リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 刻限
第一側妃宮の奥深くに設けられた、豪奢な教育室。
分厚い絨毯の上に立つヴァルメイユ侯爵家令嬢セシリアは、一切の感情を排した完璧な淑女の微笑みを顔に貼り付け、渡された一枚の羊皮紙を読み上げていた。
「――すべては、第一王子グラクト殿下の御光を支えるため。そして、ローゼンタリア王国の気高き品位をお守りするため。わたくしは王家の文化事業への後援に深く感謝すると共に、自らの意思で、新たな道を選びます。過去のしがらみを清算し、グラクト殿下のお傍に仕えることこそが、わたくしの真実の愛にして、至高の喜びでございます」
銀の鈴を転がすような、透き通った声。
そこには、かつて北の地で武門の嫡男に向けたような無邪気な明るさも、婚約を破棄させられることへの悲壮感も、一切含まれていない。
ただ、書かれた台本を、最も美しく、最も王家の品位にかなう発声と抑揚でなぞるだけの、精巧なビスク・ドール。それが、現在のセシリアの姿であった。
長椅子に腰を下ろした第一側妃ヒルデガードは、扇の向こうで極上の笑みを浮かべ、パチパチと優雅に手を叩いた。
「ええ、素晴らしいわ、セシリア。以前の貴女はまだ過去への未練を捨てきれていなかったけれど……今の貴女は、まさに第一王子の傍に咲く『白百合』に相応しい、完璧な品位を備えているわ」
「お褒めに預かり、光栄に存じます、第一側妃殿下」
セシリアは一片の乱れもない優雅な淑女の礼で応じた。
その暗く沈んだ瞳の奥で、セシリアが宮の構造を測り、第二王子陣営へ通じる細い道を守っていることなど、ヒルデガードには微塵も読み取れなかった。ヒルデガードの目には、セシリアは「実家を人質に取られ、完全に自我を砕かれた都合の良い人形」にしか映っていなかったのである。
「教育はこれで完了とするわ。よくここまで耐え抜いたわね。数日後。王都の中央劇場で、今大流行している連続劇『白百合の檻と暁の星』の最終公演が上演されるわ。貴女には、その舞台挨拶に『特別な登壇者』として登壇してもらう。表向きは、貴女が第一側妃宮での立派な教育の成果を示し、王家の文化事業に対して感謝を述べる場よ。……けれど、貴女が先ほどの言葉を何千という観客の前で口にすれば、大衆はどう受け取るかしら?」
「……劇の物語が、現実の王宮に認められた『真実』であると、大衆は理解いたします」
ヒルデガードは立ち上がり、セシリアの白磁のような頬を扇子でそっと撫でた、満足げに頷いた。
「何千という民衆と貴族が熱狂し、涙して証人となるの。その圧倒的な熱狂の前では、いかに前宰相が復帰しようと『娘は脅されている、婚約破棄など認めない』などと無粋な横槍を入れられるはずがない。もし否定すれば、ヴァルメイユ侯爵家は『真実の愛を引き裂こうとする冷酷な悪役』として、王都中から石を投げられることになる」
前宰相が正規の手続きで後宮へ踏み込む前に、大衆の熱狂で『真実』を先に固定する。それが、ヒルデガードの選んだ強行策であった。
「さあ、お前の新しい未来は目前よ、セシリア。最終公演の舞台の上で、お前のその美しい口から、過去を捨てる宣言を響かせなさい」
「……はい、第一側妃殿下の御心のままに、それこそが私の喜びです……」
セシリアは深く頭を垂れた。支配は成ったと確信したヒルデガードは、勝利の美酒に酔うように、優雅な足取りで部屋を後にした。
◇
翌日。王都は前代未聞の熱狂に包まれていた。
第一王子と侯爵令嬢の悲恋を美化した連続劇『白百合の檻と暁の星』。その千秋楽の公演に合わせて、中央劇場の支配人名義で大々的な「告知」がばら撒かれたのである。
『――最終公演の舞台挨拶に、王家の文化事業を後援する【特別な令嬢】が登壇! 第一側妃宮の厳格なる行儀見習いを経て、今、真実の愛の結末が現実の舞台で語られる!』
不敬に問われぬよう実名こそ伏せられているものの、それが誰を指しているのかは、貴族から平民に至るまで火を見るより明らかであった。
『物語の真のヒロインが、ついに大衆の前に姿を現し、第一王子への愛を宣言する』
何千、何万という人々を巻き込んだ熱狂は、もはや誰か一人の声では鎮められないほど膨れ上がっていた。劇場の前には連日徹夜で席を求める者が溢れ、王都中の酒場や社交界では、その話題だけが繰り返された。
そして、この「大々的な告知」こそが、王宮内で暗闘を繰り広げる各勢力に対して、否応なく刻限を突きつける号砲となったのである。
◇
本宮の奥深く、王妃の執務室。
窓外から微かに聞こえてくる王都の喧騒を背に、王妃マルガレーテは冷然と書類に目を通していた。傍らに控える侍女は、王妃がなお書類から目を上げないことに、かえって王宮の冷たさを見た。
「王妃殿下。巷の騒ぎは、いささか度を越しております。第一側妃殿下は、明らかに大衆を扇動し、王宮の秩序を外から既成事実化しようと目論んでおられます。このまま放置されてよろしいのでしょうか」
しかし、マルガレーテの氷青の瞳には、一切の動揺も怒りも浮かんでいなかった。
「放置も何も、わたくしが巷の舞台に介入するわけにはいかないでしょう。それに、侯爵家の婚約は最終的には王家の承認を要します。それは婚約破棄についても同様です。婚約破棄に異議があるなら、国王陛下の裁定を求める訴えを提起することも可能です。」
マルガレーテは今後の手続きの流れを淡々と述べていく。彼女にとって、手続きを経なければその発言は王家にとって何らの影響も及ぼさないとの確信からであった。
「現状では第一側妃は、あくまで『行儀見習い中の令嬢に、文化事業の舞台挨拶を経験させる』という形式に則って動いています。……大衆がどう勘違いし、どう熱狂しようと、それは王宮の制度とは何の関係もない幻に過ぎません」
マルガレーテにとって、王家の絶対性を保つものは「正規の手続き」のみである。大衆の狂乱や同調圧力などという曖昧なものに脅かされ、自ら制度の壁を壊して他宮の教育に干渉するなど、王妃の品位が許さない。
「セシリア本人が、あの舞台の上で何を語ろうが、婚約に対しては何の影響も持ちません。もし彼女が婚約を破棄して第一王子の側妃となることを『自らの意思』で望むのであっても、婚約破棄には王家の承認が要り、第一王子の側妃となるには別途の認可が要ります。。……王家は、差し出された事実だけを受け、裁可の要否を判断します」
彼女は冷たくそう言い捨て、再び手元の書類へと視線を落とした。
◇
一方、第一王子執務室。
窓枠に拳を叩きつける寸前で、グラクトはかろうじてその手を握り締めていた。グラクトもまたこの最終公演で何が起きるかを薄々感じていた。
「……最終公演の舞台挨拶。3日後だと!?」
グラクトの前に立つエドワルドもまた、第一王子の怒りを制する言葉を選びかねていた。
「はい。王都に告知を行き渡らせ、熱狂を最大まで高めるための最短の日数です。第一側妃殿下は、前宰相の正規の引き渡し要求が通る前に、この3日後の舞台で全てを終わらせる腹積もりです。大衆の前でセシリア嬢に婚約破棄、またはそれに類することを宣言させれば、もはや後戻りは不可能になります」
「クソッ……母上は、本当に王家の品位もレオンハルトの家名も泥で塗り潰して、己の権力だけを固定化する気か!」
グラクトは忌々しげに吐き捨てた。
王妃が介入しない以上、グラクトが第一王子の名で直接止めれば、後宮への越権となる。。彼が介入すれば、それは後宮の規律を破壊する暴君の振る舞いとなり、第一王子派の政治的死を意味する。
「時間は無い。大衆の熱狂という見えない鎖がセシリア嬢の首に巻き付く前に、彼女自身の意思を、舞台ではない場所で確かめさせる必要がある」
グラクトの金色の瞳が、凄絶な覚悟の光を帯びる。傍観者ではなく、自ら責任を負う第一王子として立つための決断であった。
「エドワルド。急げ、秘密裏にレオンハルトをここへ呼べ。通常の方法では間に合わない……あいつに、すべてを背負う覚悟があるかどうか、俺が直接問う」
◇
そして、王宮の東の果てに位置する、離宮。
円卓を囲むように、第二王子リュート、第一王女リーゼロッテ、そして護衛ルリカが集っていた。
卓上には、王都の街で配られていた舞台挨拶の告知のビラと、セシリアが密かに送ってきた『第一側妃宮の金庫周辺の見取り図』が広げられている。
「……ついに、刻限が示されましたわね、お兄様」
リーゼロッテは、実母から忌み嫌われた色素の薄いプラチナブロンドを揺らしながらも、その金色の瞳に怯えではなく計算を宿していた。
「3日後の最終公演。何万人という観衆の歓声と、自らの勝利を確かめるため、第一側妃ヒルデガードは必ず自ら劇場へ足を運ぶ。……彼女が最も浮かれ、第一側妃宮の防備が手薄になる、唯一にして最大のチャンスが来たね」
リュートは、劇場の熱狂と後宮の空白が重なる一点を確かめるように、図面の一点を指先で叩いた。狙うのは、第一側妃が握る宰相の不義の証拠、すなわち当主の私印が押された誓約書である。それを奪い、脅迫の根を断つことが、前宰相と結んだ契約の核心だった。
「さて、みんなを集めよう。いくつかの懸念点を解消しなければね……3日後の最終公演ですべての決着をつけるために」
◇
――そして、第一側妃宮。
窓から王都の空を見下ろしながら、ヒルデガードは優雅にワイングラスを傾けていた。
「前宰相の老いぼれも、冷血な王妃マルガレーテも。……王宮の制度という鎖に縛られた者たちには、決して私を止めることはできないわ」
大衆の熱狂という無法の暴力で、王宮の制度を外側からねじ伏せる。
己の筋書きが成就すると信じながら、彼女の脳裏に浮かぶのは、忌々しい政敵たちではなく、腹を痛めて産んだ最愛の息子――第一王子グラクトの姿であった。
「グラクト……私から離れて自立しようなどという、あの可愛い反抗期もこれで終わりよ。お前のような優しい子が、この薄汚れた王宮の荒波を一人で泳ぎ切れるはずがないのだから」
彼女はうっとりと目を細め、グラスの中で揺れる赤い液体を自らの愛情に重ねるように見つめた。
「でも安心して。私が貴方のために、あなたの婚約者にはない最高に愛らしく従順な『白百合』を用意してあげたわ。……貴方はただ、私がしつらえた完璧な舞台の上で、再びこの母の腕の中へ戻ってくればいいのよ」
それが彼女にとっての「絶対の母性」であり、微塵も疑う余地のない「王族としての正しい愛の形」であった。
三日後の最終公演。
それぞれの陣営の思惑と、一人の令嬢の人生を懸けたタイムリミットに向けて、王宮は嵐の前の不気味な静けさに包まれていた。