リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第5話『物語に奪われる者たち3』

3 白百合の舞台

 

 第一側妃宮の奥深くに設けられた、豪奢だが窓のない「教育室」。

 分厚い絨毯の上に立つヴァルメイユ侯爵家令嬢セシリアは、完璧な角度で背筋を伸ばし、一片の乱れもない優雅な淑女の礼を披露していた。

 

「――すべては、第一王子グラクト殿下の御光を支えるため。そして、ローゼンタリア王国の気高き品位をお守りするため。わたくしは自らの意志で、新たな道を選びます」

 

 澄んだ声は、淑女として申し分なく整っていた。だが、そこに感情の揺れはない。暗く沈んだ瞳の奥で、セシリアは自分自身の言葉ではなく、与えられた台詞だけを正確になぞっていた。

 

 長椅子に腰を下ろしてそれを見ていた第一側妃ヒルデガードは、扇の向こうで満足げに目を細めた。

 

「ええ、素晴らしいわ、セシリア。以前の貴女は、どこか武骨な空気に当てられたような粗さがあったけれど……今の貴女は、まさに王宮の頂に咲く白百合に相応しい完璧な品位を備えているわ」

 

 ヒルデガードの隣に控える古参の侍女も、その評価を追認するように恭しく頭を下げた。

 

「側妃様の仰る通りにございます。最近のセシリア様は、自室で涙を見せることもなくなり、差し向けた教官の指示にも一切の反抗を見せません。ご自分の立場を、ようやくお弁えになったご様子でございます」

 

「当然よ。彼女は賢い子だもの。自分がここで少しでも『粗相』をすれば、自分だけでなく、愛する北の次期元帥様や実家がどうなるか、よく分かっているはずだものね?」

 

 ヒルデガードが扇を閉じた音が、教育室に小さく響いた。それは称賛ではなく、脅しの確認だった。セシリアは表情一つ変えることなく、ただ深く、従順に頭を垂れた。

 

「はい、第一側妃様の御心こそが私の望み、その御心のままに粗相なく務めます」

 

 セシリアは、命令を待つだけの傀儡として仕上がっていた。愛する者を守るために自らの心を殺し尽くしたその沈黙を、ヒルデガードは従順の証として受け取った。これならば、いかなる場に出そうとも、余計な言葉を口にすることはない。

 

「教育はこれで完了とするわ。自室へ戻り、身体を休めなさい。近いうちに、貴女のその美しい忠誠を、皆に披露する場を与えてあげるから」

 

 一礼して退出していくセシリアの背中を見送りながら、ヒルデガードは次に使う場を選び始めていた。従順な令嬢を作るだけでは足りない。その従順を、王都全体に真実として見せつける必要がある。

 

   ◇

 

 その日の深夜。

 第一側妃宮の最奥にあるヒルデガードの私室。上質な絹の寝衣を身に纏った彼女は、化粧台の鏡越しに、外朝から戻ったばかりの腹心の侍女の腹心の侍女から報告を受けていた。

 

「――現宰相が、急病を理由に辞任。そして、前宰相が復帰し、すでに実務を引き継いだ、と」

 

 ヒルデガードは、手にした葡萄酒の杯の脚を指先でなぞりながら、ひどく冷ややかな声でその事実を反芻した。

 

「はい。今しがた、王宮の書記官より正式な通達が後宮にも回ってまいりました。表向きは過労による胸の病とされておりますが……」

 

「馬鹿馬鹿しい。あの男が、自分の意志で権力の座を手放すはずがないわ」

 

 杯をテーブルに置く音が、私室に硬く響いた。現宰相は、自らの『不義密通』を盾に取られ、娘を人質にされている状態だった。権力の座にしがみつくことでしか自分を守れない男が、何の前触れもなく辞任するなどあり得ない。

 

「……前宰相。あの引退した老いぼれが、わざわざ表舞台にしゃしゃり出てきた。ということは、あの怪物は『不義』の事実を知った上で、自らの息子を切り捨て、宰相府を私の手から引き剥がしたということね」

 

 権力闘争を生き抜いてきたヒルデガードの理知は、即座に事態の構造を読み解いていた。

 

「厄介なことになったわ。前宰相が復帰した以上、早急にこちらへ動いてくる。当主としての正当な権限を行使し、『行儀見習いは終了した。我が家の娘を返せ』と、面会と引き渡しを強硬に求めてくるはずよ」

 

「妃殿下。いかがなさいますか。前宰相閣下が出てこられれば、強引に引き留める大義名分が立ちません」

 

 侍女の焦燥を孕んだ問いを受けても、ヒルデガードは崩れなかった。寝衣の裾を揺らして窓辺へ歩み寄るその顔には、絶望ではなく、次の手を選ぶ冷たい余裕があった。

 

「慌てる必要はないわ。ここは後宮よ。前宰相がどれほど王宮政治で権力を振るおうと、第一側妃宮へそのまま踏み込むことなどできない。血縁者であろうと、成年男性の立ち入りには煩雑な手続きが必要になる。初手から王命を求めれば、家の事情に王家を巻き込み、侯爵家の品位を欠くことになる。……『セシリアは現在、重要な礼儀作法の講義中である』『手続きの書類に不備がある』と難癖をつければ、数日から十日余りは、のらりくらりと引き渡しを拒否できるわ」

 

 後宮という閉ざされた空間の慣例が、彼女にとって最大の防御壁となる。だが、それは永遠ではないこともヒルデガードは理解していた。

 

「とはいえ、ただ時間稼ぎをしているだけでは、いずれ前宰相が王命を引き出してでも、正面から引き渡しを求めてくる。正面から引き取られる前に、セシリアを第一王子グラクトの側妃として完全に固定化しなければならない。ヴァルメイユ侯爵家の当主でさえも、覆すことができない『絶対の既成事実』を作る必要があるわ」

 

「……公の場、でございますか」

 

「ええ。当事者であるセシリア本人が、公の場で、数千の衆目の前に立ち、自らの意志として『グラクト殿下をお慕いしている』と宣言する。そうなれば、いかに前宰相であっても、当事者の令嬢が公に発した言葉を、後から『あれは嘘だ』と否定するには、ヴァルメイユ侯爵家自身の品位を傷つける覚悟が要るわ」

 

 ヒルデガードの視線は、夜の王都へ向いた。必要なのは、王宮の手続きではなく、王都そのものを証人に変える場だった。

 

「問題は、問題は、その『公の場』をどこに設定するか、ね。謁見の間では駄目よ。国王陛下や王妃の御前では、あの老いぼれに論破されかねない。もっと圧倒的な、大衆の熱狂が支配する場が必要だわ」

 

 まず浮かんだのは、王宮が正式に人を集められる場だった。

 

「春の学園開始直前に来訪する、帝国の第二皇子アレクシス殿下の歓迎の宴はどうかしら。他国の要人と我が国の貴族がこぞって集まる場。そこでセシリアに宣言させれば……駄目よ、遅すぎるわ」

 

 ヒルデガードは自らの案を即座に却下した。

 

「アレクシス殿下が到着するまで、まだ一月弱の猶予がある。後宮の手続きで前宰相の要求を突っぱねられるのも、せいぜい十数日が限界。一月もの間、あの怪物を足止めし続けることは不可能よ。……もっと早く、そして大衆の熱狂を最も利用できる、今すぐ使える最高の舞台があるじゃない」

 

 その名に思い至った瞬間、ヒルデガードの顔から焦りが消えた。

 

「――中央劇場の、『舞台』よ。近々、あの劇の最終公演に合わせて、劇団が大規模な終演後の挨拶を予定していたわね」

 

 現在、王都を席巻している連続劇『白百合の檻と暁の星』。第一王子とセシリアの悲恋を美化したその劇は、今や貴族から平民に至るまで、熱狂的な支持を集めている。

 

「はい。劇場前広場には、劇の結末を見届けようと、前代未聞の数の大衆と貴族が集まることが予想されております」

 

「最高だわ。そこへ、物語の『本物の白百合』であるセシリアを登壇させるのよ」

 

 劇の筋書きが、セシリアの宣言を受け入れるための土台になる。ヒルデガードは、作り物の悲恋を王宮の事実へ変える方法を見つけた。

 

「民衆が熱狂し、涙を流しているその舞台の上で。完璧な傀儡となったセシリアに、こう語らせなさい。『私は王家の品位と、グラクト殿下への真実の敬愛のために、過去の婚約を清算し、自ら殿下の傍に仕えることを望みます』と」

 

 劇の物語と現実が重なる瞬間、観客はそれを『物語が王宮に認められた美しい真実』として受け取る。熱狂はそのまま同調の圧力となり、王都全体へ広がっていく。

 

「数千の民衆と貴族が熱狂し、涙して証人となるのよ。その熱が頂点に達した場で、前宰相が『娘は脅されている』などと水を差せるはずがない。もし否定すれば、ヴァルメイユ侯爵家は『美しい愛を引き裂こうとする冷酷な家』として、王都中の非難を浴びることになる」

 

 ヒルデガードは、王宮の品位と大衆の熱狂を同じ舞台に乗せようとしていた。前宰相が家の理屈で迫るなら、彼女は王都の物語で押し返す。

 

「前宰相の横槍が届く前に、物語を現実に固定してしまうのよ。手配を急ぎなさい。数日後、私が直々にセシリアを連れて劇場へ赴くわ。劇場の支配人への通達と、第一側妃の護衛を手配なさい」

 

 侍女が足早に部屋を辞していくと、私室には再び静寂が戻った。窓に映る自分の姿を見つめながら、ヒルデガードは勝利の形をすでに見ていた。

 

「さあ、見せてあげるわ。王宮の理屈など、熱狂する大衆の物語の前では無力だということを」

 

 彼女はまだ知らない。自らが最高の一手と信じて用意したその舞台こそが、第二王子リュートの冷徹な策にとって、第一側妃宮を空けさせるための最も都合のよい罠になるということを。

 

 

 

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