リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 白獅子の面会要請
王立学園の全寮制の生活から一時的に解放され、春期休暇を迎えていた。
アイゼンガルト宮廷侯爵家の邸宅、その自室の姿見の前で、レオンハルト・デイル・アイゼンガルトは、己の身を包む純白の軍服の皺を丁寧に伸ばしていた。
あの日、ヴァルメイユ侯爵邸の緑豊かな庭園で、彼女に永遠の愛を誓った時に纏っていたのと同じ、アイゼンガルトの誇りたる白亜の正装である。
(学園の寮にいる間は、なかなか会えなかったからな。……早く、セシリアの顔が見たい)
鏡の前の若き白獅子の顔に、年相応の、どうしようもなく甘く柔らかな笑みが浮かぶ。
彼の婚約者であるセシリアは、レオンハルトが学園で立派な将器となるべく鍛錬を積んでいる間、自分も彼にふさわしい完璧な淑女になるのだと、第一側妃宮へ「行儀見習い」に上がっていた。
『レオン様が学園で頑張っていらっしゃる間、私も王宮で一生懸命に作法を学びます』
そう言って、花が綻ぶような愛らしい微笑みを浮かべてくれた彼女の健気な決意を思い出すだけで、レオンハルトの胸の奥は温かい光で満たされる。
軍の厳しい訓練で泥にまみれた日も、学園の座学で頭を悩ませた夜も、彼の心を支えていたのは、いつだってセシリアの澄んだ藤色の瞳と、彼女が淹れてくれる香り高い紅茶の記憶だった。
「待たせたな、セシリア。君が頑張っている分、俺も学園で恥じない成績を修めてきたぞ」
レオンハルトは、あの日彼女に捧げたのと同じ、深紅の薔薇の花束を腕に抱えた。加えて、彼女が好む東方産の希少な茶葉の包みも忘れない。
春休みに入ったのだ。何よりも真っ先に、愛する婚約者に会いに行く。それは彼にとって息をするのと同じくらい自然で、喜びに満ちた行動であった。
大人たちの権力闘争や、第一側妃宮という密室がどれほど恐ろしい檻であるかなど、真っ直ぐな彼が疑うはずもなかった。
◇
王宮の奥深く、第一側妃宮の重厚な門前。
華やかな本宮とは異なる厳格な空気が漂うその場所で、レオンハルトは門を固める近衛兵に対し、武門の家柄にふさわしい丁寧な礼をもって声をかけた。
「お忙しいところ恐れ入ります。アイゼンガルト侯爵家嫡男、レオンハルト・デイル・アイゼンガルトと申します。セシリア・ヴァルメイユ嬢へ、休暇の挨拶とご面会のお願いをしたく、お取次ぎを願えますでしょうか」
彼は爽やかな笑みを浮かべ、相手の立場を尊重する物腰を崩さない。
しかし、奥から現れた取次役の女官の対応は、極めて事務的かつ冷ややかなものであった。
「これは、アイゼンガルト侯爵令息様。……しかしながら、現在セシリア様は第一側妃様による極めて重要な教育の最中にございます。突然のご来訪には、すぐには応じかねます」
「そうでしたか。事前の触れも出さず、こちらの思慮が足りませんでした。申し訳ありません。では、本日の教育が終わるまで待たせていただくことは可能でしょうか」
レオンハルトは気負いなく、穏やかに返した。彼にとって、セシリアが王宮で立派な教育を受けていることは心から誇らしい事実であり、少し待つことなど全く苦ではなかった。
「申し訳ございません。本日の教育は夜半まで及ぶ予定でございます。また、第一側妃宮は、男子の立ち入りが厳しく制限される奥所。。事前の許可をいただかないまま、長時間の滞在を許すわけにはまいりません」
女官は抑揚のない声で、流れるように断りの口上を述べる。
「セシリア様へのご面会につきましては、第一側妃様のご意向を伺ったうえで、後日、こちらから日時を指定してお知らせいたします。本日はお引き取りくださいませ」
それは明確な門前払いであった。
だが、レオンハルトは、その無機質な対応に怒ることも不信感を抱くこともなかった。
(なるほど。王宮の奥所ともなれば、厳格な手続きと作法が必要なのだろう。学園の休暇に入ったからと、浮かれて押しかけた俺の非だな)
生真面目な彼は、自分の中に「王宮のしきたりへの無知」という理由を見出し、素直に納得してしまう。彼女は今、自分の隣に立つために、過酷な教育を一生懸命に受けているのだ。その大切な時間を、自分の勝手な都合で邪魔するわけにはいかない。
「……相分かりました。俺の配慮が足りなかったようです。では、日時の指定を待つといたします。せめてこの品だけ、セシリアに届けてはいただけないでしょうか」
「承知いたしました。確かにお預かりいたします」
女官が恭しく茶葉と花束を受け取るのを見届けると、レオンハルトは潔く踵を返した。
彼の胸中にあるのは、疑念ではなく、ただ純粋な期待だけだ。
(次に会える日が楽しみだ。厳しい教育を耐え抜いている彼女を、言葉を尽くして労ってやろう。久しぶりに、彼女の淹れた紅茶が飲めるといいな)
若き白獅子は、指定された日が来ればまたあの愛らしい微笑みに会えると信じ、軽やかな足取りで王宮を後にした。
◇
外の陽光すら重厚な布地に遮られた第一側妃宮の奥室では、第一側妃ヒルデガードが、先ほどの女官からの報告を受けていた。
「――アイゼンガルトの嫡男が参りましたか」
女官が差し出した深紅の薔薇は、春の祝いではなく、何も知らない若者の愚直さそのものに見えた。
「……本当に、あの家の男たちは、宮廷の空気というものを理解しない。学園の休暇に入った途端、春の陽気に当てられて婚約者の顔を見に来たというところね」
現在、王都の巷では『白百合の檻と暁の星』の第三作目が熱狂を呼んでいる。そのさなかに、大衆から「身を引くべき無骨者」として見られている当の婚約者が、何も知らずに深紅の薔薇を抱えてやってきたのだ。あまりにも滑稽なすれ違いは、彼女にとって極上の娯楽でしかなかった。
「……いかがなさいますか、第一側妃様」
「このまま面会を完全に拒絶し続けるのは、現状では悪手ね」
いくら純粋で素直な少年とはいえ、正当な理由もなく面会を拒絶し続ければ、やがて不自然さに気づく。宰相家が世論に押されて婚約破棄を申し出るという「大義名分」が完成する前に、アイゼンガルト家を無闇に刺激して王宮へ乗り込まれるような事態は、絶対に避けなければならない。
(元帥家を黙らせておくためには、セシリア本人と面会させ、『王宮での教育は順調であり、何の問題もない』と安心させる必要がある。……だが)
問題は、部屋の隅に残されていた。そこには、第一側妃宮の苛烈な精神的圧迫と実家の破滅という脅迫によって完全に自我を砕かれたように見え、虚ろな瞳でうずくまるセシリアの姿があった。
(今の、あの壊れた人形のような姿を見せれば、愛し合っている婚約者なら一目で異常を察知するわ。面会はさせる。ただし、あの愚かな婚約者を欺くための『仮面』を、今のうちにあの娘に被らせておかなければ)
面会を断れば疑われる。だが、今のセシリアをそのまま見せれば確実に異常が露見する。この二律背反を前にして、ヒルデガードが出した結論は、極めて冷酷なものであった。
「……セシリア様」
呼べば、部屋の隅の少女は顔を上げる。命じられることだけを待つ人形として、第一側妃宮の者たちには十分に見えていた。
「アイゼンガルトの嫡男から面会要請がありました。近々、お茶会という形で面会を許可してあげましょう。ただし、彼を不安にさせてはいけませんよ」
ヒルデガードは、セシリアに面会用の振る舞いを仕込むことにした。怯えを隠し、王宮での教育が順調であるとレオンハルトに信じ込ませるための、微笑みと沈黙の作法である。
「レオンハルト殿に会う前に、私がしっかりと、貴女の振る舞いについて『教え』をして差し上げましょう。話してよいこと。いけないこと。そして、彼を安心させるための、美しい微笑みの作り方を」
レオンハルトは、婚約者との再会を待ちわびている。ヒルデガードにとって、その純粋さは警戒すべき誠実さであり、同時に利用できる弱さでもあった。
こうして、若い二人の再会は、監視と偽りに満ちたお茶会へ変えられようとしていた。