リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 品位を売る取引(宰相との対決)
王宮の宰相執務室は、夜の帳が下りてもなお、ランプの明かりと重苦しい沈黙に包まれていた。
羊皮紙の山に埋もれるようにしてペンを走らせていた内務卿兼宰相ヴァルメイユ侯爵は、扉を荒々しく叩く音に眉をひそめた。侍従が困惑した顔で告げた来客の名は、この時間帯にはあまりに不釣り合いなものだった。
「離宮のリュート殿下の使い……? 夜更けに子供の使いか。明日出直すよう伝えろ」
「それが……既に第二王子殿下ご自身が到着しており、『王国の危機管理について緊急の進言がある』と、退こうとされず……」
ヴァルメイユが鼻を鳴らす間もなく、侍従の背後から澄んだ少年の声が響いた。
「手続きを待つ時間は、母の命を奪うことになります。閣下のご判断で、今ここでお目通りを」
リュートは侍従の制止を静かに、しかし確かな歩みでかわし、執務室へと足を踏み入れた。
十歳の少年。その体躯は小さい。だが、ランプの光に照らされた赤い瞳には、懇願の色など微塵もなかった。そこにあったのは、盤面を見据える棋士のような、冷徹な理性の光だった。
ヴァルメイユはペンを置き、老獪な政治家の目で少年を値踏みした。
「……第二王子殿下。夜分にアポイントメントもなく押し入るとは、王族としての品位に欠ける振る舞いですな。緊急の進言とは?」
リュートは優雅に一礼し、顔を上げた。
「単刀直入に申し上げます。現在、母ルナリアが黒熱病で重篤な状態にあります。王宮薬局には特効薬の在庫がありますが、正規の手続きを踏めば、許可が下りる頃には手遅れになるでしょう」
ヴァルメイユは冷淡に答えた。
「ふむ。それはお気の毒だが、王宮の備蓄は国王陛下の所有物。内務卿の決裁印もなく持ち出すことはできん。規則は規則だ。例外を認めれば規律が崩れる」
「規則……おっしゃる通りです。しかし閣下」
リュートは一歩も引かず、静かに、しかし鋭く切り込んだ。
「もし、規則を守った結果、ルナリア妃が今夜死亡したら――帝国はどう解釈するでしょうか?」
ヴァルメイユの指がピクリと動いた。
リュートは畳み掛ける。情に訴えるのではなく、宰相が最も恐れる「国益」の急所を突く。
「先日のリーゼロッテの縁談の一件で、帝国皇帝がルナリア妃の動向を注視しているのはご存知のはず。その愛娘が、王宮に薬があるにも関わらず、煩雑な手続きのせいで治療を受けられずに死んだ。……これは『不運な病死』として処理されるでしょうか?」
「……何が言いたい」
「帝国は実力主義ですが、同時に面子を重んじます。自国の高貴な血筋が、王国の怠慢によって見殺しにされたとなれば、彼らはこう解釈するでしょう。『王国は帝国を軽視し、未必の故意をもって公爵令嬢を排除した』と」
リュートは一歩前に進み、宰相の目を射抜いた。
「薬一本のコストと、帝国との外交摩擦のリスク。どちらを守ることが、真に『王国の品位』に適うか。……聡明な閣下なら、即座にご判断いただけるはずです」
部屋の空気が凍りついた。
命乞いではない。これは「脅迫」ですらない。「リスク管理」の提案だ。
「特効薬を渡さない」という選択肢が、「王国の品位を損なう失態」になるよう、論理の枠組みをすり替えたのだ。
ヴァルメイユは長い沈黙の後、深く息を吐き出した。
目の前の少年は、自分の感情を一切交えず、ただ天秤の傾きだけを提示している。
『……末恐ろしい。十歳にして、ここまで冷徹に損得を計算できるとは』
宰相は引き出しから鍵を取り出し、無造作に机の上に投げた。
「……手続きは後でよい。私の名で特効薬を出させる。すぐに持って行け」
「賢明なご判断、感謝いたします」
リュートは深く、完璧なカーテシーで一礼した。
「閣下の迅速な英断により、王国の品位は守られました。……このご恩は、決して忘れません」
リュートは薬瓶への引換証を受け取り、足早に退室した。
その背中には、宰相に「恩を売らせてやった」という事実だけが残されていた。