リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第4話『檻の白百合2』

2 物語の完成

 

 王都中央劇場は、むせ返るような熱気と、甘美な陶酔に完全に支配されていた。

 

 豪奢なシャンデリアの灯りが落とされ、舞台上に魔導具の淡い光が満ちる。静寂の中、重厚なビロードの幕が上がり、連続劇『白百合の檻と暁の星』の第三作目が、いよいよその全貌を現した。

 

 第一作目が公開された時、大衆は舞台上の「高貴な若君」と「薄幸の令嬢」の純愛に目を奪われ、それが現実の王宮――第一王子グラクトと、第一側妃宮に滞在する宰相令嬢セシリアの隠された真実であると錯覚した。

 

 続く第二作目では、令嬢の「婚約者」がクローズアップされた。大衆は彼が愛し合う二人を無情に引き裂く悪役として描かれると予想していたが、劇の展開は彼らの下世話な予想を美しく裏切った。

 

 劇中の婚約者は、騎士道精神にあふれる極めて高潔な人物として描かれ、二人の真実の愛の深さを前に、自らの恋情を抑え込んで静かに身を引くという「崇高な決断」を下したのである。

 

 そして今、満を持して公開された第三作目。

 舞台上で展開されるのは、身を引いた婚約者の想いも背負い、結ばれることを誓った若君と令嬢の前に、王宮の絶対的な権力者たる「王妃」が立ちはだかる場面であった。王妃は二人の愛を試すために苛烈な試練を与え、令嬢はひたむきな献身と自己犠牲をもってそれに耐え抜いていく。

 

 平土間を埋め尽くす市井の富裕層も、三階のバルコニー席を占める特権階級の貴族たちも、誰もが舞台上の幻影に釘付けになっていた。幕が下りた瞬間、一瞬の静寂を縫って爆発的な拍手と喝采が沸き起こる。

 

「ああ……なんという気高さでしょう。白百合の令嬢は、試練に耐え抜き、若君への愛を証明された」

「第二作で潔く身を引かれた婚約者殿の想いも、これでようやく報われるというものだ」

「これほどまでの真実の愛、最後には王妃様も祝福を与え、お二人は結ばれるに違いない!」

 

 終演後、劇場の玄関広間や回廊にあふれ出した観客たちは、紅潮した顔で口々に感想を語り合った。

 

 彼らは、舞台の外にいる現実の人々までも、劇の続きであるかのように語り始めていた。王妃が試練の果てに二人を認め、若君と白百合の令嬢が美しく結ばれること。

 

 その結末を、観客たちは物語の当然の帰着として待ち望んでいる。そこに現実のセシリア本人の意思があるかどうかを、誰も確かめようとはしなかった。

 

 第一側妃ヒルデガードの仕掛けは、その思惑通りに進んでいた。

 

 第二作目で婚約者を「騎士道精神にあふれる善人」として描いたことで、現実の元帥家は表立って怒りの声を上げる正当な理由を奪われた。現実のレオンハルトがこの劇の流行に異を唱えれば、観客はまず劇中の高潔な婚約者を思い浮かべる。

 

 劇の中では美しく身を引いたのに、現実では二人の愛を妨げるのか。そう受け取られた瞬間、彼の抗議は、婚約者としての正当な怒りではなく、美しい結末に水を差す振る舞いとして扱われる。

 

 大衆は、自分たちが誰の人生も踏みにじっていないと信じ切っている。婚約者は立派に身を引き、若君と令嬢は試練を乗り越え、王妃の祝福を得て結ばれる。

 

 彼らが求めているのは、その美しい物語が最後まで壊れずに終わることだった。だが、ヒルデガードはその感動を、現実の王宮へ流れ込むよう仕向けていた。

 

 この熱狂は、劇場の中だけにとどまらない。

 上位貴族の令嬢たちは各々のタウンハウスや私的な庭園で茶会を開き、密やかに、だが極めて熱っぽくこの話題を共有していた。

 

「セシリア様は、まさに王家の品位を体現する自己犠牲の精神をお持ちですわ」

「ええ。レオンハルト様が騎士道精神をもって身を引かれたのですから、あとは王妃様がお認めになれば、お二人は晴れて結ばれるのですわね」

 

 精緻な細工が施されたティーカップを片手に、令嬢たちはうっとりとため息をつく。

 

 令嬢たちは、ただ劇のように美しい結末を夢見ているだけだった。だが、その夢は、現実のセシリア本人を極限の恐怖と絶望に追い詰める鎖へ変わっていく。

 

 悪意のない善意と感動の積み重ねは、ヒルデガードの手によって、宰相家に婚約破棄を迫るための大義名分へ作り替えられていた。

 

 王都の裏路地から、貴族邸の豪奢な応接室に至るまで。

 街の空気は完全に、第一側妃宮の放った物語によって染め上げられていた。

 

   ◇

 

 歓声と熱狂に沸き返る王都の喧騒の中、その空気を一切の感情を交えずに読み取っている小柄な影があった。学園特待生であり、離宮の「声なき手足」を束ねる平民の少年、テトラである。

 

 テトラは目立たぬ平民の衣服に身を包み、大通りの雑踏に溶け込みながら、行き交う人々の言葉の断片を正確に拾い集めていた。彼のずば抜けた記憶力は、劇の名で誰が語られ、現実の誰がその影に重ねられているのか。

 

 ただの感想として消えていく言葉と、王宮の人間へ向かい始めた言葉は、同じ熱を帯びていても響きが違う。テトラはその違いを、聞き落としも誇張もなく拾い分けていく。

 

 劇場の搬入口で働く人足たちの噂話。下層区画の広場で歌う吟遊詩人の脚色された弾き語り。そして、貴族邸に出入りする御者や使用人たちのつながりから得られた、上位貴族の茶会における会話。集めた言葉は、階層の違いを越えて、同じ結末へ向かい始めていた。

 

(……もう、劇の感想だけでは済まなくなっている)

 

 テトラは歩みを止めず、無表情のまま耳に残った言葉を並べ直す。二作目まで、人々はこの話を『美しい悲恋』として楽しんでいた。

 

 だが、三作目が公開された今、口にされるのは感想ではなく、期待だった。白百合の令嬢は試練を終え、王妃の祝福を受け、若君と結ばれる。人々はその結末を、舞台の続きとして待ち始めている。

 

 彼らが求めているのは、あくまで物語の結末だった。だが、その物語は現実の王宮と結びつけられ、セシリア本人の意思を置き去りにしたまま、現実を押し始めている。

 

 テトラは足取りを変え、王宮の裏門へと続く目立たぬ経路へ入り、ただちに離宮へと向かった。

 

   ◇

 

 離宮の奥深く、防音と機密保持が徹底された執務室。

 魔導具の淡い光が、重厚なマホガニーの円卓を静かに照らし出している。

 

「――劇場周辺でも、貴族家の茶会でも、反応はほぼ同じです。皆、劇の結末を現実の続きとして語り始めています。」

 

 テトラが最後の言葉を置くと、円卓はしばらく沈黙した。第一王女リーゼロッテ、第二王子リュート、そして東のオルディナ公爵家令嬢アイリスは、同じ熱狂を別々の危険として受け止めていた。

 

 リーゼにとっては、セシリアの悲鳴が消される恐怖であり、リュートにとっては、感動が制度を踏み越える危うさであり、アイリスにとっては、物語が人の判断を先回りして縛る速さだった。

 

 最初に口を開いたのはアイリスだった。彼女は、その報告が示す流れを、王宮へ向かう圧力として並べ直した。

 

「第一作目で、観客は若君と令嬢を現実のお二人に重ねました。第二作目では、婚約者レオンハルト様が身を引くものと思い込みました。そして第三作目で、王妃様の試練を越えれば二人は結ばれると信じ始めています。……皆、劇の続きを現実に探しています」

 

 リーゼロッテの胸に浮かんだのは、劇場の歓声ではなかった。旧書庫の暗がりで、震える手で父への手紙を書いたセシリアの姿だった。観客が美しい結末と呼ぶものは、彼女にとっては逃げ場を塞ぐ鎖でしかない。

 

「吐き気がしますわ。セシリア様ご本人の悲鳴は誰の耳にも届かないまま、彼女の人生だけが勝手に『誰も傷つかない美しい結婚』へとすり替えられているのですから」

 

 リーゼの怒りは、セシリア本人の側に立つ者として当然のものだった。だが、その怒りをそのまま観客へ向けても、美しい結末を待つ者たちには届かない。アイリスは、リーゼの怒りを否定せず、その怒りが届かない場所を見ていた。

 

「ですが、第一側妃様の手腕は素直に賞賛すべきでございますわね。恐ろしいほどに完璧な世論誘導でございます」

 

 第一側妃の仕掛けを見誤れば、セシリアを救う言葉は観客の耳に届く前に、美談を壊す無粋な正論として弾かれる。

 

「一番厄介なのは、第二作目の婚約者の扱いでございますわ。第一側妃様は、レオンハルト様を野蛮な悪役にいたしませんでした。騎士道精神にあふれる立派な人物として、美しく身を引かせたのです。おかげで観客は、現実のレオンハルト様にも同じ姿を期待する。抗議すれば、劇の中の高潔な婚約者と比べられてしまいますわ」

 

 アイリスの言葉で、元帥家が置かれた位置が円卓の上に浮かび上がった。レオンハルトが怒れば、婚約者を奪われた者ではなく、美しい恋を妨げる者にされる。元帥家は、抗議する前から、狭量に見える場所へ追い込まれていた。リュートはそこに、第一側妃の策の厄介さを見た。

 

「観客は、自分たちが誰かを追い詰めているとは思っていない。ただ、美しい物語が美しいまま終わることを願っている。その願いが、第一側妃の手で現実の人間にかぶせられているんだ」

 

 リュートの指摘で、第一側妃の仕掛けが元帥家だけを縛るものではないことが見えた。婚約者が怒れないなら、観客の期待は次に、王妃の承認と宰相の同意へ向かう。アイリスは、その流れを王宮への圧力として見ていた。

 

「そして三作目で、王妃様の承認という最後の試練を描き、結婚への期待を最高潮にまで引き上げましたわ。観客が求めているのは、満たされる結末でございます。王妃様が最後には二人の愛を認め、婚約者も父親も静かに祝福する。彼らはその形を、最も美しく、誰も傷つかない終わり方だと信じておりますわ。……第一側妃様は、その信じ込みを現実の王妃様と宰相閣下に向けているのです」

 

 その言葉で、円卓の上に置かれた問題ははっきりした。観客は劇を見ているだけで、婚約破棄を命じているつもりなどない。

 

 だが、劇の人物が現実の王族と貴族に重ねられている以上、感動は劇場の中で終わらない。王妃は愛を認めるべきだ。宰相は娘を送り出すべきだ。その空気だけが、本人たちの意思を置き去りにして先に進んでいく。

 

 リュートが危ぶんだのは、その空気が王宮の判断に触れた時だった。この国には、品位や民意の名を借りた感動が誰かの権利を踏み越える時、それを明確に止める法がない。

 

「人々が劇に熱狂するだけなら、珍しい話じゃない。問題は、その熱狂が現実の王宮に結びつけられていることだよ」

 

 だが、制度の欠落だけを語っても、観客の耳には届かない。観客は裁定を見たいのではなく、恋愛劇の結末を見たがっている。リュートはその点を外さなかった。

 

「巷の人たちは、この一件を恋愛劇として見ている。現実のセシリア嬢が第一側妃宮で何をされているのか、レオンハルト殿との婚約がどう扱われるのか、そこまでは見ていない。彼らが見たいのは、結婚という美しい結末だよ」

 

「ええ。その通りですわ、お兄様。だから、こちらが『第一側妃のやり方は不当だ』『元帥家との婚約こそが正当だ』と訴えても、彼らには届きませんわ。観客が待っているのは、正しい手続ではなく、美しい結末なのですから」

 

 リーゼの言葉で、取るべき道は狭まった。正しい手続を語るだけでは、観客は美しい物語を壊されたと感じる。アイリスが見たのは、その狭さそのものだった。美しい結末を待つ観客には、セシリアの拒絶もまた、愛する相手のもとへ帰る結末として差し出さなければ届かない。

 

「ならば、毒には毒を、物語には物語をぶつけるしかございませんわね」

 

 その言葉は、観客が受け取る形に変えなければ、セシリア本人の意思まで美談への反逆として扱われる。アイリスは、観客の欲しがる恋愛劇の中へ、本人の意思を置く形を選んだ。

 

「観客が恋愛劇を見ているのなら、こちらも恋愛劇の形で返すのですわ。セシリア様ご本人の意思を問う時も、『私は政治的に拒みます』などと言わせてはなりません」

 

 拒絶を拒絶として差し出せば、観客はそれを悲恋の妨害として受け取る。恋愛劇の中で語るなら、その言葉は婚約者のもとへ帰る選択になる。

 

「必要なのは、愛の言葉でございます。『私は王宮の美談として若君と結ばれるのではなく、愛する婚約者のもとへ帰ります』。そう言わせれば、観客は恋愛劇の結末として受け取る。けれど政治上は、セシリア様ご本人が第一側妃様の物語を拒むことになりますわ」

 

 リーゼは、その言葉でようやく、セシリアに渡すべき形を掴んだ。セシリアに渡すべきなのは、王宮への抗議文ではない。観客には恋愛劇として届き、王宮には本人意思として残る言葉だった。

 

「……なるほど。観客は、恋人のもとへ帰る令嬢の言葉として聞く。けれど王宮は、それをただの劇の台詞として処理できませんわ。セシリア様ご本人が、自分の意思で帰ると公に示すことになるのですから」

 

 リーゼが見たのは、観客に届く形だった。リュートが見ていたのは、その言葉が王宮に残るかどうかである。恋愛劇として聞かれるだけなら、喝采の中に消える。本人意思として残らなければ、第一側妃の筋書きを壊す力にはならない。

 

「その通りだね。熱狂を止めようとする必要はない。観客が恋愛劇を求めるなら、その恋愛劇の中でセシリア嬢本人の意思を言わせればいい。第一側妃が用意した舞台を、そのまま使うんだ」

 

 第一側妃が用意した結末の中へ、セシリア本人の意思を差し込む。恋愛劇の言葉で語られた選択なら、観客は耳を塞がない。劇の熱狂は、同じ熱のまま、第一側妃の物語を壊す力へ変わる。

 

 セシリア本人の意思を、この狂乱の王都でどう聞かせるのか。リーゼは、この場でようやく、後日セシリアへ渡すべき言葉の形を得た。

 

 それは、第一側妃が用意した舞台を、当事者自身の言葉で壊すための、恋愛という名の意思表示だった。

 

 離宮の若き共犯者たちは、王都を覆う熱狂の中で、第一側妃が用意した物語を内側から壊すための言葉を、静かに研ぎ澄ましていた。

 

 

 

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