リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 第一側妃の駒
第一側妃宮の奥深く、外の陽光すら厚い絨毯と重厚な布地に遮られた一室で、第一側妃ヒルデガードは、自らの足元に傅く少女を冷酷な満足と共に見下ろしていた。
「――よって、側妃たる者は自らの意思を先に出すことを禁じられます。殿下の御心に従い、ただ御家と王家の融和の証としてのみ、その身を捧げねばなりません。お分かりですね、セシリア様」
氷のように冷たく厳しい声で教えを諭す老女官の前に正座させられているセシリア・ミント・ヴァルメイユは、血の気の失せた白い顔のまま、虚ろな瞳でゆっくりと首を縦に振った。
「……はい。すべては、第一側妃様の御心のままに」
声に抑揚はない。極限の恐怖と絶望に擦り切れ、自ら考えることを完全に放棄した哀れな人形の響きだった。この数週間、外界との接触を一切絶たれ、不義の証拠という家の破滅を突きつけられ続けた深窓の令嬢は、ついにその自我を完全に砕かれた。
それが、第一側妃宮の誰もが疑わない、現在のセシリアの姿であった。
「よろしい。今日はそこまでになさい」
ヒルデガードが静かに声をかけると、老女官は深く一礼して退室し、セシリアもまた、糸の切れた人形のように力なくその場へ平伏した。ヒルデガードは、自らの意思を失った宰相令嬢を見つめながら、胸の内で冷ややかな陶酔と、それを上回る黒い焦燥を燻らせていた。
(まったく、手のかからない娘だこと。これほど容易く自我を手放すとは。だが、これで宰相家は、完全に私の手の中におさまった)
数日前、王宮を揺るがす裁定が下された。謹慎中であった実兄、ゼノビア侯爵の限定的な復帰である。本来であれば、実家である近衛騎士団長家の復権は、第一側妃派にとって最大の慶事となるはずだった。だが、現実は違った。ゼノビア侯爵は、第一側妃派としての色を完全に消し去り、「第一王子グラクト個人の判断によって起用された、王都治安のための独立した武門」として宮廷に戻ってきたのだ。
兄は、妹である自分に事前の相談すらなく、第一王子の論理に与した。それは事実上、ゼノビア侯爵家という最大の後ろ楯が、第一側妃派の統制から完全に離脱したことを意味していた。
(愚かな兄だ。私が築き上げてきた第一側妃派の威光を捨てて、第一王子個人の忠臣を気取るなどと。武門の直線的な誇りなど、宮廷の政治では何の役にも立たないというのに)
ゼノビア侯爵という王宮との伝手を完全に失った今、第一側妃派の力は見た目にも、大きく削がれている。第三側妃ソフィアの宮が魔導卿という王宮への伝手をもち、第一王子と第三王子の双方に影響力を持っているように見え始めている現状で、このまま手をこまねいていれば、やがて第一側妃の宮は王家の中心から完全に弾き出され、王宮の片隅へ追いやられる。
だからこそ、宰相家を確実に取り込む必要があった。そして、セシリアが完全に屈服し、最高級の「駒」に仕上がった今、ヒルデガードにとっての次の一手は、この密室の成果を王宮の内外で「決定的な既成事実」へと昇華させる「仕上げ」の工程だった。
ヒルデガードは、傍らに控えていた腹心の侍女に視線を向けた。
「劇団の座長へ伝えなさい。『第3作目』の台本を許可する、と。明日にでも、王都最大の劇場で初演を打たせなさい」
「承知いたしました。……いよいよ、王妃様を舞台へ上げられるのですね」
「ええ。ゼノビアの影響力が使えない以上、大衆の熱狂という波を使って、王宮の空気を強引に動かすしかないわ」
ヒルデガードの唇に、残酷な笑みが浮かんだ。
大衆の熱狂を煽ってきた連作純愛劇。その第3作目で描かれるのは、「王妃の試練」である。
身分差を乗り越えて愛し合う王子と令嬢の前に、王宮の絶対的な権力者である『王妃』が立ちはだかり、厳格な試練を与える。令嬢はひたむきな愛と献身でそれに耐え抜き、最後には王妃自身が二人の真実の愛に心を打たれ、公に認めるという筋書きだ。
これは単なる劇ではない。現在、本宮の頂点に君臨する王妃マルガレーテに対する、極めて悪辣な政治的な圧力だった。もし現実の王妃がセシリアの第一王子側妃入りを拒めば、大衆の目には「真実の愛を引き裂く残酷な王妃」として映る。
逆に認めれば、「真実の愛を認めた慈悲深き王妃」として称賛される。大衆の感情と世論の圧力を盾に取り、王家の品位を守る立場にある王妃の決定権を「承認」の方向へ強引に縛り付ける算段だ。
「そして……劇の発表と同時に、宰相閣下をここへお招きしなさい」
ヒルデガードは扇を閉じ、静かに命じた。
「愛娘がこれほどまでに第一王子の側妃となることを望み、大衆もそれを祝福し、王妃様すらも認めざるを得ない世論のうねりができている。父親として、娘の幸せを阻む『アイゼンガルト家との婚約』など、早々に白紙に戻していただかなくてはね」
セシリアが完全に自分の意のままになったと確信した以上、もはや牽制は不要だ。宰相を呼び出し、完全に心が折れた娘の姿を見せつけ、その上で不義の証拠を突きつける。
世論の後押しという名目と、家の破滅という脅迫の板挟みに遭えば、どれほど冷静な宰相であろうと、婚約破棄を申し出るしかない。
ヒルデガードは、自らの足元でうずくまるセシリアを見下ろした。
この令嬢の瞳の奥に、極寒の理知が隠されていることなど、彼女は微塵も疑っていなかった。
◇
同じ夜。本宮から離れた旧書庫の暗闇に、冷たい秋の夜風が吹き込んでいた。
第一側妃宮の私室の窓辺に「赤いリボン」が結ばれてから数時間後。分厚い外套に身を包んだセシリアは、ルリカの精緻な手引きによって厳重な監視の目を抜け、再び第一王女リーゼロッテの待つ密室へと足を踏み入れていた。
「……随分と、やつれた顔を作れるようになりましたこと」
魔導具の淡い灯りの中、机に用意された温かい紅茶を勧めながら、リーゼロッテが微かに口角を上げる。
その声を聞いた瞬間、セシリアの顔から、第一側妃宮で一日中貼り付けていた「心折れた虚ろな令嬢」の仮面が音を立てて剥がれ落ちた。血の気のなかった頬に微かな朱が戻り、虚ろだった瞳に、鋭く強い理知の光が宿る。だが、その瞳には明確な焦燥の色が濃く滲んでいた。
「お気遣い感謝いたします、リーゼロッテ様。……お言葉の通り、私は第一側妃様を騙し切りました。あの御方は、私が絶望し、精神支配に完全に屈したと確信しておいでです」
セシリアの報告は、自らの成果を誇るものではなかった。むしろ、その逆である。極限の密室で正気を保ち、言動のすべてを支配者に合わせた結果生じた、致命的な反動の報告だった。
「ですが、それが裏目に出ました。私が完全に折れたと判断したことで、第一側妃様は私を側妃に押し込むための『仕上げ』の工程へ、一気に踏み切りました。明日、劇の『第3作目』が発表されます。そして近々、私の父が第一側妃宮へ呼び出される手筈になっています。狙いは間違いなく、父の口から直接、アイゼンガルト家との婚約破棄を宣言させることです」
その報告を聞いた瞬間、背後の闇に控えるルリカの空気が僅かに鋭くなった。
だが、リーゼロッテはティーカップを傾けたまま、驚く様子もなく冷徹に頷いた。
「ええ。そう動くでしょうね。貴女が完璧に『折れたふり』を演じきったがゆえの弊害よ。手駒が完成したと信じたのなら、相手はそれを使って次の手続へ進む。猶予はもう、ほとんど残されていないわ」
セシリアの顔が僅かに青ざめる。自分が耐え抜き、完璧に演じたことが、逆に自分とレオンハルトの破滅の時間を早めてしまったという現実は、深窓の令嬢にとってあまりにも重かった。
「私が、騙しきったことがいけなかったのでしょうか……」
「いいえ。貴女が少しでも抵抗を見せていれば、あの御方は物理的な暴力へ移行し、貴女は本当に壊れていた。貴女の選択は間違っていないわ。むしろ、相手に想定通りの行動を『選ばせた』と誇りなさい」
リーゼロッテは、冷たい声で明確に肯定した。
「相手が動いたということは、私たちも介入する時機が確定したということよ。セシリア様、貴女が以前提案した『似たような物語を下層の流通経路に流し込み、劇の価値を落とす』という案。それを明日の『第3作目』発表と同時に実行に移すわ」
セシリアは身を乗り出した。だが、即座に以前の話し合いでの懸念を口にする。
「殿下、劇の価値を落として世論工作を無力化すれば、第一側妃様は『世論という迂遠な手段』を捨て、父の不義の証拠を使って直接、婚約破棄を強要するはずです。それでは、破滅の時期が早まるだけではありませんか?」
「その通りよ。第一側妃様は間違いなく、世論の効き目が薄れたと見るや、直接の脅迫によってお父上を動かそうとする。……でもね、セシリア様。あの御方が『劇』という大衆の目を引く迂遠な手段を使っている間は、私が宰相家へ手を伸ばす口実がなかったのよ」
リーゼロッテの金色の瞳に、ルナリアを奪われたことへの冷たく澄んだ怒りが宿る。
「第一側妃様が大衆の目を諦め、不義の証拠という『致命的な毒』を使って宰相閣下を直接脅迫しようと動くその瞬間なら、話は別よ。あの御方が強硬手段に出る直前に、私がお父上をこちらの交渉の場へ引き込む」
「宰相である父を……。ですが、どのようにして?」
セシリアが息を呑んで問うと、リーゼロッテは自らの立場を冷徹に規定した。
「私が第一王女として、宰相閣下と直接密会することなど不可能よ。王宮という場所で、王女が他家の当主と人目を忍んで二人きりで会えば、それだけで不貞の疑いをかけられ、第一側妃様に私を潰す絶好の口実を与えてしまう。だから、私は表立っては動けない」
それは、王宮の常識であり、越えてはならない「品位と秩序の壁」だった。
「私が持っているのは、亡きルナリア様を奪われた恨みと、孤児院への慰問という公的な立場を利用した噂の流布だけ。……でも、私には私の代わりに公的な形を整えられる者がいる。表立って動けない私の代わりに、お父上に接触できる者がね」
リーゼロッテは、決してその者の名を口にしなかった。王宮の政争において、当事者であってもに中核の機密を明かすことは下策である。セシリアはただ、「リーゼ王女個人が手を差し伸べてくれている」という公的な事実の範囲だけを知っていればいい。
「しかし、私がどれほど理詰めで説得しようと、宰相閣下は容易には動かないわ。なぜなら、閣下は『愛娘である貴女の命運』を第一側妃様に完全に握られ、貴女の心も折れてしまったと信じ込まされているのだから」
リーゼロッテは、机の上に白紙の羊皮紙とペンを滑らせた。
「だから、お父上へ接触する際、ただの言葉ではなく、『絶対の証明』が必要になる。……お父上へ、一筆書きなさい」
「父へ……手紙を、ですか?」
「ええ。貴女の心は第一側妃様の支配になど屈していないこと。そして、私が第一側妃様を止めるために動いていること。だから、どれほど不義の証拠で脅されようと、決して『アイゼンガルト家との婚約破棄』に同意してはならないと」
セシリアは震える手でペンを見つめた。
父への手紙。それは、第一側妃宮という密室に囚われている自分が、外の世界へ放つ唯一の意志の証明だった。もしこれが第一側妃に見つかれば、自分も父も完全に破滅する。
だが、これを書かなければ、父は娘が完全に壊れたと信じ込み、娘を救うためにアイゼンガルト家との婚約を破棄してしまうだろう。
「この一筆を楔として、第一側妃様が宰相閣下を呼び出す前に、私がお父上へ接触する手立てを講じる。第一側妃様に不義の証拠を使わせる前に、宰相閣下に『第一側妃の脅迫を撥ね退ける』という選択肢を突きつけるための、最も強力な交渉材料にするわ。……書けるかしら?」
リーゼロッテの問いに、セシリアは迷うことなくペンを握った。
相手は絶対的な権力を持つ第一側妃だ。だが、目の前にいる第一王女は、孤児院を通じた噂の流布という限られた手段と、ルナリア様を奪われた怒りを武器に、その強大な権力を論理で解体しようとしてくれている。自分が第一側妃宮で耐え忍んだ時間は、決して無駄ではなかった。それが、この反撃の糸口に繋がっている。
セシリアは、一切の躊躇いなく、父への短い手紙を書き上げた。極限の緊張の中にあっても、その筆致には迷いがなかった。インクを乾かし、それを丁寧に折りたたんでリーゼロッテへと差し出す。
「お預けいたします、リーゼロッテ様。どうか、父を……レオンハルト様との未来を」
リーゼロッテはそれを受け取り、ルリカへと手渡した。
「ええ、確かに受け取ったわ。……セシリア様。貴女の役割は、これからも変わらない。第一側妃様の密室の中で、ギリギリまで『完璧に心が折れた駒』を演じ続けることよ。決して悟られてはならないわ」
リーゼロッテはゆっくりと立ち上がり、冷たい夜風が吹き込む窓の外、本宮の方向を見据えた。
「外の手配は、私が進めるは、私が動かします。貴女はただ、その時が来るまで生き延びなさい」
「はい。必ず」
静かな決意を交わし、セシリアは再び暗闇の中へと戻っていった。
第一側妃ヒルデガードはまだ知らない。自らが「仕上げ」に入ったと確信したその瞬間が、復讐の炎を静かに燃やす王女の手によって、緻密に計算された致命的な反撃の始まりであったことを。そして、その手紙を受け取った者が、春休みの王宮に張られた第一側妃の支配を根底から揺さぶるであろうことを。