リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第4話『檻の白百合3』

3 離宮の戦略

 

 王都が第一側妃ヒルデガードの仕掛けた恋愛劇に酔い、誰も傷つかない結末を待ち望み始めていたころ。離宮の奥深く、防音と機密保持が徹底された執務室には、その熱狂とは別の沈黙が落ちていた。

 

 魔導具の淡い光が、重厚なマホガニーの円卓を照らし出していた。

 

 大衆の熱狂が劇の結末を求める圧力へ変わり始めたという報告を受け、第一王女リーゼロッテは、静かに卓上へ一通の手紙を滑らせた。

 

「大衆はあの劇を、誰も傷つかない美しい悲恋の物語だと信じ込んでいますわ。ですが、その裏側で第一側妃が使っている手口は、到底品位などと呼べる代物ではありませんの」

 

 リーゼは王宮の品位を掲げながら、密室で一人の令嬢から逃げ場を奪う手口そのものを見ていた。彼女は、テトラたちが情報収集にあたっていた期間、護衛であるルリカの手引きによって第一側妃宮の厳重な監視をすり抜け、セシリア・ミント・ヴァルメイユとの密会を続けている。

 

「セシリア様は現在、恐怖と絶望の中に置かれていますわ。彼女は自らの心を守るため、そして第一側妃を油断させるため、意思を失った人形のふりをして騙し通しています。ですが、決して心までは屈していない。……この手紙は、彼女が命懸けで記した、宰相閣下への救難信号です」

 

 その密室を見たのは、リーゼだけではなかった。

 

「ねえ、お姉様。あの密室の空気は、正気の沙汰ではありませんでしたわね」

 

「左様でございますね、リーゼ様。第一側妃宮の内部は、完全に異常でした。第一側妃は、宰相家の令嬢を精神的に追い詰め、物理的に逃げ場を奪うことで、完璧な『従順な駒』に仕上げたつもりでおります。大衆が望む美しい結婚劇の裏で、当の本人は息の詰まるような強迫下に置かれているのです」

 

 ルリカの証言で、劇場の熱狂とは別の鎖が円卓に置かれた。観客の期待だけではない。第一側妃宮の密室そのものが、セシリアの意思を封じている。

 

 密室の異常を聞き取ったアイリスは、そこで初めて、熱狂だけでは説明のつかない別の拘束へ目を向けた。セシリア本人を閉じ込める鎖があるなら、宰相家を縛る鎖もまた別に存在するはずだった。

 

「脅迫……。大衆の熱狂とは別に、宰相閣下ご自身を身動きできなくさせている『物理的な鎖』があるということですわね。リーゼ様、第一側妃は一体、宰相閣下のどのような弱みを握っておいでなのです?」

 

「現宰相閣下と第一側妃の、不義密通ですわ」

 

 その名を聞いた瞬間、円卓の沈黙は別の重さを帯びた。第一側妃の悪辣さだけではない。宰相家の側にも、国家中枢を揺るがす弱みがあった。

 

 アイリスが軽蔑したのは、不義そのものよりも、それを国家の弱点に変えた宰相の浅さだった。政務を預かる者が、私欲で第一側妃に首を預け、その代償を娘に払わせている。

 

「……不義密通。呆れ果てましたわ。宰相閣下ともあろうお方が、なんと脇の甘いこと。ご自身の浅ましい欲望で国の一大事を引き起こし、あろうことかその揉み消しのために、愛する実の娘を第一側妃宮の密室へ生贄として差し出すなど……。一国の行政を預かる者の振る舞いとして、嫌悪感しか抱けませんわ」

 

 リーゼの背後に控えていた侍女のユスティナもまた、アイリスの嫌悪を否定しなかった。法を整える者にとって、それは私事の過ちではなく、公の責任を私欲で売り渡した行為だった。

 

「アイリス様の仰る通りです。第一側妃の手法が悪辣であることは言うまでもありませんが、それに屈して一国の宰相としての矜持すら売り渡すとは……。あまりにも浅ましく、醜悪な現実です」

 

 彼女たちが嫌悪したのは、醜聞そのものではなかった。血統と品位を掲げる王宮で、権力者の私欲が密室に隠され、その代償だけが娘へ押しつけられている。その構造を裁く明確な法がないことこそ、この国の病だった。

 

「だからこそ、私たちが動くのですわ」

 

 リーゼは、手紙を円卓の中央へ押し出した。セシリアの意思を守るには、まず王都を覆う美談の熱を下げなければならない。

 

「テトラ。大衆の熱狂に冷や水を浴びせるための『準備』は、どうなっていますの?」

 

「はい、リーゼ様。ご指示の通り、『白百合の檻と暁の星』の粗悪な模倣劇――登場人物の設定を少しだけ変え、極端に低俗で扇情的な愛憎劇に脚色した三文芝居の台本はすでに王都の下層区画や場末の酒場へ回し、役者にも話を通してあります。号砲ひとつで、同時多発的に上演を開始できます」

 

「よろしい。直ちにばら撒きなさい。大衆はあの劇を『王家の気高く神聖な美談』だと信じているからこそ熱狂している。なら、それに似た粗製濫造の俗悪な物語を大量に流通させて、劇にまとわりついた神聖さを剥がすのですわ。……第一側妃が作り上げた物語を、泥水で薄めてやりなさい」

 

「承知いたしました。ただちに孤児院の網を使って流布させます」

 

 テトラが即座に頷き、一礼して下がった。

 

「そうだね。大衆の熱狂を散らすのはテトラたちに任せるとして……ここでみんなに確認しておきたいことがあるんだ」

 

 テトラが下がると、円卓に残る問題はセシリア本人の扱いへ戻った。王都の熱を下げても、離宮が彼女の代わりに答えを決めてしまえば、第一側妃の支配と同じ形になる。リュートはそこを見落とさなかった。

 

「この作戦の目的は、『可哀想なセシリア嬢を第一側妃宮から救出すること』じゃないんだよ。第一側妃はセシリア嬢から意思を奪い、政治劇の舞台装置として扱った。もし俺たちが、裏から手を回して彼女を強引に奪還し、安全な場所へ移したとしたらどうなるか。……それは、俺たち離宮が第一側妃から『便利な手駒』を奪い取って、別の物語で上書きしただけのことになる。所有者が変わっただけの、新しい隷属だよ」

 

 リュートが嫌悪したのは、第一側妃の悪意だけではない。善意の庇護であっても、本人の意思を奪えば、支配の形は変わらない。セシリアを救うという名で、彼女の選択を離宮が奪うことだけは許されなかった。

 

「俺たちがやるべきことは、彼女の代わりに安全な答えを決めてやることじゃない。セシリア嬢本人が、公の場で『自分の意思を示せる条件』を整えること。彼女自身に選ばせる状態を作ることだ。……違うかな、リーゼ様」

 

「いいえ。お兄様の仰る通りですわ」

 

 リーゼは、そこで自分の役目を受け取った。セシリアの代わりに答えを出すのではなく、彼女自身へ選ぶ責任を返すこと。それは優しさだけでは済まない役目だった。

 

「私はセシリア様に対して、優しいだけの救済者になるつもりはありませんの。私が彼女に渡すのは、逃げ道ではなく『自分で選ぶ責任』ですわ。彼女が本当に帰りたいのなら、そして王宮の品位という名の物語から脱却したいのなら、自分の足で立ち、自分の口で選ばせます」

 

「わかった。リーゼ様彼女に『選ぶ覚悟』を問うのであれば、俺はそのための障害を制度の側から取り除こう」

 

 リーゼがセシリア本人へ責任を返すなら、リュートの役目はその選択を潰す力を取り除くことだった。最初に崩すべき障害は、宰相家を縛る脅迫である。

 

「セシリア嬢が自分の意思を示した時、実家である宰相家が第一側妃の圧力に屈して彼女を突き放せば、彼女は完全に帰る場所を失う。だから、セシリア嬢が動く前に、現宰相を第一側妃の脅迫から切り離さなければならないんだ」

 

「ですが、お兄様。第一側妃を不義の事実で追い詰めれば、あの御方は破れかぶれになって事実を暴露しかねませんわ。私の出自に傷がつく程度なら、私は表の王女としての立場を退けばいいだけですから一向に構いませんが……」

 

 リーゼは自分の地位を損なうことを恐れていなかった。だが、リュートが見ている危険は、リーゼ一人の名誉では収まらない。

 

「リーゼ様個人の問題じゃないんだよ。もし第一側妃が破れかぶれになって不義密通が公になれば、ヴァルメイユ侯爵家が吹き飛ぶだけじゃない。彼女の実子である兄上の血統に、致命的な疑義が生じることになる」

 

 血統への疑義が第一王子の正当性へ及ぶと分かった瞬間、アイリスの視線はセシリア個人の救出から王宮全体へ移った。婚約破棄の圧力どころではない。継承秩序そのものが揺らぐ。

 

「……第一王子殿下の正当性が揺らぐ。継承上の対抗者となり得る第三王子殿下はまだ幼く、権力基盤もない。そのような事態になれば、王宮は血で血を洗う権力闘争と大混乱に陥りますわね」

 

「そう。俺たちが目指しているのは、王宮を無秩序に壊すことじゃない。王の権威を残したまま、法によって権力を縛ることだ。第一王子殿下の血統が疑われれば、継承争いが、勃発する。そんな混乱は、こちらの目的から最も遠い。今の離宮には、王宮全体を力で押さえ込むだけの力がない。だから、混乱を広げる手は取れない。グラクト殿下の権威と王宮の秩序を保ったまま、第一側妃が宰相家を縛っている手段だけを断ち切る必要があるんだ」

 

「政情を保ったまま、脅迫を無効化する……。そのようなことが可能なのでしょうか、リュート様」

 

 その問いは、王宮の機能を守りながら敵の手段だけを奪えるのか、という実務家としての確認だった。アイリスが求めているのは情ではなく、政情を崩さない処理手順である。リュートは、その問いに最も短い答えを返した。

 

「現宰相を、辞職させるんだよ。現宰相が家内で責任を認め、表の職を退き、王宮から去れば、それで脅迫は成立しなくなる。よく考えてみてほしい。側妃であるヒルデガードは、後宮という籠に縛られた存在だ」

 

 後宮は、側妃を守る檻であると同時に、外へ伸びる手を縛る檻でもある。

 

「側妃が後宮の外に出るには、正当な理由と、護衛と侍女の同行が必要になる。現宰相が王宮を退き、公職も出入りの理由も失えば、第一側妃は彼を密室に呼び出せなくなる。二人きりで会えず、職務上の決裁にも触れられない相手を、同じ形では脅せない」

 

 円卓に落ちた沈黙は、驚きではなく理解のためのものだった。リュートの策は、相手の良心にも保身にも頼らない。後宮の規則、公職の有無、物理的な距離。その三つを使って、第一側妃が宰相家へ手を伸ばす道を塞ぐものだった。

 

「見事ですわ、リュート様。王宮の機能を保ったまま、敵の要石だけをそっと抜き取る。これならば第一側妃も醜聞を表へ出すことはできず、宰相家に対する脅迫は完全に物理的な牙を失いますわね。……ですが、保身に走る現宰相閣下が、ご自身の意思で素直に辞任を受け入れるでしょうか?」

 

「もちろん、今の現宰相にそれを説くのは難しいね。彼は恐怖でまともな判断能力を失っている。だから、接触するのは現宰相じゃない。隠居している『前宰相』だよ。ヴァルメイユ家全体を動かせる真の権力者を引きずり出し、彼に現宰相から実権を強制的に剥がさせる。家そのものを守るための、冷酷な切断としてね」

 

「なるほど、前宰相閣下の方でしたら、第一側妃の直接の支配下にはありませんし、家の存続という大局的な視点で取引が可能ですわね」

 

 リーゼはそこで、別の危険に気づいた。前宰相を動かす必要は分かる。だが、王女である自分が直接会えば、それ自体が第一側妃の餌になる。

 

「ですが、私が前宰相と密会することはできませんわ。妙齢の王女が、人目を忍んで他家の実力者と一対一で会えば、それだけで致命的な政治的隙を生み、第一側妃に格好の攻撃材料を与えてしまいますもの」

 

「わかっているよ。だから、宰相家との接触は俺が引き受ける。俺は王宮において、野心のない無害な影の第二王子だからね。第一側妃の目も、第一王子派の警戒も、俺が単独で動く分には届かない。……俺が前宰相と接触し、第一側妃の脅迫の道筋を完全に断ち切る。セシリア嬢が自らの足で立つための、帰る場所を整えるよ」

 

 それは、ただの優しさではなかった。第一側妃宮から一人の令嬢を逃がすだけなら、離宮もまた人治の庇護者にすぎない。リュートが整えようとしているのは、本人の意思が、権力者の気分ではなく手続として扱われるための足場だった。

 

「方針は決まったね。それぞれ準備に入ろう。ティナ。セシリア嬢の手紙の内容、現宰相の置かれた立場、そして第一側妃が用いている不義密通の件を完全に整理してくれるかな。前宰相との会談で、こちらの交渉材料として使うからね」

 

「かしこまりました、リュート様。完璧に整えておみせます」

 

「ルリカ。俺が前宰相と接触する時の、人払いと絶対的な護衛を頼めるかな。ティナも同行して、会談内容の整理と場の維持を手伝ってほしい」

 

「承知いたしました、リュート様。一匹の鼠も近づけさせません。弟妹たちの進む道とその背は、このルリカが確とお守りいたします」

 

「リーゼはテトラたちを使って、類似劇の流布による熱狂の拡散と薄めを頼むよ。第一側妃がこの劇の効果に見切りをつけ、現宰相へ直接の脅迫に動こうとするその直前の空白……そこが、俺が前宰相へ接触する唯一の隙になる」

 

「お任せくださいませ、お兄様。第一側妃が動かざるを得ない場を整えてみせます」

 

 離宮が取る道は決まった。

 

 第一側妃ヒルデガードが放った熱狂に、離宮は同じ熱で応じない。彼らが選んだのは、劇を薄め、脅迫を切り、最後に本人の意思を立たせる手順だった。リュートは冷徹な思考をもって前宰相を引きずり出し、ヒルデガードの不法な脅迫の根源を制度と距離によって断つ。

 

 そしてリーゼは、セシリアへ歩み寄り、「逃げる」のではなく「戦う」ための責任を手渡す。

 

 春期休暇の静かな王都の裏側で、第一側妃の物語を壊すための手順が動き始めていた。

 

 

 

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