リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第5話『物語に奪われる者たち5』

5 王妃の一線

 

 第一王子執務室。

 グラクトの命を受け、王都の市井と王宮内の動向を探っていたエドワルドが、調査結果を携えて帰還した。

 

「――結論から申し上げますと、巷で大流行している連続劇は、単なる大衆の扇動ではありません。アイゼンガルト侯爵家とヴァルメイユ侯爵家に対し、『婚約破棄』を飲ませるための周囲を固める工作である可能性が高いと具申いたします」

 

 卓上に広げられた数枚の報告書は、いずれも噂の出所と広がり方を追ったものだった。エドワルドは感情を挟まず、王宮が動ける事実だけを選び取る口調で報告を始めた。

 

「劇の登場人物は架空の名称に置き換えられていますが、原案となった手記の作者がセシリア嬢であること、そして彼女が現在、王宮で行儀見習いに入っているという状況の一致を、第一側妃殿下の陣営が意図的に噂として流布しています。不敬に問われぬよう物語という体裁を取りながら、大衆の同調圧力を極限まで高め、宰相家が自ら婚約破棄を申し出ざるを得ない状況を作る。それが本来の狙いでしょう」

 

 その説明には、まだ欠けているものがあった。世論だけで宰相家が娘を差し出すなら、現宰相はあまりにも脆すぎる。

 

「だが、宰相家が世論の圧力だけで簡単に娘を差し出すか? 現宰相が、そこまで臆病だとは思えないが」

 

「仰る通りです。ゆえに、第一側妃殿下は現宰相の『致命的な弱み』を握り、直接的な脅迫と世論誘導の両面から彼を追い詰めていたのだと推測されます。……しかし殿下、数日前に現宰相が『急病による辞任』をし、前宰相が『復帰』したことはご存知ですね。もしあれが病ではなく、当主である前宰相が現宰相を強引に切り捨てた結果だとするならば……一連の事態は、一つの因果で説明できます」

 

 その仮定を置いた瞬間、噂と辞任と劇の過熱は、別々の出来事ではなくなった。エドワルドは、第一側妃が失った脅迫材料と、急がざるを得ない理由を一つずつ並べていく。

 

「第一側妃殿下が『現宰相を脅迫する』という最大の手段を失ったと仮定すれば、彼女の現在の焦りも説明がつきます。このまま待てば、復帰した前宰相が当主の権限でセシリア嬢を引き戻そうとするでしょう。それを阻止するため、第一側妃殿下は前宰相の正規の手続きが通る前に、この劇の大衆の熱狂を利用して、セシリア嬢本人に『公の場で』婚約解消と第一王子への奉仕を受け入れる意思を示させる……その強行突破に出る蓋然性が極めて高いと考えます」

 

 その結論に、グラクトの背筋を冷たいものが走った。推測の域を出ないとはいえ、もしそれが真実であれば、セシリアは目前に迫った公の場で、王家の都合の良い人形として自らの未来を捨てる宣言をさせられることになる。

 

「……確証はあるのか?」

 

「ありません。後宮の壁は厚く、第一側妃殿下の真意を裏付ける物証は手に入りません。ですが、最悪の事態が迫っていると仮定して動かなければ、取り返しがつかなくなります」

 

 不確実な情報の中で、最悪の事態を想定して決断を下す。それが上に立つ者の責任だ。グラクトは己の激情を冷徹な意志の底へ沈め込み、深く頷いた。

 

「『大衆の熱狂を利用し、元帥家嫡男の婚約者を王宮の都合で婚約解消へ追い込むような真似は、軍部との間に無用な亀裂を生み、国家の品位と秩序を致命的に損なう』……俺は第一王子として、この外形的な事実と制度の大義名分のみを武器に、王妃殿下に裁定を仰ぐ」

 

   ◇

 

 午後。グラクトとエドワルドは、本宮の奥深くに位置する王妃マルガレーテの執務室を訪れた。

 

 豪奢だが一切の無駄がない室内で、王妃は手元の書類に署名しながらグラクトの進言を聞き終えた。視線を上げない態度は無関心ではなく、王宮の制度を預かる者として、私情で反応しないという意思表示だった。

 

「――……ゆえに、王家の品位と元帥家との離間を防ぐためにも、大衆を扇動する劇への対処と、第一側妃宮による行儀見習いの本旨を超えた利用をお願いしたく存じます」

 

 ここでレティシアやセシリアへの感情を出せば、王妃は動かない。そう理解していたからこそ、グラクトは私情を封じ、王家の品位と軍部との離間という名目だけで進言を終えた。

 

 返ってきたのは、グラクトの進言を否定するための冷たさではなく、王宮が推測で制度を曲げないための厳しさだった。

 

「巷の劇が過熱していること自体は、わたくしも把握しています。ですがグラクト、貴方は王宮の『制度』というものを根本的に勘違いしています」

 

 そこで初めて、王妃は羽ペンを置いた。王宮の制度を預かる者として答えるためである。

 

「よいですか。一つ、セシリア・ミント・ヴァルメイユは王命によって拉致されたのではありません。宰相家からの正式な申し出により、『自ら望んで』王宮へ行儀見習いに参じたのです」

 

「それは……第一側妃が裏で仕組んだ脅迫の結果である蓋然性が――」

 

「推測や噂は事実ではありません。王宮は、残された事実と形式のみで動きます」

 

 その言葉を認めれば、王宮は推測だけで他宮の管轄へ踏み込むことになる。だから王妃は、グラクトが感情に寄せる前に、制度上扱える事実の範囲をそこで区切った。

 

「二つ。行儀見習いとは、本人が選択した宮の作法と品位を学ぶ場です。第一側妃宮を選んだ以上、彼女の扱いは第一側妃の管轄に属します。いかにわたくしであろうと、王家の制度に反する明確な規律違反の証拠がない限り、他宮の教育方針に口出しすることは品位を欠きます。……大衆の噂や推測だけで王宮が正規の制度に干渉するなど、それこそ王家の品位を損なう愚行です」

 

 それは、王宮の秩序を預かる者としては極めて正しい「原則論」であった。王家の絶対性を保つため、いかなる事情があろうとも、外聞や推測で制度を歪めることは許さない。

 

 マルガレーテにとって、これは一人の令嬢を救うかどうかではなく、王宮が推測で制度を曲げるかどうかの問題だった。その原則を崩せば、次に救えなくなるのは、セシリアとは別の誰かになる。だからこそ、王妃はここで私情を見せることができなかった。

 

「さらに、セシリア・ミント・ヴァルメイユだけを特別扱いすれば、他の令嬢たちにも悪しき前例を作ることになります。『巷で噂になれば、王宮の教育を逃れられる』と。……王家は、大衆の噂に制度を従わせるわけにはいきません」

 

「ですが、王妃殿下! このままでは第一側妃が――」

 

 グラクトがなお第一側妃の悪意を訴えようとした瞬間、王妃は別の原則を差し出した。王宮が助けることはできない。だが、本人の意思として成立する道まで塞いではいない。

 

「ただし……最後に、行儀見習いは、あくまで令嬢本人の研鑽の場であり、監禁ではありません。……ゆえに、セシリア本人が、自らの意思で『帰還』を申し出るのであれば、王宮がそれを無理に留める理由はありません」

 

 王妃にとって、それは救済の命令ではない。王宮が制度を曲げてセシリアを助けることはできないが、本人が帰る意思を示したなら、その帰還を妨げる制度も存在しない。応じるなら、自分でその意思を取りに行き、自分で後始末を負いなさい。王妃が残したのは、その一線だった。

 

 その一線の意味を、グラクトより先にエドワルドが理解した。これ以上食い下がれば、王妃が残した道まで失われる。彼は即座に一歩前へ出て、主の言葉を遮る位置で深く頭を下げた。

 

「……寛大なるご裁定、並びに王宮の制度に関する深き御教示、心より感謝申し上げます。王妃殿下の御意、しかと賜りました。第一王子殿下、これ以上はお時間を頂戴するわけにはまいりません。退室いたしましょう」

 

「……っ、あ、ああ」

 

 グラクトはまだ、王妃の言葉を拒絶としてしか受け取れていなかった。だが、エドワルドの制止する視線に気づき、ここで問いを重ねれば得たものまで失うと悟る。唇を噛み締め、深く一礼して執務室を後にした。

 

   ◇

 

「エドワルド! なぜ止めた! 結局、王妃殿下は動いてくださらなかったではないか!」

 

 自室に戻っても、グラクトはまだ裁定を勝敗として捉えていた。王妃が動かなかったことだけを見て、残された道を見落としている。その誤解を正すため、エドワルドは静かに首を横に振った。

 

「いいえ、殿下。我々は、第一側妃殿下の管轄からセシリア嬢を帰還させるための根拠を得ました。王妃殿下は、制度の中で唯一残された道をお示しになったのです。これは、第一側妃殿下がどれほど引き留めようと、セシリア嬢が宮を出る正当な権利を、後宮を統べる王妃殿下が認めたということです。この根拠があれば、王宮に対する責任の置きどころを作れます」

 

 そこでようやく、グラクトは王妃の言葉が拒絶だけではなかったことに気づいた。だが、道があることと、セシリアがその道を自分で選べることは別だった。

 

「しかし、セシリア嬢は第一側妃宮の奥深くにいる。そもそも、行儀見習いを途中で投げ出すなど、令嬢にとっては重大な不名誉だ。宰相家である実家も、体面のためにそれを許さないだろう。……それに彼女は、実家を人質に取られている」

 

「殿下。これもあくまで私の推測ですが……レオンハルト殿の証言によれば、彼女は婚約者の前でさえ極度に監視を気にしていました。もし第一側妃宮が、彼女に対して徹底した『情報統制』を敷いているのだとすれば。……数日前に現宰相が辞任し、『脅迫の材料が無効化されている』という事実に、彼女自身が気づいていない可能性があります」

 

「なんだと?」

 

「もし彼女が今もなお、『自分が従わなければ実家が破滅する』という過去の幻影に縛られ続けているのだとすれば。その状態の彼女が、名誉という重圧を跳ね除け、自分から『帰ります』などと口にできるはずがありません」

 

 推測の域を出ない話だ。だが、その推測が事実だとするならば。

 

 脅迫が終わっていることも知らず、愛する者たちを守るために、孤独な密室で己を殺して耐え続けている。その残酷な構図に、グラクトは胸が締め付けられる思いがした。

 

「エドワルド。その仮説が事実である確証はあるのか」

 

「ありません。ですが、事実でなくとも彼女が自発的に帰還を申し出る可能性は限りなくゼロに近い。本人の口から『帰還の意思』を引き出さねばならない以上、正規の手続きを待つ猶予はありません」

 

 エドワルドは、感情を挟まず、現状の袋小路を示した。王宮の制度は「本人の意思による帰還」を認めているが、本人は名誉の重圧と、第一側妃宮が与えた情報だけによって心を縛られ、物理的にも隔離されている。

 

 正規の手続きでは間に合わず、本人の意思も密室の中に封じられている。残る手段が王宮の秩序を傷つけるものだと分かっていたからこそ、グラクトの声は低く沈んだ。

 

「……外から強引に引き剥がし、彼女に真実を伝えるしかない。だが、俺が第一王子派の近衛を使って後宮に踏み込めば、それは母上への武力行使となり、後宮秩序を乱し、王妃殿下は許さない」

 

「ええ。武力行使は行わないこと。これが王妃殿下が許容する限度でしょう」

 

 第一王子の命令として動けば、王宮への武力行使になる。だが、婚約者を救うために一人の男がすべてを投げ打つなら、王家はその行為を後から制度の中へ引き戻す余地を持てる。そこで浮かんだのは、自分に直談判してきた若き武門の獅子の顔だった。

 

「……レオンハルトか。あいつを呼べ。セシリア嬢を連れ出す覚悟があるのか、直接問う。……推測に命運を懸けるのは危険だ。だが、もしお前の仮説が真実で、俺がまたそれを『確証がないから』と見て見ぬふりをすれば……俺は、ルナリア様の時と同じ過ちを繰り返すことになる」

 

 王妃が示した道は、誰かが本人の意思を取りに行き、その後の責任を負わなければ成立しない。四年前に傍観者であった自分が、今度こそその責任の側に立つのだと決めて、グラクトは言葉を続けた。

 

「レオンハルトが、すべてを投げ打ってでもセシリアを第一側妃宮から連れ出す覚悟を決めるなら。……その後の王宮に対する責任――『あれは略奪ではなく、本人の意思による正当な帰還であった』と事後処理をつけ、宰相家と第一側妃宮の反発を封じ込める役目は、俺が背負う」

 

 それは、四年前の過ちに対する、彼なりの決死の贖罪であった。

 

 不確実な情報の中でリスクを引き受け、それでもセシリア本人の意思を取り戻すために自ら泥を被り、責任を背負う。

 

「……承知いたしました」

 

 不確実な情報から逃げず、自ら責任の側へ踏み出すことを選んだ若き主に、臣下としての最大限の敬意を込め、深く頭を垂れた。

 

 

 

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