、母の目にも耐えるものでなければなりませんもの」

 

 短い言葉だった。だが、今度はその短さの中に、どれだけ多くの要求が畳まれているのかが分かった。

 

 母は、具体策を説明しているのではない。第一側妃派の不利を数え立てているのでもない。ただ、第一王子のあるべき姿という形で、息子の行動を縛ろうとしているのだ。

 

 グラクトが第三側妃の宮へ近づきすぎたように見えれば、それだけで均衡を欠く。第一王子が、どこか別の宮の色へ染まったように見えてはならない。第一王子が本来立つべき場所は、実母である自分の側にある。それでこそ均衡が保たれる。

 

 そして厄介なのは、その言葉があくまで第一王子の品位の顔で語られることだった。彼女は決して、母の側へ戻れとは言わない。殿下の傍に置く名は母が見定めるべきだ、とも言わない。

 

 そう言えば、露骨すぎる。だから「品位」「均衡」「王家の重心」という、誰も正面から否定しにくい言葉へ置き換える。その言い換えによって、自派の利益を王家全体の必要へ変えてしまう。それがヒルデガードの政治だった。

 

「母上は、私が第三側妃の宮へ傾いたように見えること自体を、不都合と見ておられるのですね」

 

 確認のために、一度言葉へした。母はすぐには肯定しなかった。否定もしない。ただ、閉じた扇の先で膝の上を一度だけ撫で、認めぬまま認めるための言葉を選んだ。

 

「第一王子殿下が、本来お立ちになるべきところを離れ、他の宮の庇護の影にお入りになったように見えることを、良しとはいたしませんわ。殿下には、殿下を最初に知る宮がございます。そのことを、王宮が忘れてよいはずもございません」

 

 言い換えである。だが、十分だった。母は、自分をまだ取り戻せるものと見ている。そしてその取り戻し方は、甘い情ではない。第一王子とは何か、という規範そのものを押しつけることで、自分の行動を母の側へ寄せようとしているのだ。

 

 ここで見えたのは、派閥の目的そのものではない。だが、少なくとも争点の輪郭ははっきりした。

 

『いま王宮で均衡を左右しているのは、第三王子ではない。第一王子たる私への影響力である。母は、その影響力が第三側妃派へ傾いて見えることを最も嫌っている。そしてその影響力には、私自身の身の置き方だけでなく、傍に置く者の名も含まれている。』

 

 それだけ分かれば、この面会の意味はあった。

 

 グラクトは席を立った。

 

「本日は、お時間をいただきありがとうございました」

 

 儀礼どおりに頭を下げると、母はもう微笑を元へ戻していた。先ほどまでの緊張を何事もなかったように顔の内へ収め、その柔らかさを最後の言葉へ移した。

 

「御身を整える場所を、どうかお忘れになりませぬよう」

 

 母の言葉として聞けば柔らかい。だが今の彼には、その柔らかさの中に、なお息子を自派の論理の内側へ留めようとする意志が沈んでいることが分かった。

 

 宮を出た後、グラクトはしばらく回廊の窓辺で足を止めた。

 

 いま争われているのは、第一王子への影響力である。第三王子の誕生は、その争いの主戦場を移したのではない。第三側妃派をより大きく見せる材料になっただけだ。その影響力が、自分自身の身の置き方と、傍に置く者の名にまで及ぶことも分かった。

 

『ソフィア妃は、私への近さを、いまどのような力として持っているつもりなのか』

 

 そこを聞かなければ、王宮の構図はまだ半分しか見えないと、グラクトは思った。

 

 

 

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