リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 ソフィア妃との対話
王妃が設けた席は、私的な面会ではなかった。
王妃宮の一室には、老女官と侍女が控え、茶器の音さえ慎ましく抑えられていた。表向きは、王妃が第三王子ソルディの近況を生母であるソフィア妃から聞くための、後宮の務めとして自然な席である。そこへ、学園から戻ったグラクトが、王妃への挨拶を終えた第一王子として同席していた。
王妃は席の中心にいながら、ほとんど口を挟まなかった。ただ、茶器へ指を添えたまま、ソフィア妃の声の高さと、グラクトが問いを置くまでの間を静かに見ている。私的な約束も、後ろ盾を求める言葉も、この場では許されない。
ソフィア妃は、以前と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべていた。
華美ではないが、弱くもない。王の側妃としての位置と、新たな王子の生母としての重みを無理なく一つの姿へ収めている。ヒルデガードのように張り詰めた統御ではない。もっと自然な所作で、それでいて決して側妃としての立場を外さない女だった。
「学園でのご活躍、よく伺っておりますわ。春休みに入っても、ゆっくりお休みにはならなかったのでしょう」
ソフィア妃は茶器へ視線を落としながら、王妃の前でも過不足のない声でそう言った。言い終えると、ソフィア妃は茶器の縁へ指を添え、すぐには顔を上げなかった。労いの言葉は柔らかい。だが、その柔らかさは、かつての奉仕者としての親しさを、王妃の前で出しすぎぬよう抑えたものでもあった。
「休むべきだったのかもしれません。ただ、戻ってみると、王宮の方がよほど気の休まらぬ場所に思えました。皆、言葉を慎重に選びますが、慎重であるがゆえに、何が争われているのかがかえって見えにくくなる。誰がどこまで私へ影響力を持つのかも表へは出てきません。ただ、それでも皆が私を見ていることだけは分かるのです」
グラクトは挨拶の流れを崩さずに返した。正面から本題へ入るには、まだ早い。だが、そのまま穏当な挨拶で終えるつもりもなかった。
ソフィア妃は茶器の縁に添えた指を止めた。笑みは崩れない。ただ、その目だけが、問いの向かう先を測っていた。
「第一王子殿下でいらっしゃる以上、皆さまが殿下を見ているのは当然ではございませんか。王宮は、いつでもお立場ある方のお言葉を慎重に受け止めるものですわ」
ソフィア妃は、第一王子なら見られて当然だという一般論へ問いを逃がした。だが、グラクトが聞きたいのは、王子一般の話ではない。第三側妃の宮が、彼自身へどこまで影響力を持つつもりなのかだった。
王妃は何も言わなかった。老女官たちも顔色一つ変えない。けれど、王妃の前で第三側妃の宮の影響力を問えば、新王子の近況を聞くためだけの茶席では済まない。グラクトがどこまで第三側妃の宮の影響力を言葉にするかを、室内にいる全員が見ている。
「私が王子である以上、見られるのは分かります。ですが、私が知りたいのはその先です。第三側妃の宮は、今の私をどう見ておられるのですか。第三王子殿下の生母となった宮として、なお私へどこまで影響力を持つとお考えなのかを伺いたいのです」
静かな室内でのその問いは、第三側妃の宮が自分へ持つ影響力を、王妃の前で問うものだった。それでもソフィア妃は、まぶた一つ乱さなかった。問いを受けること自体にためらいを見せぬまま、まず、誰にも咎められない答えを置いた。
「殿下は殿下ですわ。第一王子として、王家の重みを担われるお方。そのことに変わりはございません。第三王子殿下がお生まれになったことも、わたくしが王の側妃であることも、その事実を動かすものではございません」
ソフィア妃は、第三王子の誕生は第一王子の地位を動かさない、という誰も否定できない制度上の答えだけを置いた。だが、それはどの宮の誰でも言える。第三側妃の宮が、グラクト自身へどこまで影響力を持つつもりなのかは、まだ答えていない。
「それは、どの宮の誰から見ても言えることです。私は王家の一般論を伺っているのではありません。第三側妃の宮が、私への影響力を、政治的にどのように保とうとしているのかを知りたいのです」
そこで初めて、ソフィア妃の笑みにわずかな揺れが混じった。真正面から受ければ、自分への影響力を認めることになりかねない問いを、軽さの中へ逃がすようにして、彼女は目元だけを和らげた。
「学園で、ずいぶんとお言葉をお覚えになりましたのね。けれど、望むというほど強いことではございませんわ。ただ、王宮があまり騒がしくならぬのが一番よろしいとは思っております」
誰の反発も招かない言い方だった。柔らかく、誰も責めず、しかも第三側妃の宮の意図を明かしていない。
だが、そこで終われば第三側妃の宮が自分への影響力をどう見せたいのかは分からない。騒がしくならぬ、という言い方は、争いを避ける言葉に見える。けれどその内側には、自分への影響力をどの宮にも確定させないという判断が隠れているはずだった。
「王宮が騒がしくならぬことを望まれるのなら、それは、私がどこか一つの宮へ寄ったように見えることを避けるべきだ、という意味でしょうか。それとも、第三側妃の宮の影響をことさらに退けて見せる必要もない、という意味でしょうか」
グラクトがそう重ねても、ソフィア妃は急がなかった。茶器の位置をわずかに直し、ただ後宮の平穏を語っているだけだという顔を保ったまま続ける。
「殿下が、今さらご自分のお立場を見失われる必要はない、ということですわ。どこかへ慌てて寄る必要も、誰かの影響を退けてみせる必要もございません。殿下は殿下のままでお立ちになればよろしい。それで十分にございます」
命令ではない。拘束でもない。むしろ、好きにしてよいと包むような口ぶりだった。
だが、その柔らかさの内側で、ソフィア妃は自分への影響力を手放していない。
こちらへ来いとは言わない。戻れとも言わない。縛りもしない。ただ、そのままでよいと言う。その言い方によって、自分がなお第三側妃の宮と言葉を交わせる距離にいる、第三側妃の宮の影響が退けられたわけではない、必要なら影響を及ぼし得るという見え方だけを残しているのだ。
それで足りるのだろう。
第三側妃派にとって必要なのは、自分を完全に抱え込んだと宣言することではない。そんなことをすれば、かえって他派の反発を招く。そうではなく、自分がなお自分たちにとって閉ざされていないと、周囲に思わせておくことだった。第三側妃の宮の影響がまだ残っているという見え方だけで、今の王宮では十分な力になる。
「では、第三側妃の宮は、私がどこにも寄らぬままでいることを望んでおられるのですね。近づけるのではなく、遠ざけるのでもなく、ただ誰の影響を受けているのかを明らかにしないままにしておく。それが、今の王宮にとってどの宮が私を得たとも、失ったとも読ませない状態だと」
ソフィア妃は微笑んだまま、答えの言い方だけを少しずらすように首を傾げた。
「望む、というほどでもございませんわ。殿下は殿下のお立場で、過不足なくお立ちになればよろしいだけです」
同じであること自体に意味がある。彼女は、こちらへ来いとは言わない。だが、離れろとも言わない。第三側妃の宮の影響がまだ残っているように見せること、それ自体がこの女の戦い方なのだ。
ヒルデガードが品位という規範で戻そうとしたのに対し、ソフィア妃はそのままでよいという言葉で、誰の影響を受けているのかを明らかにさせない。前者は自分のあるべき姿を押しつける。後者は、第三側妃の宮の影響が失われたとは読ませない。やり方は違うが、どちらも、グラクト自身の意思より先に、彼への影響力を自派のものとして読ませようとしている。
グラクトは、そこで問いを止めた。
これ以上ここで言葉にしても、ソフィア妃は決して肯定しないだろう。彼女は、正面から自分への影響力が残っているように見せたいという意図を認める必要のない位置にいる。認めずとも、そう読ませるだけで足りる。だから強いのだ。
王妃はなお何も言わなかった。だが、その沈黙は放任ではない。グラクトが何を読み、ソフィア妃がどこまで後宮の平穏として包み、どこから先の自派の意図を明かさぬか、そのすべてを見届けている顔だった。
やがて茶の席は、表向き何事もなかったかのように終わった。
席を立つ時、ソフィア妃は茶器から手を離し、見送りの言葉に聞こえる柔らかさで最後に告げた。
「殿下は、急いでご自分をお決めになる必要はございませんわ。王宮には、急がせたがる方が多うございますけれど」
それもまた、第三側妃の宮の影響が失われたとは読ませないための言葉だった。どこへも急いで寄るな。そのままでいろ。第三側妃の宮の影響を退けたと見せなくてよい。
席を辞し、回廊へ出た時、グラクトはようやく一つのことを確信した。
いま王宮で争われているのは、やはり自分への影響力である。
母上は、その影響力が第三側妃派へ寄って見えることを嫌い品位で引き戻そうとし、ソフィア妃は過去の関係を政治的な影響として残そうとする。やり方は違っても、見ている対象は同じだった。
第三王子は、今の主戦場ではない。その誕生は第三側妃派を大きく見せる材料にはなっている。だが、現実に各派が奪い合っているのは、なお自分への影響力である。
では、その影響力は実際にどこに、どの程度残っているのか。王宮実務の側から見れば、どう読まれているのか。そこまで行って初めて、次に向かうべきは高官たちだと、グラクトにははっきり見えた。