リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第6話『虚飾の舞台へ1』

1 決別と誓い

 

 分厚い遮光カーテンが引かれた密室の卓上には、数時間前に王都中にばら撒かれた中央劇場の「舞台挨拶告知」のビラが無造作に置かれていた。

 

 蝋燭の炎が重苦しく揺らぐ中、第一王子グラクトは、人目を忍んで招き入れた若き武門の獅子――アイゼンガルト侯爵家嫡男レオンハルトと対峙していた。

 

 傍らに控えるエドワルドは、二人の感情が衝突する前に、話を制度の言葉へ引き戻す役目を自らに課していた。

 

「……3日後。連続劇の千秋楽に、セシリア嬢が特別ゲストとして登壇する」

 

 グラクトは重く乾いた声で沈黙を破り、側近へと視線を向けた。エドワルドは一歩前へ出ると、告知ビラの文面を示した。怒りではなく、王宮が扱える事実へ議論を固定するためだった。

 

「レオンハルト殿。この劇は、初めからセシリア嬢を直接奪うためのものではありません。第一側妃殿下は、現宰相の致命的な弱みを握り、婚約破棄を迫っていたと推測されます。ですが、ただ破棄させれば、軍部を背負うアイゼンガルト侯爵家との間に決定的な亀裂が入る。そこで『美しい悲恋』という世論を作り、現宰相が婚約破棄を申し出ても、ヴァルメイユにも貴家にも非難が向かない形を整えようとしたのでしょう」

 

 婚約破棄を成立させ、その後にグラクトの側妃として迎え入れる。それが本来の安全かつ確実な筋書きだった。その筋書きが崩れた理由を、グラクトは告知ビラの日付に視線を落としたまま口にした。

 

「ですが、数日前の現宰相の突然の辞任と、前宰相の復帰。これにより、第一側妃殿下は現宰相を操る『脅迫のカード』を完全に失いました。……このまま手続きが進めば、復帰した前宰相は当主の権限で確実にセシリア嬢を引き戻すでしょう。第一側妃殿下には、それを拒む正当な理由がないからです」

 

 グラクトが示した日付の意味を受け、エドワルドは話を次の危険へ進めた。

 

「前宰相の正規の手続きが後宮に届く前に、すべてを終わらせる必要があります。ゆえに第一側妃殿下は、本来は『婚約破棄の理由作り』であったはずのこの劇を、一足飛びに『側妃化の既成事実』へと転用しようとしているのです」

 

「既成事実に転用……まさか」

 

 レオンハルトの顔から血の気が引いた。婚約破棄ではなく、セシリア自身の口で婚約を捨てさせるなら、彼が守るべき相手は品位の檻の内側に閉じ込められることになる。

 

「3日後の最終公演。劇場には大衆だけでなく、多数の貴族たちも招かれているはずです。その公の場で、セシリア嬢本人に『過去の婚約を捨て、第一王子に仕える』と宣言させる。……当事者本人が公の場でそう明言してしまえば、後から前宰相が『娘は脅されていた、嘘だ』と覆そうとしても、政治的には極めて困難になります。一度公言したものを翻せば、宰相家と王家の『品位』を致命的に損なうことになるからです」

 

 公の場で一度口にした言葉は、法的な手続きを経る前であっても、貴族の品位を縛る鎖になる。第一側妃は、大衆の同調圧力と貴族たちの視線を利用し、セシリアを自分の言葉で逃げ道を塞いだ令嬢に仕立てるつもりだった。

 

「……ふざけるな。だが、なぜセシリアがそんな宣言に同意する!? あいつは……!」

 

 エドワルドは、レオンハルトの怒りがセシリア本人への疑念へ向かう前に、原因を第一側妃宮の管理へ戻した。

 

「情報統制です。第一側妃宮の奥深くにいる彼女は、『現宰相が辞任し、脅迫の材料が無効化された』という外の事実を知らされていないのでしょう。知っていれば、言いなりになる理由がない。彼女は今もなお、『自分が従わなければ実家が破滅する』という過去の幻影に縛られ、たった一人で耐え続けている……そう考えることで、面会で見えた不自然さにも説明がつきます」

 

 レオンハルトは息を呑み、拳を血が滲むほど強く握りしめた。

 

 グラクトは、レオンハルトの怒りが即座の実力行使へ向かう前に、自分たちがすでに制度の壁に阻まれた事実を差し出した。

 

「今日、私は王妃殿下に直談判を行った。母上の過剰な行儀見習いを止めさせるためだ。だが、王妃殿下は動かなかった。当然だ、王宮は、上がってきた事実をもとに動く。明確な規律違反の証拠が上がらない以上、『脅迫されているかもしれない』という推測だけで、特例で制度を歪めることは王家の品位が許さない。推測に過ぎない以上、私が第一王子の権限で後宮に踏み込むことも、舞台を直接止めることもできない。……だからこそ、貴殿に問う。レオンハルト」

 

 グラクトは一歩前へ出た。その金色の瞳には、かつての傍観者のような諦念はなく、暗く熱い炎が燃え上がっていた。

 

「3日後の舞台挨拶。満員の観衆と貴族たちが熱狂し、第一側妃が完全な勝利を確信するその劇場で……貴殿が踏み込み、セシリア嬢の『真の意思』を直接確かめ、彼女を力ずくで連れ出せるか?」

 

 それは、第一王子の口から出たとは思えない提案であった。レオンハルトも、その言葉が持つ政治的意味の重さに表情を強張らせる。

 

「……それは、第一側妃殿下への明確な宣戦布告になります。第一王子である殿下のご生母を、公の場で敵に回すということです。私は構いません。ですが……」

 

 レオンハルトは武門の嫡男としての冷徹な状況判断を口にした。

 

「もし私が舞台を破壊し、セシリアを強引に連れ出せば、大衆は『美しい恋路を引き裂いた悪役』として元帥家を憎悪し、王宮は『第一側妃の顔に泥を塗った反逆者』として私を断罪するでしょう。私個人の不名誉で済むなら安いものですが、アイゼンガルト侯爵家全体に、取り返しのつかない傷がつきます」

 

 グラクトは、少しの迷いもなく断言した。驚愕するレオンハルトを前に、グラクトは王家の秘密そのものには触れず、自分が傍観者であったという事実だけを選び取った。

 

「その不名誉と責任は、すべて私が背負う。私はかつて……自分の保身と安寧のために、王宮の陰惨な現実から目を背けたことがある。私が王家の仕組みに守られることを当然とし、波風を立てることを恐れる卑怯な傍観者であったばかりに、かつて私が兄と慕った人間は消費され、破滅した」

 

 グラクトの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。脳裏に焼き付いているのは、表向きは処刑されたとされるセオリスの真実の死であり、己の傲慢さを決定的に打ち砕いた一人の子爵令嬢の姿だった。

 

「私は、王家の制度や自分の立場を、誰もが受け入れる『正しい常識』だと疑いもしなかった。だが……その思い上がりが、一人の少女を決定的に恐怖させた」

 

 夜の温室で、自分が信じていた常識が、彼女にとってどれほどおぞましい異物であったかを思い知らされた。冷たい眼差しではない。理解の及ばない怪物を見るような目で涙を流し、唇を震わせて後ずさった彼女の拒絶が、今も胸の奥に焼き付いている。

 

 自分は高貴な王子などではなく、無自覚なまま他者の尊厳を踏み躙り、恐怖させるだけの醜悪な王家の仕組みの一部に過ぎなかったのだと、その時初めて思い知らされた。

 

「……私はもう、自分の都合のために、誰かの人生が消費されるのを黙って見ているつもりはない。私は、血統だけで交配を強いられる獣でも、母上の筋書き通りに踊る人形でもない。一人の人間として、己の足で立ち、己の責任を果たす」

 

 グラクトはレオンハルトを真っ直ぐに見据えた。王族として命じるためではない。過去の自分と同じ場所に立たないため、今度は自分が矢面に立つと示すためだった。

 

「貴殿が舞台でセシリア嬢に真実を告げ、彼女が帰還を望むなら、貴殿は彼女の盾となれ。……私は第一王子として、母上の権力と大衆の憎悪から貴殿たちを守るために矢面に立つ。いかなる不名誉も、いかなる断罪も、私がすべて我が身で受け止める。……だから、貴殿は、貴殿の譲れないものを守れ」

 

 それは、未来の国王となるべき者が、一介の貴族の嫡男に向かって頭を下げるに等しい、凄絶な懇願であった。

 

 レオンハルトは息を呑んだ。彼が知る「第一王子」とは、常に天上から光を浴びる存在であったはずだ。だが今、目の前にいる同世代の少年は、己の過去の罪から目を逸らさず、他者のために泥を被る覚悟を決めている。

 

(……この人は、自分の痛みに耐え、自ら責任を背負おうとしているのか)

 

 権力に守られた安全圏から命じるのではなく、自ら矢面に立つことを選んだ相手。その覚悟は、武門に生まれたレオンハルトが膝を折るに足るものだった。

 

 レオンハルトは、静かに、だが岩のように揺るぎない動作で片膝をつき、グラクトに向かって深く頭を垂れた。

 

「……承知いたしました、グラクト殿下。セシリアの心が暗闇に囚われているのなら、私が必ず真実を告げ、目を覚まさせます。彼女が帰る意思を少しでも示すなら、私は千万の敵がいようとも、必ず彼女を連れ戻す。……背中は、お任せいたします」

 

 この瞬間、レオンハルトにとってグラクトは、王家の権威を背に命じるだけの第一王子ではなくなった。自らも責任の矢面に立つ主君として、命を預けるに足る相手になった。

 

 二人の若き決意が交わされた密室で、エドワルドは一歩前へ出た。その誓いを感情の高まりで終わらせず、王宮が受け止めざるを得ない形へ変えるためだった。

 

「殿下、ならびにレオンハルト殿。お二人の見事なご覚悟、臣下として感服いたしました。……しかし、覚悟や感情だけでは、王宮の制度をこちらの味方につけることはできません。第一側妃殿下を打ち破るには、王家の品位に耐える『形式』が必要です。本日、王妃殿下は私と殿下に対し、一つだけ明確な言質を与えてくださいました。『セシリア本人が、自らの意思で帰還を申し出るのであれば、王宮がそれを無理に留める理由はない』と」

 

 エドワルドは、その一文だけを切り出した。王妃が拒絶の奥に残した抜け道を、今ここで武器に変えるためだった。

 

「帰還は自由である。これは後宮の絶対管理者である王妃殿下が明言した『制度の原則』です。……レオンハルト殿。貴方が3日後の舞台へ上がり、ただ無言で彼女を拉致すれば、それは完全な略奪であり犯罪となります。ですが……」

 

 エドワルドは、王宮の壁を知り尽くした者だからこそ使える、制度の隙間を突く方法を提示した。

 

「貴方が舞台の上で、満員の観衆と第一側妃殿下の前で、セシリア嬢に『脅迫の材料はすでに失われた』という真実を告げる。そして彼女が呪縛を破り、『実家へ帰りたい』と自らの口で言明したならば……その瞬間、第一側妃殿下が彼女を引き留める制度上の権限は失われます。王妃殿下の言質がある以上、帰還を望む令嬢を力ずくで留めれば、第一側妃殿下こそが『王宮の制度に違反し、品位を損なった者』となる。……貴方は略奪者ではなく、『正当な権利を行使する令嬢の護衛』へと立場が反転するのです」

 

 グラクトとレオンハルトは、その反転の意味を同時に理解した。舞台で奪うのではない。本人の意思を公に取り戻し、その意思を守る形へ変えるのだ。

 

「そしてグラクト殿下。貴方の出番はそこからです。第一側妃様が激昂し、護衛の兵を使って強引に二人を制圧しようとした場合。……殿下は第一王子の権限をもって、その場に介入してください。『王妃殿下が示した帰還の原則を守り、王家の品位を維持するため』という大義名分のもと、後宮序列において王妃殿下の下にある第一側妃殿下の暴走を止め、二人を安全に退去させるのです」

 

 これで初めて、レオンハルトの実力行使は私的な略奪ではなく、本人意思を守るための護衛となる。その上にグラクトが立つことで、危うい介入は王家の責任を伴う行為へ変わる。

 

「……なるほどな。私たちの怒りではなく、母上が利用してきた王家の制度と品位によって、母上自身を止めるというわけか。エドワルド。お前がいれば、私は暴君にならずに済む。……エドワルド。3日後の劇場の構造と、私の近衛たちの動線を直ちに確認するぞ」

 

「すでに図面は手配済みでございます。第一側妃殿下は自らの勝利を確信しているため、舞台袖の警備は、自身の息のかかった者で固めるでしょう。だからこそ、第一側妃殿下の命令系統が届かない位置を探ります」

 

 覚悟と形式がそろったことで、三人はようやく同じ図面を覗き込むことができた。深夜の執務室で、第一側妃の権力と王都の狂熱を出し抜くための作戦協議が、静かに始まった。

 

 

 

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