リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第4話『檻の白百合5』

5 偽りの微笑み

 

 外の陽光すら重厚な布地に遮られた、第一側妃宮の奥室。

 

 幾重にも焚き染められた甘く重い香が漂う密室の中で、豪奢な長椅子に腰を下ろした第一側妃ヒルデガードは、手元に置かれた深紅の薔薇を冷ややかな目で見下ろしていた。

 

 先ほど、アイゼンガルト侯爵家の嫡男が置いていったという花束である。

 

 無骨な軍服の少年が、婚約者を喜ばせようと真剣に選んだであろう純粋な想いの結晶。だが、ヒルデガードにとってそれは、自らが整えた筋書きに持ち込まれた「不愉快な異物」でしかなかった。

 

「……野蛮な北の血は、本当に鬱陶しいこと。これだから、感情だけで動く武骨者は扱いづらいのです」

 

 ヒルデガードは吐き捨てるように呟くと、傍らに控える年嵩の侍女へ視線を向けた。

 

「その花、適当な花瓶に生けておきなさい。お茶会で、あの愚かな少年の目を欺くための小道具として使いますから」

 

「畏まりました、第一側妃様」

 

 侍女が花束を受け取り下がると、奥室に残る用件は一つになった。レオンハルトを欺くためには、部屋の隅で力なく平伏している少女を、面会用に整えなければならない。

 

 ヒルデガードの目から見れば、現在のセシリアは「完全に心が折れた都合の良い駒」に仕上がっている。焦点の合わない虚ろな瞳も、命令を待つだけの沈黙も、彼女には壊れた人形の証に見えていた。

 

「……セシリア様」

 

 ヒルデガードが静かに呼びかけると、セシリアは糸に引かれたように、ゆっくりと顔を上げた。

 

「アイゼンガルトの嫡男から、貴女への面会要請がありました。近々、王宮の庭園にて、お茶会という形で彼との面会を許可してあげましょう」

 

 その言葉を聞いた瞬間、セシリアの体が微かに震えた。

 

 その震えを、ヒルデガードは恐怖と受け取った。愛する婚約者に会えると知らされても、目の前の令嬢は喜びを表に出せない。そう見えたことが、ヒルデガードの確信をさらに深めた。

 

「勘違いしてはなりませんよ。これは貴女への慈悲ではありません。あの血の気の多い少年が、王宮の門前でこれ以上騒ぎ立てるのを防ぐための処置です」

 

 ヒルデガードは扇を開き、その鋭い切っ先でセシリアの顎をゆっくりと持ち上げた。

 

「愛する婚約者に会えるのです。貴女はさぞかし嬉しいでしょうね。……あの少年の前で泣き崩れ、『助けてほしい』『ここから連れ出してほしい』と縋りつけば、彼は剣を抜いて貴女を奪い返してくれるかもしれない。……そう、思っていませんか?」

 

 ヒルデガードの言葉には、毒蛇のようなねっとりとした脅迫が込められていた。

 

「もし貴女がそのような愚行に及べば、どうなるか。アイゼンガルトの嫡男が、王宮の奥所で第一側妃の保護下にある令嬢を強引に連れ出せば、それは明確な『誘拐』であり『王家への反逆』です。あの少年は不敬罪で捕らえられ、アイゼンガルト元帥家も無事では済まない。……そして当然、貴女の父親である宰相閣下の『あの不義』も、白日の下に晒されることになります」

 

 セシリアの顔から、さらに血の気が引いていく。ヒルデガードには、それが自分の脅しが効いた証拠に見えた。

 

「ですから、レオンハルト殿を安心させなさい。貴女は私の名誉ある行儀見習いとして、王宮で素晴らしい教育を受け、充実した日々を送っている。そう、彼に信じ込ませるのです。……分かっていますね?」

 

「……はい、第一側妃様」

 

 セシリアは、ひび割れたような声で従順に答えた。

 

 その返答に、ヒルデガードは満足した。レオンハルトを安心させ、宰相が婚約破棄を申し出るまで動かさない。その筋書きに必要な駒が整ったと、彼女は受け取った。

 

「では、面会のための『教え』を始めましょう。立ちなさい」

 

 ヒルデガードの命令を受け、セシリアはふらつく足取りで立ち上がった。傍らに控えていた侍女が進み出て、セシリアの姿勢を冷酷な手つきで正していく。曲がった背筋を伸ばさせ、伏せがちな顔を無理やり正面に向けさせる。

 

「まず、話してよいことと、口にしてはならないことの区別です」

 

 ヒルデガードは、演出家が舞台女優に演技をつけるように、冷徹に指示を出していく。

 

「お茶会の場には、私の侍女を同席させます。レオンハルト殿から『王宮での生活はどうか』と問われたら、貴女はこう答えなさい。『第一側妃様からは、王家の品位と淑女としての心構えを、大変丁寧にご指導いただいております。毎日が学びの連続で、充実しております』と」

 

「……第一側妃様からは……王家の品位と……」

 

「声が暗いわ。もっと張りを持たせなさい。彼に心配をかけたいのですか?」

 

 ピシャリと、侍女の手がセシリアの背中を叩いた。セシリアは小さく息を呑み、声の調子をわずかに上げた。

 

「……大変丁寧にご指導いただいております。毎日が学びの連続で……充実しております」

 

「よろしい。次に、絶対に口にしてはならないこと。……ご自身の体調不良、父親である宰相の近況、そして、巷で流行している『劇』の噂。これらについては一切の言及を禁じます。もし彼の方から話題を振られた場合は、『そのような俗事には疎く存じます』と微笑んで躱しなさい」

 

 セシリアは頷いた。レオンハルトに渡してよい情報は、あらかじめ切り落とされていた。体調も、父の近況も、劇の噂も、王宮の異常へつながるものはすべて封じられる。

 

「そして、最も重要なのは貴女の『表情』です。……笑いなさい」

 

 ヒルデガードの無慈悲な命令が下る。愛する婚約者を騙し、彼を遠ざけるための準備に加担しながら、心からの幸福を装えという、おぞましい要求であった。

 セシリアは、顔の筋肉を強張らせ、引き攣ったような笑みを作った。だが、ヒルデガードは扇を苛立たしげに鳴らした。

 

「駄目ね。そのような作り笑いでは、アイゼンガルトの少年もすぐに不審を抱くわ。……もっと、愛する者に会えた喜びと、彼を心から安心させようとする『慈愛』を表現なさい」

 

 侍女がセシリアの頬に冷たい指を添え、口角を無理やり持ち上げる。セシリアの瞳の奥で、強い痛みが走った。レオンハルトの真っ直ぐな愛情を思い出す。あの日、庭園で真紅の薔薇を捧げてくれた、あの不器用で誠実な言葉。

 

『君の淹れてくれる紅茶と、その笑顔だけが、私の心を繋ぎ止める唯一の光なんだ』

 

 彼にとって、自分の笑顔がどれほど大きな意味を持つかを知っている。だからこそ、その笑顔を「彼を騙し、遠ざけるための武器」として使わなければならないことが、身を引き裂かれるほどに辛かった。

 

 今すぐ泣き叫んで、すべてを打ち明けたい。彼にすがりついて、この恐ろしい密室から連れ出してほしい。感情が悲鳴を上げていた。しかし、セシリアは同時に、冷えきった理知をもって自らの感情を殺し伏せた。

 

(駄目よ。もし私がここで弱さを見せて、レオン様が真実を知れば……あの真っ直ぐな人は、絶対に許さない。私と父を救うために、王家の権威に対して剣を抜いてしまう)

 

 レオンハルトの誠実さは、セシリアにとっての誇りだ。だが、この状況では、その誠実さは致命的な弱点になる。

 

 彼が武力を行使すれば、第一側妃の目論見通り、アイゼンガルト家は「王宮の秩序を乱した反逆者」として処理される。父の弱みも暴露され、ヴァルメイユ家もアイゼンガルト家も、すべてが破滅する。

 

(私がレオン様を騙すのは、第一側妃様に屈したからじゃない。……レオン様を、アイゼンガルト家を守るため。リーゼロッテ様が用意してくださる『反撃の時』まで、彼を絶対に動かさないためよ!)

 

「……セシリア様。笑いなさい」

 

 ヒルデガードの冷酷な声に応え、セシリアはゆっくりと顔を上げた。その顔に浮かんでいたのは、怯えでも、引き攣りでもなかった。

 

 頬には柔らかな朱が差し、藤色の瞳は愛しい人を見つめるような優しい光を帯びていた。唇の端には、これ以上ないほど自然で、たおやかな微笑みが刻まれている。それは、レオンハルトが最も愛し、心を安らげる「完璧な婚約者の笑顔」そのものであった。

 

「……お会いできて、光栄ですわ、レオン様。王宮での教育はとても充実しておりますの。どうか、ご安心くださいませ」

 

 鈴を転がすような、清らかな声。微塵の恐怖も感じさせない、見事な芝居であった。

 

「……素晴らしいわ」

 

 ヒルデガードは、その完璧な笑顔を、恐怖によって命令を刻み込まれた証だと受け取った。自分が精神的に追い詰めたからこそ、この娘は従っている。そう見誤ったまま、セシリアの内側に理知が残っていることなど、一片も考えなかった。

 

「教えはこれで終了です。本番でも、今の完璧な振る舞いを期待していますよ」

 

 ヒルデガードは優雅に立ち上がり、奥室を後にした。残されたセシリアは、完璧な微笑みを保ったまま、誰にも見えないように、ドレスの裾を握りしめる両手にきつく力を込めた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。その痛みだけが、今の彼女を繋ぎ止める現実だった。

 

(許してください、レオン様。……私は、貴方を騙します。貴方の愛を裏切るような言葉を、私の口から告げます)

 

 やがて訪れる面会の日。それは、互いを想い合う若い二人にとって、あまりにも残酷で、哀しい偽りを強いられるお茶会となる。

 

 だがセシリアは、その地獄を一人で背負い抜く覚悟を決めていた。自らの言葉で運命を選ぶその日まで、誰にも心の内を悟らせない「完璧な駒」であり続けるために。

 

 

 

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