リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第6話『虚飾の舞台へ3』

3 白百合の決断

 

 中央劇場での舞台挨拶を明後日に控えた、深夜の本宮。

 

 第一側妃ヒルデガードの監視下で「心が折れ、完全に支配された令嬢」を完璧に演じ続けていたセシリア・ミント・ヴェルメイユは、再び本宮西翼の旧書庫へと足を踏み入れていた。

 

 案内したのは、闇に溶け込む灰髪の護衛ルリカ。そして埃っぽい閲覧机の向こうで待っていたのは、前回と同じく、第一王女リーゼロッテであった。

 

「……よく来ましたわね、セシリア様」

 

「リーゼロッテ殿下……。いよいよ明後日、最終公演の舞台挨拶に第一側妃様と共に登壇するよう命じられました。劇の終了後、舞台上で第一側妃様から直接、第一王子殿下の側妃入りを打診されます。数万の観客の前で、私に『喜んでお受けいたします』と言わせる手筈です」

 

 セシリアの顔は青ざめ、その声はかすかに震えていた。

 

 どれほど内心で抗おうと誓っていても、数万の大衆が放つ同調圧力と、隣に立つ第一側妃の権威という暴力を前にすれば、一介の令嬢など容易に押し潰されてしまう。だが、リーゼロッテは焦る様子もなく、冷え切った旧書庫の静寂の中で、淡々と事実を告げた。

 

「ええ、そのようね。……でも、セシリア様。貴女を縛っていた実家の鎖は、すでに外れているわ。つい先程、私のもとに報告が入りました。貴女の祖父君が、前宰相であるお父上に代わり、ヴェルメイユ家の当主に復帰なさいました。……祖父君は、お父上の不義の証拠を用いた第一側妃様の脅迫を退け、家門の誇りにかけて『貴女を見捨てない』という決断を下されたのよ」

 

 セシリアが大きく息を呑む。祖父が、実の父が犯した罪という致命的な弱みを切り捨ててでも、自分の側に立ってくれたのだ。

 

「祖父君は直ちに、当主の権限をもって王家へ貴女の『行儀見習いの辞退』を申し入れるはずよ。ヴェルメイユ家が貴女の意思を無視して王宮に留める理由は、もうなくなったわ」

 

 暗闇の中に差し込んだ光明に、セシリアの瞳から大粒の涙が溢れそうになる。

 

 これで助かる。実家の呪縛が消えたのだから、第一側妃の密室から解放され、レオンハルトとの未来を選ぶことができる。

 

 そう安堵しかけたセシリアに対し、リーゼロッテは冷徹な為政者の声で、法なき国が抱える最も厳しく重い『現実のルール』を突きつけた。

 

「――けれど、貴族の慣習において、一度後宮に入った令嬢を連れ戻すには、王家からの『許可』が必要になる。第一側妃様が、その許可を素直に出すはずがないわ」

 

「お祖父様が申し入れても、返していただけないのですか……?」

 

「第一側妃様も、いずれ祖父君が当主の力を使って貴女を取り戻しに来ることに気づくでしょう。だからこそあの御方は、祖父君の申し入れが王宮の表に出る前に、数万の観客の前で貴女の側妃入りを宣言させようとしているの」

 

 リーゼロッテのプラチナブロンドの瞳が、事態の核心を射抜く。

 

「明後日の舞台。もし貴女が、観客の同調圧力と第一側妃様の権力に恐怖し、押し黙ってしまえばどうなるか。……第一側妃様はそれを『本人の同意』として扱い、大衆の熱狂をもって『側妃入りの既成事実』を完成させてしまう。法なきこの国において、『王家の品位に裏打ちされた大衆の総意』は、いかなる正論や家長の申し入れをも圧殺する絶対のルールになるのよ」

 

 セシリアの顔から、再び血の気が引いた。

 大衆の感情を利用した既成事実で、状況そのものを支配する。それが、第一側妃の狙う『人治の仕上げ』であった。一度舞台でそれが完成してしまえば、後から祖父が返せと要求しても、「王家の美しい恩情に泥を塗る反逆者」として潰されてしまう。

 

「もちろん、貴女がいま帰りたいというのなら、今夜このままルリカに護衛させて、強引に貴女を王宮から実家へ逃がすことも可能よ。でもそれは、王家の許可を待たない『夜逃げ』という致命的な醜聞になる」

 

「夜逃げの、醜聞……」

 

「貴女もヴェルメイユ家も深い傷を負うし、第一側妃様は必ず『悲劇の令嬢が何者かに攫われた』という新たな物語を作り上げ、貴女たちを追及する大義名分にするでしょう。……逃げて醜聞を被るか。それとも、舞台に立ち、第一側妃様の罠を正面から壊すか。選ぶのは貴女よ」

 

 それは、弱者に与えられる無条件の救済ではない。権力の暴力から抜け出し、自分の意思で立つ者としての自立を求める過酷な選択であった。

 

「誰かが助けに来てくれるのを待つ、悲劇の令嬢に戻るのもいいわ。でも、あなたは戦ってきたでしょ。……自分の人生を、自分の意志で通したいのなら、ご自身の言葉で宣言しなさい。レオンハルト様を選びたいのなら、醜聞から逃げずに正面から運命を掴み取りたいのなら。狂乱の中心で、貴女自身が『私は第一王子殿下の側妃にはなりません』と声を上げて、第一側妃様が作ろうとしている美しい物語を叩き壊して見せなさい。あなたにはそれができる力があるでしょう」

 

 セシリアは、震える両手を胸の前で固く握りしめた。数万の観客を敵に回す恐怖。第一側妃の怒りを一身に浴びる絶望。その想像だけで、膝が崩れ落ちそうになる。

 だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、すべてを失う覚悟で自分を選んでくれたレオンハルトと、老骨に鞭打って家を立て直してくれた祖父の顔だった。

 そして、絶望な状況の中、自らが第一側妃様に知られるかもしれないのに道を示してくれた眼の前にいるリーゼロッテ殿下が抗う方法をくれた。

 

 彼らが命懸けで切り開いてくれた道、リーゼロッテ様が示してくれた道を、自分が醜聞という形に汚して逃げるわけにはいかない。あの権力による狂った物語を終わらせるのは、他の誰でもない、自分自身でなければならない。

 

 セシリアはゆっくりと顔を上げた。その瞳に浮かんでいたのは、もう庇護を待つだけの小鳥の弱さではなかった。

 

「……逃げません。私が、私の声で拒みます」

 

 掠れた、けれど確かな芯のある声が、旧書庫に響いた。

 

「祖父が作ってくれた道を、醜聞で汚すわけにはいきません。なにより、真っ暗になった自分に抗う方法を教えてくれたリーゼロッテ様に近づくためにも……舞台の上に立つのが私であるのなら、これ以上誰かに運ばれるのではなく、私自身の足で歩いてみせます」

 

「……ええ。よく言ったわ、セシリア様。でも忘れないで、わたくしは道は示しましたが、それを歩いたのはあなた自身であることを。それはあなた自身の力によるものだから」

 

 リーゼロッテは、冷徹な王女の仮面を外し、ひとりの少女としての深い敬意を込めて、優しく微笑んだ。

 

「貴女がその声で世界を拒むのなら。……私たちは、全力で貴女の意志を護るわ」

 

   ◇

 

 数時間後。王宮の東の果てに位置する離宮。

 深夜の円卓を囲む面々に対し、本宮から帰還したリーゼロッテが静かに報告を終えた。

 

「……セシリア様は、醜聞を伴う夜逃げではなく、自らの口で舞台上で第一側妃殿下を拒絶することを選択しました。彼女は、救われるだけの令嬢ではなく、己の意志を貫く一人の人間として舞台に立つ覚悟を決めました」

 

 その報告を聞き、円卓の空気が微かに、しかし確かな熱を帯びた。腕を組んでいたライオネルが、小さく鼻を鳴らす。

 

「夜逃げの手引きという甘い選択肢をチラつかせながら、自ら修羅場を選ぶよう誘導する。相変わらず、離宮の要求水準はえげつないな」

 

「自ら選択しない者を、上が哀れんで保護しても、それはよるべき場所を変えただけの権力の保護に過ぎない。……自由には、必ず責任が伴うんだ」

 

 リュートは静かに立ち上がり、円卓に広げられた中央劇場の見取り図を見下ろした。その赤い瞳には、己の足で立とうとするセシリアへの明確な敬意と、冷徹な為政者としての論理が燃えていた。

 

「彼女は、自分で声を上げるという『自由』と、それに伴う危険や醜聞という『責任』を、自分の足で背負う覚悟を決めた。ならば僕たちの役目は、彼女のその選択が、理不尽な権力や大衆の同調圧力といった予測不能な暴力によって潰されないよう、選択の『予見可能性』を担保してやることだ」

 

 権力者の気分や熱狂で運命が左右される人治ではなく、自らの責任で選んだ結果が正しく返ってくる状態を保証する。それこそが、離宮が目指す新たな社会の基盤であった。

 

 リュートの視線が、円卓の共犯者たち一人一人を順番に射抜いていく。劇場の音を奪う魔導具を携え、不敵に笑う西の天才令嬢ヴィオラリア。

 大衆に紛れる盾を用意し、悪辣な笑みを浮かべる南の次期公爵ライオネル。

 東の資本を背負い、強固な防衛線として微笑む契約者アイリス。

 過去の記録から金庫の急所を暴き出した侯爵家令嬢にして記録を読み解く実務の怪物、ユスティナ。

 そして、絶対の盾として影に潜むルリカ。

 

「条件は整った。これより離宮は、第一側妃の敷いた虚飾の舞台へ介入する」

 

 第二王子リュート・セシル・ローゼンタリアの静かな、しかし絶対的な号令が、深夜の離宮に響き渡った。

 

「明後日の最終公演。大衆の熱狂を味方につけ、すべての証拠を抉り出し――責任を伴わない『血統と品位』を崩す」

 

 

 

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