リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 古き宰相の復帰
王都の中心部に構える、ヴァルメイユ侯爵家の本邸。
現当主である宰相が王宮へ出仕し、主が不在となっている日中を狙い、第二王子リュートは護衛のルリカのみを伴って、その広大な屋敷を極秘裏に訪れていた。
応接室の上座で彼を待ち受けていたのは、現宰相の実父であり、かつて国政の頂点に君臨した老政治家、前宰相であった。
「――第二王子殿下が、当主不在の折に自ら老骨のもとへお越しになるとは。穏やかな話ではないと推察いたしますが」
隠居の身でありながら、いまだ現役を凌ぐ酷薄な眼光を宿す前宰相に対し、リュートは一切の前置きを排し、一枚の書状を卓上に滑らせた。
それは、セシリアが第一側妃宮から外部へ向けて発そうとした、暗号化された悲痛な手紙の写しであった。
「単刀直入に申し上げます。セシリア嬢の手紙によれば、第一側妃ヒルデガードは、現宰相閣下との間に『不義密通』があったという事実を盾に、現宰相閣下を脅迫しています。暴露を恐れるならば、ご令孫であるセシリア嬢を第一側妃宮へ差し出せ、と。……それが、セシリア嬢が宮に留め置かれている理由です」
前宰相は数秒の沈黙の後、ゆっくりと目を閉じた。国家の根幹たる血統と品位を汚す、王家への反逆にも等しい大罪。息子の最近の不自然な政治的譲歩は、その一語で説明がついた。
「……なるほど。愚かな息子です。我が家門を泥に塗れさせた罪、当主の首を差し出して裁きを受けねばならないでしょう」
「ええ。ですが、問題は第一側妃がなぜ『セシリア嬢』を要求したかです。この手紙には、彼女の真の狙いが記されています。第一王子グラクト殿下の『側妃』として、セシリア嬢をあてがうこと。それが彼女の目的です。ご存知の通り、現在グラクト殿下は後宮派閥から距離を置き、ご自身を中核とする王宮派閥の確立へと動かれています。後宮で孤立し、影響力を失いつつあるヒルデガード妃にとって、宰相府を後ろ盾に完全に言いなりになるセシリア嬢を第一王子の傍にねじ込むことこそが、権力を繋ぎ止める最大の命綱なのです」
リュートは、前宰相が家門の罪へ意識を向けた瞬間を逃さず、問題を現宰相個人の不始末から王宮中枢の支配構造へと引き上げた。
「彼女は、セシリア嬢を従順な人形として扱うことで第一王子宮の内奥に食い込み、同時にその『不義』の脅迫を用いて、宰相府の実務権限をも裏から私物化しようとしている」
「……この情報が真実であれば、私はいくらでも手が打てます。息子を切り捨てるだけでなく、第一側妃の側近を抱き込んで物理的に『退場』していただくことも、あるいはこの事実を逆手に取り、第一側妃を我がヴァルメイユの『飼い犬』として調教し直すことも可能ですが」
前宰相が示したのは、権力闘争における血生臭い、だが極めて現実的な「裏の選択肢」であった。
「ええ、閣下ならば可能でしょう。しかし、だからこそ私はそれを止めるためにここへ来ました。前宰相閣下は、我が母ルナリアが殺されたことをご存知のはずです。ここで第一側妃まで不自然に退場すれば、後宮で二人の側妃が相次いで失われることになる。さすがに、すべてを病死として押し通すには限界があるでしょう。そうなれば、王家の品位に疑問を抱く勢力が現れる可能性が高い。逆に彼女を支配下に置こうとすれば、後宮との泥沼の暗闘が永遠に続く。そして何より――万が一にもこの『不義』の秘密が外部に漏れた場合、どうなるか」
ここでリュートは、前宰相が家門の保身だけでは退けなくなる名を口にした。問題はヴァルメイユの醜聞ではなく、第一王子の正統性そのものへ触れた。
「第一側妃の不義は、そのまま『第一王子グラクト殿下の血統への疑念』に直結します。もし神の子たる第一王子の正統性が揺らげば、王国は継承争いで割れる。……私は、そのような無益な乱を望んではいません」
前宰相は、その一言でリュートの要求の重さを測り直した。この第二王子は、ヴァルメイユ家を潰すために来たのではない。王国の継承秩序を守るため、最も危険な情報を、最も安全に処理できる相手へ差し出したのだ。
「なるほど……。殿下が王宮の秩序を壊す気がないことは理解しました。ならば、どう動けと?」
「交渉です、閣下。現宰相閣下には一切の事実を闇に葬ったまま、『唐突な体調不良』を理由に宰相職を辞していただく。そして、前宰相閣下が『復帰』し、再び宰相府の権力を握る。そうすれば、ヒルデガード妃の思惑は断たれます」
だが、前宰相はその取引に即座には乗らなかった。宰相府を取り戻すだけでは、第一側妃の手元に残る物証を消せない。
「……息子を辞任させ、私が復帰してセシリアの帰還を要求しても、第一側妃が手放すわけがない。何より、彼女の手元に『不義の決定的な物証』が残っている限り、我がヴァルメイユの名誉が失墜する危険が残ったままです。その物証を潰さぬ限り、この取引は成立しない」
「おっしゃる通りです。ですから、その『決定的な物証』の正体と在り処を、これから現宰相閣下ご本人に確認するのです」
◇
その日の夜。
現宰相が王宮から帰宅すると、自室には実父である前宰相と第二王子リュートが待ち構えていた。
「父上……それに、第二王子殿下まで、なぜここに……」
「すべて話せ。お前がヴァルメイユの品位を泥に塗れさせ、あまつさえセシリアを第一側妃宮へ差し出さねばならなかった理由を」
前宰相の、ヴァルメイユ家前当主としての絶対的な威圧を前に、現宰相はもはや言い逃れをする気力すら残していなかった。彼は崩れ落ちるように床へ膝をつき、第一側妃との不義密通、そしてそれを盾に愛娘セシリアを奪われたという顚末を自白した。
「……不義の事実はわかった。だが、ただの密通ならばしらを切ることもできたはずだ。当主たるお前がセシリアを差し出してまで屈服したということは、第一側妃は言い逃れのできない『確たる証拠』を持っているということだな。それは何だ」
前宰相の問いは、すでに叱責ではなく尋問に変わっていた。床に膝をついたまま、現宰相は家門を縛る物証の名を絞り出した。
「……誓約書、です。あの女は、私が決して自分を見捨てないという証を求めた。私は愚かにも、彼女宛ての愛の誓いに……『ヴァルメイユ家当主の私印』を捺して渡してしまったのです」
当主の私印。それは貴族社会において命の次に重く、一族の権力と品位を担保する絶対の証である。それが捺された恋文など、筆跡鑑定を待つまでもなく言い逃れ不可能な決定的物証に他ならない。
その事実を聞き遂げた瞬間、前宰相の顔に明確な殺意に近い怒りが浮かんだ。
「愚か者が……! 自らの痴態で娘を守れず、あまつさえ当主の印を差し出し王宮の枢機を歪めた罪、万死に値する!」
前宰相の怒りが家門内の処断へ流れ込もうとした瞬間、リュートは初めてその怒りに割って入った。ここで息子を裁けば、第一側妃の手元に残る証拠だけが手つかずになる。
「お待ちを、前宰相閣下。感情で首を刎ねるのは後でもできます。まずは状況を整理しましょう。宰相閣下。その私印の捺された誓約書は、今どこにありますか」
リュートが求めているのは、罪人の処断ではなく、脅迫の根を断つための情報だった。前宰相の怒気が沈黙へ変わるのを見届けてから、リュートは膝をつく現宰相へ視線を落とした。
「……第一側妃宮の、彼女の自室です。魔導の鍵がかけられた隠し金庫に厳重に保管されており、侍女にすら触れさせていません」
証拠の名、保管場所、そして第一側妃本人しか触れられない管理の形。その三つが揃ったことで、リュートの中でセシリアの手紙にあった図面の意味が一つに繋がった。
「なるほど。前宰相閣下、これで必要な情報は揃いました。セシリア嬢から内密に届けられた手紙には、第一側妃宮の内部構造と、第一側妃が誰も近づけない『不自然な壁』の図面が添えられていました。隠し金庫の場所と証拠の正体が繋がった以上、あとはそれを奪い返すだけです」
前宰相は、即座にその策の最も脆い一点を突いた。証拠の場所が分かっても、側妃宮へ入れなければ何も変わらない。
「どうやって奪うというのです。側妃宮は王宮内でも屈指の堅牢さを誇る。いかにリュート殿下の手の者でも、容易には侵入できまい」
「ええ、普段なら不可能です。しかし、第一側妃が側近を伴って公の場へ出、宮内の監視が薄くなる瞬間が必ず訪れる。第一側妃の目的が『セシリア嬢の側妃化』である以上、彼女は現在の大衆の熱狂を利用し、必ず近いうちに『公の場で宣言』を強行するはずです。でなければ、宰相が辞職する以上、第一王子陣営に既成事実を押し付けることはできない。……彼女がその晴れ舞台のために側近を連れて宮を離れるその瞬間。こちらの者が第一側妃宮に潜入し、金庫を開けて誓約書を奪取します」
前宰相は、そこで初めて第二王子がすでに第一側妃の次の一手まで読んでいることを悟った。これは思いつきの救出策ではない。セシリアの手紙、宰相の辞任、第一側妃の宣言、そのすべてを一つの罠に組み込む策だった。
「奪取した誓約書は、前宰相閣下にお預けします。証拠が第一側妃の手から失われれば、もはや第一側妃にヴァルメイユ家を脅す手立てはない。……閣下は、現宰相を体調不良で辞任させ、自らが復帰した上で、証拠を失った彼女に対して『我が家の娘を返せ』と正当な要求を突きつければいいのです」
息子を表舞台から退かせることは、ヴァルメイユ家にとって避けられない代償だった。だが、その代償と引き換えに、家門を縛る物証を奪い返し、セシリアを取り戻す道が開かれる。前宰相は、目の前の少年が組み上げた策の冷徹さに、深く息を吐き出した。
「……恐れ入りました。家と孫娘を守るための、これ以上ない理にかなった取引です。乗らせていただきましょう」
◇
取引が成立した以上、前宰相に残された仕事は一つだった。家門を守るため、現当主である息子を王宮の表から切り離す。
「お前は明日、重篤な病を理由に宰相職の辞任を国王陛下に申し出ろ。表舞台から完全に姿を消すのだ。王宮の空白は、この私が現場へ復帰して埋める。お前は今後、分家から迎える次期後継者の教育と裏方のみに生涯を捧げよ」
政治生命の完全な断絶と、一族の裏方としての幽閉。現宰相は深く頭を垂れ、震える声でその処断を受け入れた。
◇
現宰相が力なく別室へ下がると、部屋には家門の醜聞を処理した老人と、その醜聞を国家秩序の道具へ変えた第二王子だけが残った。前宰相は、そこで初めて取引相手ではなく、リュート自身を測る目を向けた。
「殿下のおかげで、我が家は破滅を免れました。……しかし、これほどの手腕で国政の歪みを御す御方が、実務を持たぬ第二王子の立場に甘んじているのは、いささか国家の損失に思えます」
前宰相の目には、もはや恩人への礼だけはなかった。目の前の少年は、王位から遠い第二王子でありながら、宰相府の失墜と復帰、第一側妃の封じ込め、証拠奪取の機会までを一つに束ねてみせた。老政治家は、その才を家の内に置けるかどうかを測り始めていた。
「殿下。……半ば本気でお聞きしますが、我がヴァルメイユ侯爵家へ養子に来る気はありませんか。後継の形など、分家を動かせばいくらでも整えられる。貴方ほどの御方であれば、次代の宰相として、王宮実務の頂点からこの国を動かすことも可能でしょう」
それは、実権のない第二王子という立場から離れ、貴族の頂点へと至る極めて魅力的な提案であった。しかし、リュートは表情を一切変えることなく、即座に首を横に振った。
「過分な評価に感謝いたしますが、お断りします。一介の宰相として王宮の均衡を保つだけでは、私には退屈すぎます。……それに、私はまだこの『王族』という都合の良い立場を手放すつもりはありません。この歪な王宮で、私が個人的な『遊戯』を為すには、外から眺めるのではなく、内側の特等席に座り続ける必要があるのです」
王の血統と品位が法に優越するこの国で、成文法による支配を築くという真の目的など、ここで明かすわけにはいかない。彼は自らの真意を「個人的な遊戯」という言葉で覆い隠し、前宰相の探りを冷たく切り捨てた。
その掴みどころのない、しかし確かな底知れなさを前に、前宰相は静かに目を伏せた。
目の前の少年は、既存の権力構造に安易に囲い込めるような器ではない。彼が王宮の内側で何を企んでいるかは読めないが、少なくとも今のヴァルメイユ家にとって、彼を敵に回す選択肢はないことだけは確かだった。
「……なるほど。私のような古い人間が、安易に首輪をかけられるような御方ではなかったようだ。無礼をお許しいただきたい」
前宰相は、深々と頭を垂れた。それは謝罪であると同時に、ヴァルメイユ家がこの第二王子を囲い込む側ではなく、借りを負う側に立ったことを認める所作でもあった。
◇
翌日、王宮の謁見の間。
玉座にはローゼンタリア国王が座し、その傍らには、王家の血統と秩序を絶対視する冷厳なる王妃、マルガレーテが控えていた。
御前に進み出た現宰相は、蒼白な顔で深く頭を下げた。
「陛下……誠に申し訳ございません。昨晩より急な胸の痛みに見舞われ、侍医より長期間の絶対安静が必要と診断されました。どうか、私の宰相職の辞任をお認めいただきたく存じます」
国王が戸惑いの表情を浮かべる中、現宰相の背後に控えていた前宰相が一歩前に出た。
「陛下の御心を煩わせ、深くお詫び申し上げます。しかし、宰相府の空白は王宮政治の危機。つきましては、次期後継者が育つまでの間、この私が宰相職へ復帰し、王宮実務の停滞を防ぐ所存にございます」
辞任の理由も、空白を埋める者も、王宮の機能を止めないための名目も、すべて揃えられていた。王妃マルガレーテは、冷ややかな瞳で二人のヴァルメイユを交互に見つめ、やがて淡々と口を開いた。
「……体調不良により職務の遂行が不可能であるならば、辞任は必然。また、前宰相が即座に復帰して実務の穴を埋めるというのであれば、制度上の機能不全は回避されます。……極めて理にかなった対処と言えるでしょう」
マルガレーテはそこに潜む後宮と王宮の暗闘の気配を察していたかもしれない。しかし、彼女は推測や感情では動かない。提示された事実と、王宮の機能維持という「形式」のみを判断基準とし、その辞任と復帰を認める側に立った。
「陛下。わたくしが申し上げました通り、これは王宮の品位と機能を保つための妥当な手続きにございます。ご承認くださいませ」
「う、うむ……相分かった。現宰相の辞任を認め、前宰相の復帰を許可する」
王の宣言が謁見の間に響き渡った。
この瞬間、第一側妃ヒルデガードが脅迫によって掌握していた『宰相府の実務権限』は、彼女の手から引き剥がされた。決定的な物証はまだ第一側妃宮に残っている。だが、その物証を握ったまま宰相府を動かす道は断たれ、新たな怪物が、彼女の前に最大の障壁として立ちはだかることになったのである。