リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 私情を制度へ変える者
王宮、第一王子執務室。
分厚いオーク材の扉で閉ざされた室内には、羊皮紙を繰る乾いた音だけが響いていた。
第一王子グラクトは、執務机に山と積まれた書類の束に目を通し、疲労の滲む息を吐き出した。彼の向かいには、側近であるエドワルド・シーン・カルネリアが控え、次々と新たな決裁書類を提示している。
現在、グラクトは後宮派閥から意図的に距離を置き、王宮実務を基盤とする「第一王子派」の確立に奔走していた。ゼノビア侯爵家の限定復帰による王都治安の再編も、新たな第一王子付き近衛の配置も、後宮の後ろ盾から離れ、第一王子自身の責任で権力を組み直すための作業だった。
その作業は膨大であり、グラクトの目は王宮実務の足元へ向いていた。だからこそ、第一側妃宮という「後宮の奥底」で何が起き、王都の街でどのような物語が大衆の熱狂を集めているのかを、彼はまだ正確には把握していなかった。
そこへ、唐突な面会の申し出がもたらされた。
「――アイゼンガルト侯爵家嫡男、レオンハルト・デイル・アイゼンガルト様より、第一王子殿下への緊急の面会願いにございます。婚約者に関わる件である、と」
侍従の声には、明らかな戸惑いが混じっていた。
春期休暇で王立学園から帰還したばかりの元帥家の嫡男が、家門を通した正式な手続きも踏まず、挨拶ではなく「婚約者の件」で直答を求める。それがどれほど異例で、重い意味を持つ行動か、グラクトにもすぐに理解できた。
「通せ。人払いをしろ」
グラクトは即座に書類を脇へ押しやり、応接の椅子から立ち上がって正面から彼を迎える態勢を整えた。
ほどなくして入室してきたレオンハルトは、王宮に上がるための正装ではなく、街を歩き回った土埃の匂いを微かに残す、地味な外套姿のままであった。その装いそのものが、彼が実家へ戻って筋を通す時間すら惜しみ、己の目で見た「異常」をそのまま叩きつけに来たのだという、武門の嫡男としての嘘偽りない切迫感を示していた。
「急だな、レオンハルト。婚約者に関わる件と聞いたが」
グラクトは王族としての威厳を保ちつつも、決して見下すような響きを含ませずに問いかけた。少なくとも、逃げずに話を聞くという姿勢を示すために。
「はい。本日、私は第一側妃宮にてセシリアと面会いたしました。その上で、婚約者として申し上げたいことがあります」
レオンハルトの言葉は真っ直ぐだった。そこに私怨の激情はない。だが、剣を抜かぬ代わりに、決して退かぬという岩のような重さがあった。
「面会そのものに異を唱えるつもりはありません。礼も守られ、茶会の形式も整っていた。表向きには何も崩れておりません。ですが、婚約者として断言します。あれは正しい面会ではありませんでした」
「……どういう意味だ」
礼も茶会の形式も整っていた面会を、レオンハルトはあえて正しくないと言い切った。作法の不備ではない何かがある。グラクトはそう受け取り、問いの続きを促した。
「行儀見習いそのものを否定しているのではありません。セシリアが自分の意思で続けると望むなら、礼法を学ぶこと自体に異論はない。ですが、今日の面会では、その教育の論理が、婚約者との私的な時間にまで入り込んでいました」
ここで感情が先に立てば、婚約者のわがままと受け取られる。レオンハルトはそれを分かっているからこそ、一度だけ短く息を吸い、怒りではなく事実として、見たままを告げた。
「茶は侍女が淹れ、王宮での暮らしを尋ねた時には、セシリアは答える前にまず侍女の顔色を窺った。学園の思い出を語っても、そこには以前のような自然な反応は一切ありませんでした。あの場で彼女は、婚約者の前で少しでも肩の力を抜くことさえ許されていなかった。……私は、第一側妃様を告発しに来たのではありません。証拠もなく陰謀を語るつもりもない。ですが、あのままでは、セシリアは礼を学ぶのではなく、私的な場でまで王宮向けに自分を取り繕うことを覚えさせられる。そうなれば、あの人はもう、あの人のままでいられません」
グラクトは眉をひそめた。王家の品位を保つための礼法は厳しい。だが、その厳しさと、婚約者の前でさえ自然な受け答えを許されない管理とが、どこで分かれるのか。彼はまだ、その境目を掴み切れていなかった。
「お前は何を望むんだ。実家へ返したいのか。行儀見習いをやめさせたいのか」
その問いは、グラクトがまだ制度上の選択肢でしか問題を見ていないことを示していた。レオンハルトは怒りを押し殺したまま、問いの向きそのものを正した。
「問題はそこではありません。セシリアが自分の意思で続けるなら、行儀見習いを即刻やめさせろとは申しません。私が問いたいのは、今の体制です。婚約者との私的な面会にまで王宮の管理を持ち込み、自然な受け答えすら許さぬこと。それを教育の名で続けるなら、もはやそれは品位ある礼法ではない。……それに」
行儀見習いの体制だけなら、まだ王宮内の管理として語れた。だが、王都で流布する劇の話に移ると、レオンハルトの黒曜の瞳に、抑えきれない怒りが初めて揺らめいた。
「殿下はご存知ですか。今、王都の街で何が起きているかを。彼女と殿下を巡る不可解な悲恋の劇が連日上演され、大衆はそれを事実のように受け取り、熱狂しています。あろうことか、私が二人の真実の愛のために身を引くという、悪趣味な筋書きまで用意されて」
「なっ……劇、だと?」
グラクトの表情が硬直した。自身の与り知らぬところで、自分と他家の婚約者の物語が大衆の娯楽として消費されているというのか。
「私は、あの人を王宮から奪いたいのではありません。ただ、婚約者との面会でまで自分を取り繕わねばならない状態を続けさせたくないのです。彼女が本人の意思とは無関係に、王家に都合のよい美談の道具として扱われ、心を壊されるのを見過ごせない。……あれでは、第一側妃宮がセシリアへ礼を教えているのではなく、セシリアという人間を、都合のいい人形へ作り替えているだけだ」
――自我を奪われ、都合のいい人形へと作り替えられる。
――王家の都合の良い物語の道具として消費される。
血のように赤い夕焼けに染まる王宮の窓辺で、グラクトはビロードのカーテンの隙間から、あの忌まわしい離宮へと足早に向かう近衛騎士セオリス・デイル・ゼノビアの背中を見下ろしていた。
グラクトは知っていたのだ。実母である第一側妃ヒルデガードが、自らの後宮での権勢を固めるため、そして息子の傷ついた尊厳を回復させるという大義名分のもと、グラクトにとって兄同然であったセオリスを巧妙に唆し、扇動したことを。
セオリスは母の筋書きの中で「第一王子のために第二側妃ルナリアに罰を与える狂犬」として使われ、グラクトはそれを止めなかった。
己の尊厳を傷つけられた惨めな現実から目を背け、他者の暴力に身を預けて自尊心を満たそうとした。微かな罪悪感から逃げるように、己を甘やかしてくれる第三側妃ソフィアの宮へと逃げ込んだ時、グラクトは現実の凄惨な闘争から完全に目を背けた。
その逃避は、完全なる「傍観者」への退廃だった。グラクトが現実から目を背けている間に、ルナリアは死に、セオリスはすべての罪を被って破滅した。
己の責任から逃げ、母の陰謀を「見て見ぬふり」をした代償として、グラクトは最も信頼していた兄貴分が母の策謀の中で都合よく消費され、切り捨てられるのを見殺しにしたのだ。
そして、その「他者の人生を平然と消費する王家の構造」への絶対的な服従姿勢と無自覚な傲慢さこそが、レティシアから向けられたあの決定的な「生理的嫌悪」の正体なのだと、グラクトは考えていた。
(母上は……また、同じことをしているのか)
自らの権勢を盤石にするため、今度は大衆の熱狂という舞台を用意し、元帥家の婚約者を都合の良い人形に仕立て上げようとしている。かつてセオリスを狂わせた母の毒が、今はセシリアという令嬢の自我を殺し、レオンハルトからその未来を奪おうとしている。
グラクトの胸を焼いているのは、単なる正義感ではなかった。レティシアの軽蔑を拭い去り、自分が母の筋書きに踊らされるだけの傍観者ではないと証明したい。その意地が、セシリアの危機と四年前の罪悪感を結びつけていた。だからこそ、見過ごせなかった。第一側妃宮で再び人の尊厳が王家の都合に呑み込まれるなら、グラクトはまた同じ場所で立ち尽くすことになる。
「……分かった。お前の話を、若い婚約者の感情として流すつもりはない。今の扱いが本当に正当な教育の範囲にあるのか、それとも別の意味を帯びているのか。俺の責任において見極め、必ず対処する」
グラクトの口から絞り出された声には、単なる政務処理では済ませない熱と決意が滲んでいた。即時解決を約束する言葉ではない。それでも、第一王子としてこの訴えを無視しないという意思は、レオンハルトに伝わるだけの重さを持っていた。
レオンハルトは深く頭を下げ、静かに部屋を辞していった。
◇
重厚な扉が閉まり、室内に再び静寂が戻ると、レオンハルトの前で押し留めていたものが切れた。グラクトは執務机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
「エドワルド! 第一側妃宮へ行くぞ。今すぐだ!」
「お待ちください、殿下」
血相を変えて扉へ向かおうとする主の前に、側近であるエドワルドが静かに、しかし巌のように立ち塞がった。
「どけ、エドワルド。俺は四年前、母上の企みを見て見ぬふりをした。俺が現実から逃げたせいでセオリスは壊れ、ルナリア様は死んだ。……今度もまた、俺のあずかり知らぬところで、母上が誰かの人生を権力の道具として作り替えている。これを放置すれば、俺は永遠に母上の呪縛から逃れられない! 俺はもう、何一つ見過ごすつもりはない!」
その叫びは、長年抱え込んできた深い傷の吐露であり、母の呪縛を断ち切ろうとする第一王子の決意でもあった。
エドワルドは、その激情を正面から受け止めながらも、扉の前から動かなかった。主が傍観者であることをやめようとしている。その変化を認めているからこそ、彼はここで退くわけにはいかなかった。
「……殿下が過去の過ちと向き合い、母君の呪縛を断ち切ろうとされていることを、臣下として誇らしく思います」
エドワルドの声はひどく静かだった。だが、そこには一切の甘えも逃がしもない。
「しかし殿下。お言葉ですが、今ここで殿下が怒りに任せて後宮へ踏み込めば、それは単なる『暴君の振る舞い』に他なりません。考えてもみてください。このローゼンタリア王国において、国家の秩序を保つものは何ですか。それは王族の『品位』と、国王陛下の裁定によって連なる『制度』と『序列』のみです。……ならば問います。殿下は今、いかなる権限と大義名分に基づいて、第一側妃宮へ踏み込もうとされているのですか?」
その問いは、踏み出しかけた足から根拠を奪った。グラクトは、怒りでは答えにならないことを悟り、息を呑んだ。
「現在、殿下は第一王子派として立ち上がったばかりです。ここで殿下が『母の企みを許せないから』『己の罪悪感を清算したいから』という私情で後宮へ介入し、婚約済みである元帥家の令嬢を王妃殿下の裁定もなく第一側妃宮から引き取れば、外からはどう見えるか。……『第一王子は、大衆の噂に乗じ、己の権力で元帥家の婚約者を私物化した』と、疑念が確信に変わります」
エドワルドの冷徹な政治的分析は、グラクトの足元を鋭く抉った。
「殿下に真に救う意図があったかどうかなど、大衆や貴族には関係ありません。伴侶を守れぬ男を恥とするアイゼンガルト家に対し、『王家は己の都合で他家の婚約者をも呑み込むのか』という疑念が生じれば、第一王子派そのものへの致命的な不信になります。軍が敵になる必要はありません。殿下が私情で秩序を破壊したと見なされること自体が、王家の品位を失墜させ、殿下の政治基盤を焼き尽くすのです」
正義感だけでは人を救えない。感情のままに権力を振るえば、新たな暴力になる。ここでグラクトが私情を理由に後宮へ踏み込めば、セオリスを死に追いやった母の傲慢さと同じものを、自分の手で繰り返すことになる。
「……では、どうすればいい。俺は、これ以上自分の周囲で誰かが消費されるのを黙って見ているつもりはない。俺の痛みが理由だとしても、あのままセシリア嬢を放置し、母上の呪縛に屈することはできない!」
問い返した声には、己の無力さに対する深い苦さが滲んでいた。何も知らぬまま座っていれば、母の筋書きを受け取るだけの者にされる。だからといって感情で動けば、今度は自分が暴君になる。その逃げ場のなさを、グラクトは初めて自分のものとして理解し始めていた。
エドワルドは、その苦悩を見逃さなかった。だからこそ、答えを私情の言葉ではなく、この国の統治の言葉で置いた。
「私的に助けてはなりません。私情で押し通せば、それは品位の崩壊です」
その一言は冷酷に響いたが、エドワルドはそこで言葉を止めなかった。
「殿下。制度とは、感情の暴走を縛り、正当な手続きと形式によって秩序と品位を守るためにあります。必要なのは、殿下個人の怒りによる救済ではありません。第一側妃様の単独管理を、後宮制度の内側から崩すことです。誰が見ても、王家が制度を用いて秩序を正しただけだと分かる形にしなければならないのです」
「……母上を抑えるだけでは足りない、ということか」
「足りません。内部で丸めれば、隠蔽したと見なされます。殿下お一人の判断で第一側妃宮を抑えるのではなく、後宮の秩序そのものを動かす必要があります。……王妃殿下に裁定を仰ぐべきです」
王妃マルガレーテの名が出た瞬間、グラクトは反射的に言葉を失った。国王陛下の神聖な血統を支える後宮において、王妃は国王と並ぶ存在ではない。それでも、側妃たちを束ね、王家の血統と品位を乱す行為を裁く権限は、第一側妃であるヒルデガードの上にある。
「第一側妃様が大衆を煽り、元帥家との間に無用な亀裂を生むなら、それは母子の争いではなく、後宮の管理責任に関わる問題になります。殿下は怒りを堪え、第一王子として事実を集め、王妃殿下に裁定を仰ぐ。制度を正しく機能させることこそが、王族として品位ある戦い方です」
グラクトは低く、長く息を吐いた。母を止めるために、母ではなく王妃殿下の裁定を仰ぐ。その苦さを避けていては、母の呪縛を断ち切ることはできない。レティシアの軽蔑を拭い去り、己の足で立つためにも、今ここで必要なのは獣のような感情の暴走ではなく、統治者としての理知と品位だった。
「……わかった。すぐに劇の全容と第一側妃宮の動きを徹底的に調査しろ。その事実を大義名分として整え、俺が直接、王妃殿下に裁定を仰ぐ」
セシリアの件はもう、後宮の内輪で済ませてよい令嬢教育ではなかった。第一王子派の形成にも、元帥家との婚約秩序にも、王家の管理責任にも触れる。だからこそ、グラクトは私情ではなく、王家の制度を通して動かなければならなかった。
グラクトは、セオリスへの痛切な罪悪感も、レティシアへ証明したい己の意地も、表には出さなかった。それらを「第一王子」という仮面の下に押し込め、制度と品位という見えない鎖を武器に変える。
明文化されたルールなき国で、彼は初めて、自らの意志で権力の残酷な行使を引き受けようとしていた。