リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 王妃への上申
ヒルデガードの宮を出た後、グラクトはすぐには次の取次ぎを出さなかった。
ソフィア妃に会う必要があることは、もう分かっている。だが、どう会うかを誤れば、その時点で、第三側妃の宮がなお自分へ言葉を届かせ得るのかを、自分の手で歪めることになる。
回廊の窓から差し込む光は、昼を少し過ぎて白くなっていた。宮から宮へ移るには、まだ不自然な時刻ではない。だからこそ危うかった。第一側妃の宮を出た直後に第三側妃の宮へ向かえば、その順序だけで第三側妃の宮へ身を寄せたと読まれる。
ヒルデガードの言葉は、宮を出た今になって、別の重さを持って戻ってきていた。
今争われているのは、第三王子そのものではない。第三側妃の宮が、自分へなお言葉を届かせ得る位置にあることだ。
その見立ては、おそらくかなり正しい。だが、それはあくまで第一側妃の宮から見た王宮である。第三王子ソルディを産んだソフィアが、第三王子の生母という立場と、かつて自分の奉仕者であった過去を、どのような力として王宮に読ませようとしているのか。そこは、ソフィア妃本人に会わなければ分からない。
けれど、自分が第三側妃の宮を訪ねる。あるいは、第三側妃の宮から自分へ取次ぎが入る。それだけで、自分と第三側妃の宮との距離は、王宮の噂として形を持ってしまう。
誰に会い、どこへ向かい、誰を通し、どの順序で宮を訪ねるか。それらは、ただの行動ではない。王宮では、自分がどの宮の言葉を受け入れるのかを測る材料として扱われる。
これまで彼は、王子の近くに置かれる者たちが、家と派閥の都合で配置されるのだと思っていた。奉仕者も、婚約者も、側妃候補も、王家の安定という名のもとに選ばれていくのだと。
だが、配置されているのは彼女たちだけではなかった。自分自身もまた、どの宮の言葉が自分へ届くのかを測るための場所に置かれていたのである。
グラクトは回廊の柱陰で足を止め、使える経路を一つずつ考えた。
ヒルデガードに頼むことはできない。第一側妃に頼めば、ソフィア妃との接触は止められるか、第一側妃の宮の監視下に置かれる。いずれにせよ、その時点で答えは第一側妃派の色を帯びる。そもそもヒルデガードは、第三側妃の宮へ傾いて見えることを嫌っている。その第一側妃に第三側妃との席を整えてほしいと頼むことは、会う前から第一側妃の宮へ身を戻す意思表示になりかねなかった。
魔導卿も使えない。ソフィア妃の兄であり、魔導技術省を握る侯爵である。第三側妃派において、最も明確な外廷の支柱となる人物を通せば、第三側妃派が自分との接触を整えたことになる。聞きに行く相手の側へ、席を設けさせる。それは確認ではない。最初から第三側妃派の経路に乗ることだ。
クロムハルト公爵夫人ならどうかとも考えた。ヴィオラの母として普通なら、そこへ頭を下げることも考えただろう。婚約者の母を通し、必要な顔合わせを女主人同士の礼儀の内側へ収める。だが、それも今は使えなかった。クロムハルト家は公爵家であり、領地を持つ大貴族である。いま王都にいるわけでもない。
いま必要なのは、自分への取次ぎを特定の家の手柄にすることではない。誰の家にも預けず、後宮の秩序の内側で確かめることだった。
ソフィア妃に会いたいのなら、王妃に上申するしかない。王妃は、後宮全体の均衡を預かる者だからである。それは同時に、自分の動きを王妃へ明かすことでもあるが、勝手に動いて第三側妃派の経路に乗ったと読まれるよりは、王妃の許可と監視の内側へ、ソフィア妃との接触を置く方がまだよい。
王子であっても、後宮では勝手に動けない。その当然のことを、グラクトは今になって初めて、自分の問題として理解した。
◇
王妃宮への取次ぎに答える形で王妃との会談の場はすぐに設けられた。王妃宮の応接室は、ヒルデガードの宮とも、ソフィアの宮とも違う静けさを持っていた。香は淡く、花も控えめである。調度は華美ではない。それでも、そこに置かれたものの一つ一つが、後宮の中心はここであると示していた。
王妃はすでに席に着いていた。グラクトが儀礼どおりに頭を下げると、王妃はしばらくその姿を見た。怒っているのではない。だが、何をしに来たのかを先に言わせる目だった。
「ここへ来た理由を述べなさい」
その静けさに、グラクトは試されていることを理解した。
「第一側妃の宮で、第三王子殿下の御誕生によって、いま王宮の争点が移ったのか。それとも、なお私への影響力が争われているのかを」
王妃は黙って聞いていた。否定もしない。肯定もしない。その沈黙が、続きを促している。
「第一側妃の宮から見れば、第三王子殿下そのものが直ちに主戦場になっているわけではありません。問題は、第三側妃の宮が、私へもなお言葉を届かせ得る位置にあることでした」
そこまでは、第一側妃の宮から見た王宮である。グラクトは一度息を整え、次の言葉を選んだ。
「ですが、第三側妃の宮が、第三王子の生母であることと、かつて私の奉仕者であった過去を、王宮にどう読ませようとしているのか。それは、ソフィア妃に聞かなければ分かりません。けれど、私が単独で第三側妃の宮へ向かえば、その時点で、第三側妃の宮が私へ直接言葉を届かせ得るという形を、私自身が作ってしまいます」
王妃は、しばらく何も言わなかった。責めているのではない。グラクトを測っている沈黙だった。
「つまりあなたは、第三側妃の宮へ身を寄せるためではなく、第三側妃の宮の経路に乗ったと読まれることを避けるために、私のところへ来たのですね」
王妃の言葉は、問いというより裁定に近かった。グラクトは、そこでようやく頷いた。
「はい。どちらかの宮へ経路を預けたままでは、私の名がどの宮の力として使われるのかも分からないと思いました」
王妃は茶器へ指を伸ばした。飲むためではない。考えるための間だった。
「そこまで考えたのですね。けれど、考えたことと、許されることは違います。ソフィア妃に会うというなら、その席で何を得ようとしているのかを明らかにしなさい。約束か、庇護か、第三側妃の宮からの後ろ盾か。それとも、あなた自身の立場を決めるためですか」
「約束も、庇護も、後ろ盾も求めません。その場で何かを決めるつもりもありません。ただ、第三側妃の宮が、私へどこまで言葉を届かせ得るのかを確かめたいだけです」
王妃は、そこでしばらく黙った。部屋の外で、遠く侍女の足音が過ぎる。王妃はそれが消えるまで待ってから、グラクトを真正面から見た。
「第一王子が第三側妃の宮を訪ねることは許しません。第三側妃の宮からあなたへ取次ぎを入れることも、私的な面会として扱うことも許しません」
王妃は茶器から指を離し、ほんのわずかに目を伏せた。次に顔を上げた時には、いつもの静かな王妃の顔に戻っていた。
「ただし、あなたが何も知らぬまま宮々の言葉に運ばれることも、私は許しません。自分が担がれていると気づいたのなら、あなたの名がどの宮のために使われているのかを見なさい。ただし、あなた一人の足で見に行くのではありません。後宮のことは、後宮の秩序の内で見なさい」
グラクトが顔を上げると、王妃はそこで淡々と場を定めた。
「ソフィア妃には、第三王子の近況を報告させます。王妃である私が、新王子の生母から報告を受ける。それは後宮の務めです。あなたは、学園から戻った王子として、私への挨拶を終えた後、その席に同席しなさい。これはソフィア妃との面会ではありません。私の席で、第三側妃の宮があなたに対してどの距離で言葉を選ぶかを確かめる席です。それ以上の意味を、この席に持たせてはなりません」
グラクトはそこで、また一つ理解した。王妃の席で聞くということは、自由な面会を許されたという意味ではない。
それでも、第一側妃の宮から見た王宮だけでは足りない。第三側妃の宮が、王妃の前でどの言葉を選ぶのかを見なければ、まだ自分への影響力の所在は見えない。
グラクトは、退出の礼を済ませた。
扉の外へ出た時、王宮の空気は先ほどよりも少し重く感じられた。けれど、その重さの正体を、今の彼は少しだけ言葉にできる。
動けぬことより、動けると思い込んだまま誰かの経路に乗ることの方が危うい。
ソフィアに会う場は整った。ただしそれは、第三側妃の宮へ近づく道ではない。王妃の許可と監視の内側で、第三側妃の宮が自分へどこまで言葉を届かせ得るのかを測るための席だった。