リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 白獅子の調査
第一側妃宮でセシリアと面会を果たしてから、数日が経っていた。あの異常な密室の空気と、彼女の完璧すぎる「仮面の笑顔」、そして背後に立つ侍女の冷ややかな監視の目が、レオンハルトの胸中に拭い去れない焦燥を植え付けていた。
事態の真相を探るため、王立学園から春期休暇で戻っているレオンハルトは、身分を隠すための地味な外套を羽織り、単身で王都の街へと調査に出ていた。しかし、彼が中央劇場周辺の広場で耳にしたのは、あまりにも不可解で、暴力的なまでの「熱狂」であった。
「ああ、素晴らしいわ! 劇の三作目、見た!? 第一王子殿下とセシリア様、ついに王妃様から課せられた試練を乗り越えられたのね!」
「ええ! セシリア様の婚約者様も、本当に立派な騎士道精神をお持ちだわ。愛し合うお二人の邪魔にならぬよう、自ら身を引かれるなんて、まさに武門の鑑ですもの」
通りを行き交う市民や、私的な茶会へ向かう令嬢たちの口から漏れていたのは、連続劇『白百合の檻と暁の星』への熱狂的な賛美だった。その言葉が耳に届いた瞬間、レオンハルトは広場の片隅で立ち尽くした。
(俺が、身を引いた……? 第一王子殿下とセシリアが、真実の愛……?)
自分が学園で鍛錬を積んでいる間に、自らの婚約者が「第一王子との悲恋のヒロイン」として民の噂と劇の筋書きの中で語られている。あろうことか、自分自身が「二人の愛のために身を引く高潔な騎士」として、勝手に物語の舞台装置に組み込まれているのだ。
「――よう、レオンハルト。随分と険しい顔をしてるじゃないか」
不意に、背後から少しだけ軽薄さを孕んだ、だが芯のある声がかけられた。振り返ると、王立学園で風紀官を務め、レオンハルトより上級にあたる、南のヴィレノアール公爵家の嫡男、ライオネル・ゼオン・ヴィレノアールの姿があった。
温暖な農業領地を持つ南の出身らしく、ライオネルは健康的に日焼けした色黒の肌と少し長めの金髪を持ち、一見すると派手である。しかし、上質な仕立ての外套を羽織るその立ち姿には、決して崩れることのない貴族としての厳格な節度が保たれていた。
「ライオネル殿……。どうして、ここに?」
「俺も春期休暇に入って、南の領地から王都へ戻ってきたばかりでね。商談やらがあって、街の流通を見て回っていたところさ」
ライオネルは周囲の狂騒を一瞥し、軽く肩をすくめた。
「それで? 愚直なほどに真っ直ぐなアイゼンガルトの次期元帥殿が、こんな広場の片隅で何を立ち尽くしている。よほど理解に苦しむ事態にでも直面したのかな」
その言葉に、レオンハルトは深く頭を下げた。王都の空気に疎い自分一人では、街の噂の裏を読むことができない。だが、風紀官として自分より上に立ち、南の広大な流通と人の欲を束ねるこの方ならば、事態の構造を見抜けるかもしれない。
「……恥を忍んでご相談があります。先日、俺は第一側妃宮で婚約者と面会しました。彼女は異常な監視下に置かれ、俺を遠ざけるために完璧な令嬢を演じていた。俺が暴れれば何かが破滅すると分かっているような、自らを犠牲にする目でした。さらに、この街では彼女と第一王子殿下を巡る不可解な劇の噂が広がっています。自らの足で調べた限り、彼女本人の意思とは無関係に、美談だけが作り上げられている。王宮の裏で、一体何が起きているのでしょうか」
レオンハルトの真剣な問いに、ライオネルは顎に手を当てて思案した。
「なるほどね。だが生憎と、俺も南から戻ったばかりで、王都の最新の『演目』の裏事情までは把握しきれていなくてな。……ただ、王宮の内情に通じていて、かつお前と極めて『似た立場』にいる人間なら、この状況を正確に読み解けるはずだ」
「似た立場、ですか?」
「ああ。ちょうどこれから、赴く予定だったんだ。一人で抱え込んで暴走するよりはマシだろ、共に来るといい」
ライオネルは優雅な所作で歩き出し、レオンハルトを伴って王都の一角へと向かった。二人が向かった先は、王都の一角に設けられた特区、王立オセロ協会であった。
◇
「――なるほど。アイゼンガルトの嫡男殿が、街の噂についてご相談にお越しになったと」
オセロ協会の奥にある厳重な執務室で、協会長ヴィオラリア・オルネ・クロムハルトは、精緻な図面と歯車の模型に囲まれた机越しにレオンハルトを見つめていた。無造作に束ねた金色の髪の下で、碧眼だけが冷ややかな理知を帯びている。
部屋の隅では、報告のため協会を訪れていた子爵令嬢のレティシアが、音を立てずに二人の客へお茶を供していた。第一王子グラクトの婚約者であるヴィオラリアが、執務室で男性二人と密談しているという不名誉を避けるには、身分ある同性の同席者が必要だった。レティシアはその役目を察し、公爵家と侯爵家の前で完全に気配を消している。
「レオンハルト様。まず切り分けるべきは、貴方が自らの足で調べたという巷の熱狂と劇の内容です。……それ自体は、ただの大衆の噂に過ぎませんわ」
手元のペンを置き、感情を挟む余地を、声にも表情にも残さず、ヴィオラリアは断念する。
「大衆がどれほど無責任な劇に熱狂しようと、それは平民の娯楽です。噂や同調圧力だけで、王家の承認した正当な婚約を覆すことはできません。王宮がそのような世迷い言を婚約解消の根拠にすれば、王家の『品位』そのものが根底から崩れ去ります。第一側妃様が宮の中で何を企んでいようと、大衆の熱狂は、少なくとも制度上の根拠にはならないのです」
「では、彼女があの宮に留め置かれ、心を壊されようとしているのは……」
「それは、全く別の問題です」
ヴィオラリアは、レオンハルトの言葉が終わる前に遮った。
「そもそも王宮の行儀見習いなど、本人が望めばいつでも辞退できるはずです。もちろん『王妃教育の脱落者』という不名誉な烙印は貼られ、実家であるヴァルメイユ侯爵家の評価は落ちますが、制度上、彼女はいつでも帰還できる。にも関わらず、現在セシリア様が帰還されないのは……彼女自身、あるいは保護者である宰相閣下が『帰還を望んでいない』ものとして扱われているからです」
王妃教育からお受けの行き着くべき結論をヴィオラリアは氷のような論理をもって、その核心を述べる。
「当事者が自ら望んで滞在しているという建前がある以上、第三者が宮に踏み込んで強引に連れ戻すことはできません。下位の者が上位である第一側妃宮の品位を公然と傷つけるなど、王宮の秩序と形式が許さないからです。外部の第三者は、彼女を動かすことができない。……本人が、すべてを投げ打ってでも帰りたいと口にしない限りは」
(……この方は)
レオンハルトは、目の前に座る金髪の令嬢の姿に、現王妃であるマルガレーテの姿を重ね合わせていた。
血統と品位を絶対視し、感情を徹底的に排除する、冷厳なる王妃。その理屈を、ヴィオラリアはあまりにも正確に口にしているように見えた。
この人には、セシリアの『心が壊れる』という見えない心理的危機は届かないのだろうか。少なくともレオンハルトには、彼女が王宮という巨大な序列を回すための、冷酷なまでに完璧な『次期王妃の器』に見えた。
「……分かりました。お教えいただき感謝します」
大衆の熱狂は問題の本質ではない。王宮が品位という見えない序列で硬直し、第一側妃宮への介入を許さないのであれば、セシリアが求めない限り、宰相ですら後宮の秩序には介入を許されない。
(宰相閣下では駄目だ。王妃の理屈を持つこの方でも駄目だ。……ならば)
「俺は、俺自身の手で動きます。彼女を縛り付けている鎖を、必ず断ち切る」
それは、ヴィオラリアには届かないかもしれない「セシリアの心を救う」ための、彼なりの決死の覚悟であった。レオンハルトは深く一礼すると、一切の迷いのない足取りで執務室を後にした。
◇
重い扉が閉まり、彼の足音が遠ざかっていく。これまで沈黙を守っていたライオネルが、貴族の笑みを浮かべて口を開いた。
「……なるほど。アイゼンガルトらしい、直線的で眩しい論理だね」
「貴方、彼を止めなくてよかったの?」
「無駄さ。あの目は、絶対に退かない男の目だった」
ライオネルは肩をすくめ、冷徹な思考を巡らせた。
(……あの真っ直ぐな男が、一人でどう動く? 軍は動かせない。孤立した宰相の元へ行っても扉は開かない。……だが、あの手負いの白獅子は、必ずどこかで王宮の硬直を喰い破ろうとするはずだ)
行き先がどこであれ、レオンハルトが独断で動くという事実そのものが、現在の硬直した王宮の状況に一石を投じることになる。ライオネルの冷徹な理知は、それが離宮勢を動かす上で、極めて重要なきっかけになると瞬時に弾き出していた。
「まあいい。さて、協会長殿。こっちが本題だ。南の農地で使う工作機械の『要望書』を持ってきた。うちの土質と作付けに合わせた新型が欲しい」
ライオネルは鞄から書類を取り出し、ヴィオラリアの机に広げた。
「ええ、資料を見せてちょうだい」
ヴィオラリアは要望書を引き寄せ、先ほどまでの次期王妃の顔から、一人の天才技術者の顔へと切り替わった。
「……なるほど。この要求出力と南の土質を考慮すると、歯車の比率はこうなるわね。私がここで図面を引いて西に渡し、試作機を上げさせるわ。その後の量産化は、東に回せばいいかしら?」
「ああ、それで頼む。俺にとっては、王宮の血統や品位を巡る暗闘よりも、南の領民の胃袋を満たすことの方が最優先事項だからな」
領民の胃袋を最優先にする次期公爵は、満足げに頷いた。机上に広げられた要望書には、西の技術、南の農業、東の経済力が、それぞれ別の筆跡で書き込まれていく。王宮の血統争いとは別の場所で、離宮勢力に近い次代の三家は、すでに実務で結びつき始めていた。
「よし。……それと、あの白獅子が動くという事実だけは、一応、俺の方からリュートへ伝えておこう。いい風が吹くかもしれないからな」
ライオネルもまた、その言葉を残して外套を翻し、執務室から退室していった。
◇
重厚な扉が完全に閉まり、外套の擦れる音まで遠ざかった。
室内がヴィオラリアとレティシアの二人きりになったのを確かめてから、レティシアはようやく肩の力を抜いた。それまで部屋の隅で完璧な『従順な子爵令嬢』の仮面を被り、息を潜めていた反動が、吐息となってこぼれる。
「……終わりましたか。南の公爵家の嫡男様の前だと、息が詰まりそうでした……」
レティシアがぽつりとこぼすと、ヴィオラリアは図面から目を離さずに小さく笑った。
「お疲れ様。貴族の力関係を正確に弁えているのは良いことよ。……それで? 先ほどから、随分と複雑そうな顔をしているけれど」
促されたレティシアは、冷めた紅茶の入ったカップを見つめながら、静かに、だが確かな鬱屈を帯びた声で口を開いた。
「……正直に言えば、あまり良い気分ではありません。私は自分の身を守るために、自らの手でここでの地位を作らなければなりませんでした。だから……宮に留まり、悲劇のヒロインとして扱われることを許しているあの侯爵令嬢様を見ると、所詮は恵まれた人間なのだと、冷めた目で見てしまいます」
自らの力でもがき、泥を這って自由の端を掴み取ったレティシアだからこそ、その沈黙を『無自覚な甘え』として見てしまう。
「でも……あの白獅子様……レオンハルト様は、セシリア様を『家を維持するための資産』ではなく、血の通った一人の人間として見て、あんなにも本気で怒っておられました。あんな風に、なりふり構わず誰かを一人の人間として見て、あそこまで怒れる人がいるのは……ほんの少しだけ、羨ましいです」
「そう。人間の感情の機微は、私には計算しづらい非合理な要素でしかないけれどね」
ヴィオラリアは自身の歪な婚約関係もあってか、図面の端に視線を落としたまま、レティシアの羨望にはほとんど関心を示さなかった。
「……だからこそ、腹が立ちます」
レティシアの碧眼に、前世の記憶と、この世界で得た現実認識が混ざり合った、鋭い光が宿る。
「街の人たちが熱狂しているあの安っぽい悲恋の劇。人間の尊厳を、都合のいい見世物にするなんて最低です。もしあの鬱陶しい世間の空気をひっくり返すとしたら……ただ『真実は違います』なんて正論を叫んでも、大衆の熱狂には勝てません。大衆は理屈ではなく、より大きなカタルシスを求めているんですから」
「へぇ? 例えばどうするの」
ヴィオラリアがペンの手を止め、初めて興味深そうに視線を向けた。
「私なら――大衆の面前で、すべてを覆す演出をぶつけます。真実の愛を持つ者が扉を蹴り破って乱入するか、あるいはヒロイン自身が大衆の前で『私が愛しているのはこの人です!』と叫ぶ。押し付けられた安っぽい悲恋を打ち破るには、さらに強烈な恋の筋書きで、劇のジャンルそのものを乗っ取るしかありません。本人の意思を大衆に突きつけ、理屈ではなく、与えられた劇よりも大きな熱狂で上書きしてしまうんです」
言葉は熱を帯びていたが、そこにあるのは夢見がちな少女の妄想ではなかった。
「……なるほど」
ヴィオラリアは、その言葉の裏にある構造を読み取り、小さく息を吐いた。
「大衆の同調圧力をただ否定するのではなく、より強烈なカタルシスで劇の構造ごと乗っ取る。ただのロマンチックな空想かと思えば……大衆心理の盲点を突く、極めて理にかなった見解ね」
「ええ。物語の力は、使い方次第で人の認識すらひっくり返せますから」
王立オセロ協会の一室で交わされた、二人の転生者による演出論。
それはこの時点では、まだ机上の空論に過ぎなかった。けれど、ヴィオラリアはペンを取り直すと、要望書の余白に短く書きつけた。
大衆の熱狂は、否定するのではなく、より大きな熱狂で上書きする。
その一文だけが、図面と数式の隅に残った。」
理由:現在の締めは作者総括で将来の意味を説明しているため、ヴィオラリアが書き留める所作で次章への火種を残す。